歪んだ過去
「妊娠四ヶ月ですね。厳しいけどこれからどうするかは親御さんと話し合ってください」
最近続いている異常な吐き気とだるさ。生理は何ヶ月も訪れていなかった。妊娠していると薄々勘付いてはいた。でも突きつけられる事実は私の心を引き裂いていく。お腹の中で育つのは、愛のない子供だ。私は産婦人科の先生の前で泣き崩れた。
周期を外れることなく訪れていた生理が訪れなくなったのは中学三年に上がった頃だった。直感で妊娠したのではないかと察したが、病院に行こうとは思わなかった。もし本当に妊娠したとするならば相手は間違いなく義理の兄だったからだ。その事実を受け入れる器はまだなかった。
私の父は女遊びの激しい人だった。私の実の母は物心ついた頃には家におらず顔すらわからない。そんな私には血の繋がっていない兄弟が何人もいる。父からその話は聞いた。何人いるかもわからない兄弟に私は一度も会ったことがない。
他の兄弟を引き取らずに私だけを引き取った理由は初めての子供だからという、父の我が儘だった。父の浮気が私の実母によって暴かれた時、実母は私を引き取ると言って聞かなかったそうだが、それを無理やり押し切って、父が引き取った。実母の元で育ちたかったと今更行っても埒が明かないのだが、願いがひとつ叶うならそれを神様に願うだろう。
お母さんの代わりとなる人はいっぱいいた。学校から帰ってくると知らない女の人がキッチンで料理を作っている風景を何度見たことか。いずれその風景にも慣れていき、違和感はいつの間にか消えていた。
夜中になると隣にある父の寝室から聞きたくもない喘ぎ声が何度も聞こえてくる。最初は嫌だったが、これも次第に慣れた。人間の適応能力は素晴らしい。
中学二年の秋、衣替えの季節。私がいつものように学校から帰ると、知らない制服を着た色白の男の子が私の下着の匂いを嗅いでいた。その姿が見窄らしかったことを覚えている。
私が衝撃に圧倒され、玄関に立ちすくみながらその光景を見ていると、男の子は私の存在に気付く。しばらく目が合った後、彼は私の下着を洗濯物の中に平然と隠した。そして、カバンを持ち、私の横を抜けて家を飛び出していった。泥棒かと思い、辺りを見回したが、荒らされた形跡はない。室内で干されていた私の下着だけが汚く洗濯物の間に押し込まれていた。
恐怖を感じなかったと言えば嘘になる。それでも泥棒という確証もないため私はテレビを見ながら平静を装い、新しい女性の帰りを待っていた。最近は三十代半ばの大人しそうで、肌が雪のように白い人がご飯を作りに来る。澄江という名前の人。
しばらくすると玄関のドアが開く音がした。思わず目を見開いたが、そこには買い物袋を下げた澄江さんが立っていた。
「遅くなってごめんね。すぐ準備するからね」
澄江さんは私の知らない家から持ってきたエプロンを身につけ、急いで料理に取り掛かった。
「帰ってきた時に男の子いたでしょ?」
私は頷く。
「あの子私の息子なの。仲良くしてあげてね」
私は察した。父はこの人と結婚するのだと。そしてその期限が間近まで迫っていると。
一週間後、澄江さんがいつものように帰ってきた。ただその横にはいつもいないはずの父がいた。
「今日から澄江がお母さんだからな」
私の予想より早く父は澄江さんと入籍していた。その後ろから現れたのはやはりあの下着を嗅いでいた変態だった。
義理の兄は、隆一という名前だった。歳は私より三個上の高校二年生。澄江さんが十八歳の時に産んだ子供らしい。随分若くして母親となったんだとぼんやり感じていたが、まさか私がその記録を抜くとは思ってもみなかった。
義理の兄との望まない共同生活がその日から始まった。
隆一はその後、下着の匂いを嗅ぐ行為はしなかった。私の知らない間にしていたのかもしれないが。
隆一はいじめられっ子だった。澄江さんからその話を聞いた。気が弱く、ひょろ長い見た目の彼はいじめのターゲットになる要素を兼ね備えていた。それでも学校へ通うことはやめなかったそうで、澄江さんも最初は虐められている件に気付かなかったそうだ。
隆一が中学生の頃、目の上を腫らして帰ってきたことがあった。澄江さんには転んだだけと言ったが、傷はどこにも見当たらなかった。不審に思った澄江さんが問いただしたところいじめられている旨を淡々と伝えたそうだ。
その話を聞いた澄江さんは次の日中学校へ出向き、先生たちを相手取り抗議した。普段大人しい人が逆鱗に触れた時、どうなるのか。気にはなったが詳細を聞くことはしなかった。
それから隆一は保健室登校に変わり、もういじめとは無縁の人生を送るはずだった。だが私はまだ彼が被害を受けている現実を、その後知るのだ。
隆一が虐められているのを見たのは初めての出会いから二ヶ月ほど経った頃、振替休日に友人と遊んでいた時だった。夕方の最寄り駅は下校する高校生でごった返していた。
人混みを掻き分けて、やっとのことで駅を出ると雪がしんしんと地上に降り注いでいる。傘を差しながら二人でゆっくりと帰り、途中にある公園に差し掛かった時だった。
「ねえ、あの人やばくない?」
友人の指差す先にはパンツ一枚でベンチに仁王立ちしている隆一の姿があった。私はすぐに目を逸らした。そして私に気付くなと願った。
しばらくすると、ガラの悪そうな高校生が五人ほど隆一の前に現れた。ケタケタと笑いながら隆一へと近づいてくる様に狂気を感じる。彼らは隆一に目隠しをした後、辺りを見回し、私たちの存在を知るとこちらへと小走りで向かってきた。私は反射的に友人の手を握る。
「びっくりさせてごめんね。あいつ悪いことしてさ、今ちょっと説教してるとこなのよ。申し訳ないんだけど、違うところでお話ししてもらってもいいかな?」
彼は眉毛のない人相の悪い顔で必死に笑顔を作っていた。私たちはその言葉に頷き、すぐにその場を立ち退いた。
しかし、友人はその後が気になるといい、私が何度制しても聞かなかったため、仕方なく遠くから隆一の姿を見ることにした。
彼らは目隠しされた隆一の姿を携帯で写真に収めた後、バケツに入った氷水を勢いよく、体に打ち付けた。隆一は衝撃で背中から芝生へと落ちる。痙攣したようにその体は震えていた。そして立ち上がらせることもなく、もう一つのバケツの氷水をかけた。震えている隆一の前で彼らは煙草を堂々と吸った。吸い終わると消えていない火種を隆一の体に擦り付けて消した。苦しい声は離れている私たちの場所まで聞こえてくる。大きな声を出した後に隆一は思い切り腹部を蹴られていた。声をあげてはいけない決まりなのだろう。
目の前に広がっている惨状に私は言葉を失った。ふと友人の顔を見ると、少しだけ笑っていた。彼女にも人を蔑んで喜びを感じる、歪んだ性格が潜んでいるのかもしれない。
私は友人の手を思い切り引いて、家路に着いた。その帰っている最中もあの惨劇が脳内を支配した。誰かしらがあそこを通ってくれれば、あの事態は止められたのだろうか。いや、まず私たちが止めなかったことに非がある。隆一に対する罪悪感が心を支配していった。
その日の夜、隆一は何もなかったように家に帰ってきた。顔に傷はついていない。いじめる方もプロである。
顔を合わせたくもなかったので、私はすぐにお風呂へ向かった。
お風呂から上がると家に父と澄江さんはおらず、隆一がコタツでぐっすりと寝ていた。頭の横を通り過ぎようとすると、私の足首が強い力でがっちりと掴まれる。
「今日、どこにいた?」
隆一の顔を直視できなかった。声を聞いただけで背中に戦慄が走る。
「友達と遊んでた」
「どこにいたかを聞いてるんだよ」
ドスの利いた声は私にしか出さないのだろう。自分よりも下等な生物には強く当たれるタイプ。惨めな虚勢の張り方には共感できない。
「お前が俺のいた公園を横切ったの、知ってる。この目で見た」
私の体は紐で縛られたように拘束されていた。逃げたいという気持ちばかりが前に行く。しかし、体は足に絡んだ隆一の手を振り払えなかった。
「許さない」
隆一の声が小さく聞こえた瞬間、私の足は急に後ろへと引かれた。そのまま前に体が倒れる。私の体は強い力で仰向けに体勢を変えられた。体は自然と恐怖に震えていた。隆一もいじめられている間こんな感覚を抱いていたのだろうか。
私の体は床に体重をかけて押さえつけられた。隆一は私の下着の中に手を入れて力強く下半身を擦った。濡れていない股間は摩擦で徐々に激しく痛む。
思わず顔を歪めると、隆一は私を叩いた。
「痛がるな」
そう言いながら、彼の手は私の奥へ強引に入り込んでくる。私の中を長い指がかき回している。痛かった。うめき声は自然と口を吐く。
「おい、舐めろ」
私の前に突き出された中指と薬指は血で染まっていた。処女膜が破れると本当に血が出るらしい。私が口を閉ざしていると、隆一は捩じ込むように指を入れてきた。鉄を舐めているような感覚に思わず嗚咽が溢れた。
私の唾液にまみれた手を隆一は自分でも舐めた。笑いながら舐める様は狂人そのものだった。
そのあと、私のスウェットは隆一の手によって脱ぎ捨てられた。彼も自分の下半身を曝け出し、怒張したそれが被っている皮を必死にめくり上げていた。そして私の中にそれが入る。指が入るよりももっと痛い。股が裂けたのではないかと思うほどだった。
腰が振られる度、私の奥にしっかりとそれが当たってきた。奥まで突かれると最初の痛みがなかったかのように快感へと変わる。
隆一のものが入って来ていることに嫌悪感を覚えていた。喉元を酸っぱい胃液が迫り上がってくる。私は必死に胃液を押し戻していた。
最後、隆一は激しく腰を振った後、果てたように動きを止めた。私の中に彼の白濁とした液体が注ぎ込まれている。その瞬間心のダムは決壊した。
隆一はものを抜くと、何事もなかったように平然とティッシュで拭いた。そのティッシュは濁ったピンク色をしていた。
私はただ涙を止める術だけを探していた。そんな術は考えたところで見つからない。
隆一はズボンを履き、私を見下した後、部屋へと戻った。
「親が帰って来ても何も言うなよ」
私の体に戦慄が走った。これから、一人でこの苦悩を背負わなければならない。私の感情は消えていった。お尻の割れ目に沿って、ゼリーのようなものが垂れ流れていく。憎き、隆一の遺伝子。
初めての痛みと快感はこれから先、忘れようとしても一生忘れることはない。私の初体験は好きでもない義理の兄に奪われるという最悪なものだから。
私はその後も家族の前で平然を装うことしかできなかった。両親がいれば隆一が私を襲うことはない。それが平然な心を作るためのただ一つの術だった。
ただ月に一回は必ず両親が家を空けた。私は隆一にその度犯された。最初は恐怖を覚えていたが、だんだんとその恐怖も薄れていった。それよりも私の体が隆一の身体に慣れて、受け入れようとしている現実が心の中で果てない海の底を見せていた。
様々なことを思い出している頃、産婦人科の先生は私を抱きしめていた。だが私の体が震えを止めることはなかった。先生は同性だというのに、その愛を受け入れることができない。自然に起きてしまった震えを恨んだ。
産婦人科の帰り道、私は悩んでいた。この妊娠を誰に伝えればいいのか。いや伝えられる人などいない。私の相手は義理の兄なのだから。その義理の兄を澄江さんは愛している。父は私を愛しているはずだが、この事実を伝えたら澄江さんと私のどっちを守るのだろうか。
結局、私は家に着いてから、何も言えなかった。お腹の子が明日にでも勝手に流れてくれればいいのに。そう思っていた。
あれから病院に行っていないため日数が定かではないが、やけにお腹が目立つようになった。常に訪れるだるさや腰の痛さも相まって、学校に行きたくないと心から思っていた。しかし親に連絡が来るのを恐れ、仕方なしに登校していた。
最初は全く気付かれなかったお腹も最近は友人たちが指摘する。
「お腹どうしたの?」
「あ、ちょっと便秘気味でさ」
取り繕った嘘が通用するわけなどない。友人たちは引きつった顔をして、その話題には触れなくなった。それが隔たりを生んでいく。私には何か隠し事があると思われるようになった。その友人たちはいつの間にか私の顔色を伺うようになり、話しかけられることもなくなった。
もう中絶はできないのだろうか。しかしできたとしても私にはお金がない。幼い頃にもらったお年玉をかき集めたとしても、四万円ほどしか手元にはない。私の力はほぼ無力だ。
もし中絶をするならば、両親に相談するしかない。この子供を産む自信などない。育てる愛情もない。お腹の子供は私の愛の形ではないのだから。
私は集団暴行をされたと事実を捏造して、両親へ妊娠したことを伝えた。勿論、隆一も同じ空間にいる。
父は泣いていた。何故今まで黙っていたのかと床を叩き、怒りをぶつけていた。澄江さんは、その父を見て、呆然としていた。
ただ一人、隆一だけは話を聞いても平然として、その場に座っていた。そんな話は興味が無いとでもいったように。その隆一に対しての憎悪が胸の中に渦巻いていた。
「もうすぐ五ヶ月目に入るけど、堕ろそうと思う」
冷静に私はそう述べる。私は殺人を犯そうとしている。
「五ヶ月って、もう妊娠中期よ。とても体に負担がかかるわ」
澄江さんは知ったふうな口を利いた。中絶もしたことのない人間が発する言葉に重みはない。あなたの息子に私は望まない妊娠を強要させられたのだ。
「それでも、私はこの子を産みたくはない」
「なんでだよ」
低い声を発したのは隆一だった。私はその言葉の意味を理解できなかった。
「どうしたの?」
澄江さんは隆一の肩を優しく摩った。
「なんでその子を堕ろすのか聞いてるんだ」
鋭い眼光を向けながら話す隆一に私は愕然とした。自分が何をいっているのかわかっているのだろうか。親には言うなと言ったから私は恐怖に怯え、何も伝えられなかったというのに。
「私が欲しくて授かった子供じゃない」
「産んだらいいじゃないか。母さんも父さんも助けてくれるはずだよ」
今度は柔和な笑顔をこちらに向けて穏やかに話す、狂っている。彼は何かが狂っている。自分の子供である核心を突きながら、何も言えない私を虚仮にしているとしか思えない。
「隆一、こいつは苦しんでいるんだ。簡単にそんなことを言うな」
父は今までにない剣幕で隆一を睥睨した。その表情に私は少しだけ父の愛情を感じる。
「自分の子供を産むなとは言えないだろ?」
その言葉に誰もが神経を尖らせた。一番神経を働かせたのはどうやら父だった。人の顔が瞬時に青ざめていく様を初めて見た。
遊び人の父は澄江さんとの関係を何年間も持っていた。その間に一人の子を授かったそうだ。澄江さんには長年連れ添った旦那がいたというのにも関わらず。
その時隆一は小学五年生。いきなり現れた父に対して、もう一人のお父さんはいらないと言い放った。澄江さんのお腹にいる子供の話をした時もお父さんが違うならそんな兄弟はいらないと言ったそうだ。
そんな息子の気持ちを汲んだ澄江さんは不倫関係の元に授かった命を堕ろそうと思っていたようだが、父はそれを良いとは思わなかった。お互いに恋愛感情を持って授かったものを簡単に失うことはできないと。
結果澄江さんは離婚し、父と授かった子供を育てる決心をする。隆一はそれに対して激しく反抗した。父に対して産むなと何度も伝えた。しかし、父はその隆一の言葉を子供の戯言だと思い込み、耳を傾けることは一度もなかった。
隆一の抗議も虚しく、父と澄江さんの子供は生まれた。しかし、その三ヶ月後子供は息を引き取る。乳幼児突然死症候群。冬の過度な厚着とうつ伏せ寝が原因だった。父も澄江さんも泣いた。隆一はだから産まなければよかったのにと皮肉を言った。
「自分の子供は産んでいいのに、俺はだめなのか?」
「隆一、本当にお腹の子が自分の子だと言いたいのか?」
隆一は笑いながら、何度も頷いた。その異質な雰囲気に私はまた狂気を感じる。
あれほど親には言うなと釘を刺していた隆一がまさか自分の口から真実を語るとは思ってもみなかった。それは隆一が私を利用して父に仕掛けた罠である。隆一がこうやって父を追い込み、懺悔する時を待っている。私はそれをじわじわと実感していた。
「そうだよ。こいつが俺以外の男と関係を持ってなければの話だけど」
鋭い眼光が私の目を一直線に貫く。その視線に私は怯えたまま首を縦に振るしかなかった。
「ほら?そうじゃないか。こいつの腹にいるのは俺の子供だよ」
大きく口を開けて仰け反るように隆一は笑った。その隆一の肩を父が激しく揺さぶる。
「お前、自分が何したかわかってるのか」
父に揺さぶられながらも隆一は金切り声のような笑いを止めることはなかった。
「あんたと一緒のことをした。それまでだよ」
その瞬間、石と石がぶつかり合うような音が響く。隆一の頬に父の拳がめり込んでいた。澄江さんは泣き叫ぶ。ここは今、現代に地獄を連れてきている。
「俺とお前のやってることは違う。俺はお互いに愛した人と子供を授かった。お前たちに本当の愛などないだろ」
父の言葉を聞いて、私は納得する。父と澄江さんの間には確かに愛があったのだ。愛がなければ、澄江さんのお腹の子は一度も日の目を見ずに生き絶えたのだろうから。その愛は私にも少しばかり見えていた。
あの頃家に父の姿はなく、ご飯を作ってくれる愛人の姿しかなかった。花凛という人。花凛さんは父が帰ってこなくとも、毎日夕方には家を訪れて、私に食事を作った。私が寝静まるまで横にいて背中を優しく撫でてくれる優しい人。
たまに読む絵本は画用紙をホッチキスで止めただけの簡易的なもので有名な話ではなかったが、どの絵本も可愛い絵柄と暖かい話が好きだった。
そんな父の愛人を私は今までの人とは違い、好きになっていた。父の心は花凛さんの元になかったかもしれないが。
花凛さんは父を好きだった。心の底から愛していた。私と父と三人で暮らす未来を信じていた。父がどこで何をやっているか皆目見当がつかなくても、愛しているという一言だけでこの家に来てくれていた。
それなのに父は花凛さんを裏切り、澄江さんと愛を育んで子供を作った。私は好きになった母になる人を身勝手な父の愛で捨てられた、そう思っている。
「俺の体をあんたの娘は受け入れた。それは愛と一緒じゃないのか」
違う。私は恐怖で体が動かなかっただけだ。あなたに対する愛は一切ない。そう私は言いたかった。
だが父は口を開けたまま、項垂れていた。隆一の言葉が父の心を引き裂いたのだ。私が淫乱に育ち、性の開発を求め、隆一に体を委ねたと思い込んでしまったようだった。
全ては隆一の狂気が生み出した夢の世界だったのかもしれない。正気に戻そうと思って放った拳も全く効かず、彼は剽軽な様子で笑い続ける。その勝ち誇った表情にきっと父の心は思い切りバーストした。
私は制服のままカバンを持ち、走った。玄関で靴を履いている時、腕を掴んだのは澄江さんだった。振り返ると顔がシワだらけになっていた。その姿は老婆のようだった。後ろでは静止したままの父。その横でまだ笑い続ける隆一。
「どこにいくの?」
澄江さんの言葉は的外れだった。手を振りほどいて玄関のドアを思い切り開けた時だった。
「産めよ!その子供!」
隆一の声は勢いよく閉められたドアに向けて放たれていた。
私は当てもなく走った。ただひたすら。これからどうやって生きていこうか。学校はどうすればいいのか。そんなことばかりを考えながら息が止まりかけそうになっても、走りつづけた。
友人の家で立ち止まる。息を整えて、インターホンを押そうとしたが、彼女の家に上がり込んだところで実家に連れ戻される可能性が高い。
私は後ろを振り向かずにまた走る。街灯しかない住宅街は恐怖しかなかった。横を過ぎていく車のライトに怯える。どうか止まらないでくれ。それだけを願っていた。
ふと一つのことを思い出し、私は鞄から財布を取り出す。一筋の光がここから差し込んでいる気がした。
カードを入れるスペースで所在なく顔を出している名刺。それは父が花凛さんからもらっていた名刺だった。机の上に投げ捨てられていたものがこんな時役に立つとは思ってもみなかったが。
レッドルージュ。その名の通り、薔薇で埋め尽くされた名刺にはそう書いてあった。下の方には小さく住所が書いてある。それは地元の都市部にある繁華街を示していた。私は生き残るためにそこへ向かう。
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