幻影
僕は公園にある、やけに明るい空色のベンチに腰をかけて空を眺めていた。今日は人が多い。あちこちから子供の騒ぐ声が聞こえる。きっと日曜日だ。曜日感覚も仕事をしなくなってから、無くなった。
ふと携帯の連絡先を確認する。液晶には凛花の文字が浮かぶ。僕はこの連絡先が入っていることに違和感を覚えていた。本当の連絡先は分かっている。それだというのに凛花の本当の名前は知らない。
知らなくてもいいのかもしれない。しかしこれが凛花と僕の間にある壁を具現化している気がしていた。仲が良くなったのに、僕たちはお互いの名前を知らない。この違和感は今まで味わったことのないものだった。
そして都会での生活にも違和感を感じ始めていた。地元にいた頃は毎日バイトに明け暮れたというのに、この土地に来てからは全く働いたことがない。今までは金に余裕があるからよかったものの、もう口座に余裕はなくなってきた。そろそろ何かしら手に職をつけなければ生きていけない。
そう思いながらも地元のバイト先にまだ席があることを考える。あのバイト先に所属している現在、僕はこっちで仕事をできるのだろうかと疑問に思う。それを考えるとなかなか行動には移せない。
手に振動が伝わる。握りしめていた携帯が震えていた。少しだけ不安がよぎる。だが父親とバイトの連絡先は既に着信拒否していることを思い出す。僕は落ち着きを取り戻し、液晶に目を向けた。そこには凛花の文字が浮かんでいた。
「もしもし」
「ぼっくん?今どこにいる?」
凛花は浅い呼吸音を交えながら話した。何かに追われているのではないかと瞬時に察する。ただ僕はこの土地を理解していない。ここがどこであるかも分からないのだ。
「ごめん、公園にいるんだけど名前まではわからない」
街の喧騒が受話器越しに聞こえる。風の音も相まって、耳には雑音だけが刻み込まれる。
「ぼっくんの家ってどこ?住所とか教えて欲しい」
言葉を失くした。というよりもその答えに見合った返事が見当たらなかった。この土地に住処のない僕は必死に頭を回転させた。何を言えば凛花に怪しまれないか。そしてどうすればこの状況を打開できるのか。 僕と凛花が共通してわかる場所。そう思うと答えは一つしかなかった。
「いつも呼ぶラブホテル、場所わかる?」
この結果しか出なかったことを心の中で何度も謝りながら、凛花の答えを待った。
「わかるよ。そこにいるの?」
凛花の声は切れ切れに伝えられた。それが電波によるものか、疲れによるものかはわからなかった。
「近くにいる。すぐ行くから、そこで落ち合おう」
凛花は分かったとだけ言い残し、電話を切った。その瞬間に僕は地図アプリを開き、ラブホテルの場所を確認する。偶然にもそこはタクシーで十分ほどの距離にあった。
慌てて大通りまで走る。こんなに本気で走るのはいつ振りだろう。息が上がっていく。そして足が痛む。あまりの不甲斐なさに落胆した。
僕は昔から走ることが好きだった。走ることを好きになったのは近所に住んでいた土岐田光司の影響である。光司さんは僕の二歳上だが五歳上の頼りない姉とは違い、率先して人を引っ張ることができる頼り甲斐のある人だった。
その光司さんは幼い頃から足が速かった。光司さんに追いつきたいと思い、走り始めたのが好きになったきっかけである。
足が速くなるほどにわかる風を切るような感覚。それがたまらなく気持ちよかった。毎日走れば走るほど速くなる実感もあった。気付けば、小学校の運動会で一位になることは当たり前になっていた。その勇姿を母が見たのは一度しかなかったが。
家族が唯一集まる学校行事が運動会だった。幼稚園の頃、姉の運動会に僕は家族とともに顔を出していた。そこで食べる弁当がとても美味しかったことを覚えている。たまにしか食べられない母の弁当。目に入るもの全てがご馳走で、動けなくなるほど食べていた。
徒競走が苦手な姉は、いつも最下位だった。顔を下に向けながら、手をあまり動かさないフォーム。いかにも速度が出ない走り方だった。
姉は負けた悔しさからかいつも泣きながら僕たちの元に帰ってきた。その姿を父はビールを飲みながら豪快に笑い飛ばし、母は頭を撫でて、労っていた。
姉は弱々しい存在だった。僕はこうなりたくない。いつでも褒められるように一位になろう。そう思って毎日田んぼが広がる舗装のされていない道路を何本も走った。
僕にとって母に見せることのできた最初で最後の晴れ舞台である小学一年時の運動会。このために毎日走ってきた。家族の前で立派な自分を見せたい一心で、僕は百メートルを走りきった。あっという間に横目から消えていく同級生たち。僕は勝利を確信した。ゴールテープを切った瞬間に自然と手が上がる。初めての一等賞だった。
僕が昼食の時間に家族の元へ戻ると、毎年恒例となっている、姉の泣きじゃくる姿があった。母はその頭を撫でていたが、僕の姿を見た瞬間に、笑顔で両手を広げて、上にあげた。
「祐、頑張ったね」
僕は嬉しくて泣きそうだったが、弱い姉のようだと思われたくはなかったため我慢して、その掲げられた手のひらにハイタッチした。
父もビールを飲みながら僕の頭を豪快に撫で回した。大きな笑い声はうるさかったが、父の喜びがわかるものだった。
「さすが俺の息子だ。一等賞は男の勲章だからな。いっぱい自慢できるぞ」
その時は勲章という言葉の意味を知らなかったけれど、それがいい意味の言葉であることはわかった。僕はヒーローになった気分だった。
しかし、それが家族最後の思い出。それ以降、僕たち家族が集まることは無くなった。夏のキャンプも冬の旅行も一切無くなった。父は二年生の時まで顔を出したものの、その後は学校行事に参加してくれなかった。一番にゴールテープを切っても家族は誰もその場にいない。褒めてくれるのはいつも光司さんだけだった。僕は光司さんがいなければずっと一番でゴールテープを切る意識すらも失っていただろう。
ご飯はどこの誰が作ったかもわからない冷めた弁当を教員と食べた。家族の来ない寂しい子供たちが感情を無くしたまま、無心で食べていた。
エスカレーター式に入学した地元の中学が陸上部の強い学校だった。僕は光司さんの勧めで陸上部へ入ったものの、走ることへの情熱は家族が減ってから無くしかけていた。しかし速くなる快感だけが僕を陸上に執着させた。
「お前、スパイク買わないの?」
汗の匂いが染み込んだ部室で僕の足元を見た光司さんが言った。光司さんの履いている靴は黄色い蛍光色の派手なものだ。
僕が履いているのは学校指定の運動靴。日頃から履いている靴を陸上でも使っていた。
「僕の家、お金ないので。これでも充分走れますから要りませんよ」
入念に足首を回しながら、僕は小汚い靴を眺めていた。
「勿体ないな。せっかくいい足持ってるのに」
安っぽい運動靴しか履いたことのない僕にはスパイクを履く利点がわからなかった。靴を変えた程度で速くなるのなら、誰だって速くなれる。事実、立派なスパイクを履いている同級生の部員よりも僕は速かった。所詮道具で実力は変わらない。
「靴のサイズ、何センチ?」
光司さんはきつく縛り上げたスパイクの紐を解いた。オレンジ色の紐がやけにまぶしく光る。
「二十六センチです」
「ちょうどいいな。俺のスパイク履いて走ってみろよ」
真新しいスパイクは僕の足元に優しく添えられた。
「いや、申し訳ないです」
「そんなに遠慮するなよ。俺のスパイクが汚いみたいじゃないか」
僕は光司さんの剣幕に押され、渋々スパイクを履いた。光司さんの手により紐がきつく結ばれたスパイクは、僕の脚全体を緊張させた。
ベンチから腰を上げ、その場で腿上げをする。いつもより脚は軽く、高く上がる。その感覚は今までに味わったことのないものだった。
「走ってこい。俺が休んでる間に」
その瞬間、僕の肩が勢いよく押された。前のめりになりながら部室を飛び出す。足が自然と跳ねる。それは走りたい意欲に拍車をかけた。
トラックを走ると、僕の脚は異常なほど速く回転した。今まで感じたことのないスピードに体がついていかない。僕はそのままトラックで猛烈に転んだ。しかし、痛みよりも喜びが優っていた。
部活が終わり、家に着いてからも興奮が体を駆け巡っていた。簡単に買えるものではないことくらいわかっている。それでも僕は光司さんからもらったスパイクのカタログを見て妄想を膨らませていた。
「祐、飯だぞ」
父の大きな声に反応し、僕は下の階へ降りる。僕は自然とカタログを持っていた。
「それ、どうしたんだ?」
「あ、光司さんにもらったんだ。別に欲しいわけじゃないんだけど」
父は僕の手からカタログを奪い取った。
「昔から光司君と一緒によく走ってたもんな。陸上部に入ったんだろ?」
僕は静かに頷いた。テーブルの上には色の濃い卵焼きとほうれん草のおひたし。それに白米と味噌汁。この夕食こそが家庭の貧しさを物語っていた。
父はカタログを捲りながら、折れかけていた煙草に火を点ける。
「どれが欲しいんだ?」
それは願ってもない言葉だった。僕にこのスパイクが買える権利などない。そう思っていたのに。父の表情は昔、頭を撫で回した時と同じだった。
休日に父は僕をスポーツ用品店へ連れていった。そこで初めて、多数のスパイクが陳列された華やかな世界を見ることになる。
様々なスパイクを履き、自分に合ったものを探す。店員に用途の違いを教えてもらいながら、汎用性の高いスパイクを選んだ。本当は光司さんのように黄色い蛍光色のスパイクが欲しかったが、値段を見て、履かずに諦めた。
それでも僕の選んだ漆黒の中に光司さんと同じメーカーのロゴが入ったスパイクも高いものだった。正直、こんなもの買ってくれる訳がない。そう思いながら、僕は棚にそのスパイクを戻した。
「それでいいのか?」
父は腕組みをしながら、僕の表情を伺っていた。反応できずにいると、父は棚から僕の置いたスパイクを手に取った。
「いいよ。こんなに高いなんて思わなかったから」
「馬鹿野郎。欲しいものだろ?すぐ買い換えるものでもないんだから。気にすることはねえ」
そう言いながらレジへ向かう父の後ろ姿はどこか逞しかった。いつもより大きく見えた。
「光司さん。スパイク買いました」
僕は新品のスパイクを光司さんに感謝の意味も含めて見てもらおうと決めていた。
「前みたいにこうちゃんでいいよ。俺とお前の仲なんだから」
「いや、そういう訳にはいかないですよ。先輩ですし」
「なんでそんなに気を遣うんだよ」
光司さんは肩を落としてため息をついたが、僕のスパイクを見ると笑顔に変わった。
「お、いいじゃん。俺と同じメーカーだ」
黒々とした、そのスパイクは窓ガラスから入ってくる均一の光を浴びて、輝いていた。
光司さんは陸上部の短距離エースだった。県でも三本の指に入る実力の持ち主で、性格も良ければ、顔立ちも端正である。まさに非の打ちどころがない人だ。僕はそんな彼を昔から慕い、憧れていた。
光司さんに褒められた初めてのスパイクを履いて風を切り裂いた。タイムはぐんぐんと伸びていき、大会でもいい成績を残せるようになる。父は見に来てくれなかったが、結果を聞いて誇らしげに胸を張っていたことを思い出す。
光司さんが挑む最後の県大会。この大会で優勝すれば全国大会への切符が与えられる。この予選で僕は偶然にも彼の隣のレーンで走ることになった。
「まさか祐が隣になるなんてな。よろしく頼むよ」
光司さんは白い歯を輝かせて、握手を求めた。僕は差し出された手を優しく握り返した。
「お前にだけは負けないからな。だけどここでは落ちるなよ」
光司さんは遥か向こうにあるゴールテープを睨みながら言った。予選は上位二名が次のステージへ上がる。ワンツーを決めようということだろう。そしてまた上のステージで競うことを望んでいるのだ。僕はそれを理解し、力強く頷いた。
黄色い声援が光司さんに向けて、一心に注がれている。県トップクラスの選手である光司さんにはファンが大勢いた。顔もいいし、実力もあるのだから仕方ない。
一斉にスタートラインへと選手が並ぶ。光司さんは体を大きく揺らし、リラックスしているようだった。僕も同じように体を揺らして大きく息を吐く。
名前が呼ばれ、一人一人に拍手が送られる。この瞬間に心臓は激しく動き始める。前に出て、膝をつきスタブロに足をかける。僕は手をトラックに軽く置き、目を閉じる。一人一人の息遣いが地を這って、聞こえてくる。
セットの声にみんなが腰を上げる。体が小刻みに震えていく。号砲が放たれた瞬間、思い切りスタブロを蹴りあげた。体を立て直しながら、風に乗った時、隣に光司さんの姿がないことを知る。僕は錯乱した。脚の回転が落ちる。余計なことを考えた僕は、小さなストライドで勢いを落としたままゴールへ辿り着いた。初めての最下位だった。
後ろを振り向くと、僕の姿を苦しい表情で見上げる光司さんがいた。その姿は今でも脳裏に色濃く焼き付いている。
後日、光司さんは松葉杖をつきながら夏休みの部活に顔を出した。いつも通りの笑顔を部員たちに振りまいて。あの苦しさが滲んでいた顔は僕にだけ見えていた幻影だったのかもしれない。
「祐、少しだけ話がある」
光司さんは僕を連れて、部室へと向かっていった。部室に入った瞬間、光司さんは悔しさからか下を向いて、泣いた。アスファルトが深い闇のように色を変えていく。
「なんで、なんであの時スピードを緩めたんだ」
あの状態でも動きが鈍ったことを認識していたようだった。僕は堅く口を閉ざす。
「俺を気遣ったのか?」
気を遣った。確かにそうかもしれない。僕はあそこで光司さんより先に行くことを拒んだ。
「何でそんなに気を遣うようになったんだよ!」
以前も聞いた事のある言葉は鋭利なナイフとなって僕の心に突き刺さった。光司さんの声と嗚咽だけが部室の空気を震わせる。僕はその震えた空気を肌で感じたまま、自然と揺れが収まることを待っていた。
「おい!なんか言えよ!」
空気は大きな音を立てて割れていく。そして、僕の耳には初めて聞いた光司さんの怒号が幾度も反響した。
「すみません」
喉の奥から絞り出したその声はきっと、光司さんの咽び泣く声にかき消された。
「あの場面で祐が勝ってくれればと願っていた。お前ならやってくれると。スタートも抜群だったのに。お前はなんで俺が止まったことに気付いたんだよ」
そこで僕は一瞬でも光司さんを心配してしまった罪の深さを知る。ここで落ちるなよという言葉が頭の中でぐるぐると駆け回る。期待していた光司さんの気持ちを簡単に踏みにじった。
それから僕はうまく走れなくなった。スタートを切っても後方から引っ張られているような感覚が襲う。あれだけ順調に伸びていたタイムも、下降の一途を辿った。
そんな現実を受け入れようとしなかった僕は、必死にタイムを伸ばそうと無謀な筋力トレーニングに取りくんだ。その結果、二年生の夏に脚が限界を迎えて、壊れた。そして、流れに任せるように部活を辞めた。
父に買ってもらったスパイクは今も実家のシューズボックスに押し込まれているはずだ。あれだけ喜んで履いていたスパイクに脚を通すことは二度とない。
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