孤独になる理由

 タクシーの中でも僕の息がなかなか整ってはくれない。何度も深呼吸を繰り返した。

「お客さん、大丈夫?」

 運転手がルームミラー越しに僕の顔を伺う。眉間に皺を寄せていた。

「すみません。ちょっと、急いでいたもので」

 普通であることを装った台詞が逆効果であることを知ってはいる。案の定運転手は信号で止まると、買ったばかりでペットボトルの周りが結露している冷たい水を差し出した。僕はその好意を受け取らずにその場を凌いだ。

 ラブホテルの近くでタクシーを降りると、僕はまた走り出す。今回は人混みを避けながら走ることだけで精一杯だった。凛花よりも早く着けばいい。そう思いながら、必死に人の波を掻き分けた。

 僕が凛花を呼んだ二回とも偶然同じ部屋だった。そこに行けば凛花はわかってくれる。そう信じて、部屋へと急いだ。

 部屋の隣にある一台分の駐車場を覗くと、座り込んで携帯を触る凛花がいた。その結果に僕の血の気が引いていく。

「遅いよ。近くにいたんじゃないの?」

 凛花の表情は曇っていた。僕はこの表情に弱い。

「いや、疲れてるかなと思って、お茶買ってきたら少し遅くなった。ごめん」

 僕はリュックからたまたま買っていたお茶を取り出す。幸いにもまだ冷たさは仄かに残っていた。

「それなら仕方ないね。とりあえず入ろうか」

 苦し紛れの策が通用したことに胸を撫で下ろしながら、凛花の後ろを着いていった。

 もうこのホテルの間取りもしっかりと記憶している。自然と冷蔵庫に足が向き、中からミネラルウォーターを二本、取りだす。その内の一本を勢いよく口へ流し込むと、喉が痙攣するような冷たさが襲ってきた。

 ふと凛花を見ると、もう煙草に火を点けている。白い煙が大きな幕となって僕を包み込む。そしてベリーの香りが僕の鼻を微かに擽った。

「何かあったの?」

僕は凛花の前にミネラルウォーターを置く。凛花は小さく、ありがとうと言った後に続けた。

「ううん。大したことじゃないよ」

「それだけじゃ伝わらないよ」

 こう言ったところで詳細を教えてはくれないのだろう。直感でそう感じた。ただあれだけ鬼気迫る雰囲気が伝わってきたのだから、深刻な状況であったことに違いはない。

「ぼっくんは、私の異変に気付いてくれた?」

 凛花は煙草の煙を天井に向けて吐き出しながら、虚ろな目をしていた。

「辛そうなことは息遣いでわかったよ」

「じゃあさ、それが演技だとしたら、どうする?」

天井を向いていた力のない目線が、僕に向けられる。それは遥か遠くに消えかけていく大切な何かを求めているようだった。

ただ、彼女の乱れた呼吸に演技の要素は全く感じられなかった。あれが演技だとすれば、ヘルスなんてやめて、女優にでもなった方がいい。まあ、僕に演技を見抜く能力がないという可能性も捨て切れないが。

それに表情は取り繕えたとしても、目だけはごまかせない。凛花の目には怯えた悲哀の色が見え隠れしている。

「そうだとしたら、怒るかもね。でも凛花はなかなかここに現れない僕を待っていた。もし演技だったとすれば、そこまではしないんじゃないかな?」

凛花は鼻を鳴らして、軽く笑った。今日、初めて顔を綻ばせた瞬間だった。

「確かに。利益も無いのに待ってたら、時間が無駄になっちゃうもんね」

煙草の火種がフィルターまで迫っていた。凛花は灰皿に煙草を擦り付けて消した後、ミネラルウォーターを一口だけ含んだ。

「どうして、演技だなんて言ったの?」

「私さ、そうやってはぐらかす癖があるの。色んなことを隠しながら、生きてるんだよね」

僕は思わず息を飲む。居場所が無いことを隠しながら生きている人がここにいる。凛花が心に秘めたものを隠すように、僕もまだ色んなものを隠している。

「私は、今までもこれからも全部隠して生きていくしかないの。隠しているものを相手にひけらかしたって、気持ちいいものじゃないからね」

凛花は息を吐くようにして、再度煙草に火を点ける。そして深く、深く煙を吸い込んだ。

「でもさ、過去を隠して生きるのは理解者を失くすことと一緒なんだよ。私がどんなに心を開いている相手でも私が全てを隠していれば、相手が私を理解することはない。隠している真実を伝えて、離れていく人はきっと私に興味がない。それでもまだ私の全てを知りたいって食い下がる人は本当に私を理解しようと思ってくれる人なんだよね。まだそんな寛容な人に出会った経験はないけど」

 ふと父のことを思い出す。父は僕に真実を教えてはくれなかった。母親と離婚をした詳細についても未だに教えてはくれない。そんな父に真実を聞くことはタブーだと決め込んで、心に踏み込もうとはしなかった。思えば、その頃にはもう父への興味が薄れていたのかもしれない。

父にとって、理解者であったはずの僕が離れた時、父は凛花のように思いつめていたのだろうか。息子を失ってしまった現実に後悔を覚えているだろうか。

「ここまでわかってるのにさ、今も自分を隠そうとしてる」

 今凛花のことを理解しなければ、僕はせっかく近付いたはずの心を失う気がした。いや、気がしたではない。間違いなくそうである。

「今からでも遅くないよ。これから隠さずに話せばいい。そうすればこれから先、何も失わずに済むんじゃないかな?」

 凛花は笑いながら泣いた。それはやけに滑稽な姿に見えた。

「じゃあ、私はぼっくんを失いたくはないな」

 涙は顎から小さな雫となって落ちていた。大きな丸い目ごと、落ちてきそうで心配した。そして、凛花はそのまま僕の胸に飛び込んできた。

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