思い出の味

「うーん」

 恵那は寝ているとき、たまに消え入りそうなほど小さく呻いて起きる癖がある。

「まだ起きてたの?」

 少し掠れた声にはもう特別な気持ちを覚えない。恵那が目をこすると、目の周りをマスカラが黒くした。

「息子が気になってな」

すぐに帰ってくる。そう思っていた。しかしもう息子が出て行ってから一週間が過ぎている。電話にも相変わらず応答はないが保留音が鳴るということは、携帯を解約してはいない。そのことだけに深い安堵感を覚えていた。

「やっぱり理解なんてできないよね」

 恵那は思いつめたような顔をした。恵那にまで辛い思いをさせてしまっている。俺だけが背負うはずのものを彼女にまで背負わせてしまった。

「理解してくれないんだろうか」

「私が息子さんの立場ならきっと同じ行動をする。いきなり自分と年の変わらない人が現れて、一緒に暮らそうって言われたら、居場所なんて無くなると思っちゃうよ」

「じゃあどうすればよかったんだ」

 恵那は口を紡ぎ、俺から顔を背けてまた眠りについた。その表情を見つめながら、小さなため息をついて俺も目を閉じた。

 誰かが仄暗い空間で絵を描いている。そいつは古ぼけて木の色が濃く変わった、イーゼルを使う。絵のタッチをどこかで見たことがある。懐かしい匂いのするそれは昔の俺のタッチと一緒だった。そのイーゼルの先にはモデルらしき女がいる。顔を認識することはできない。ただこの景色はどこかで見たことがある。間違いない。そこにいる女は祐子だ。

 肩を強く叩かれる。恵那がいつもの化粧をした顔で俺の横に立っていた。今まで見ていたものは夢か。それは鮮烈な印象を植え付けた。身体中を纏う汗が物語っている。

「おはよ。もうお昼近いよ」

 夜中の不穏な空気は感じ取れなかった。それは俺が鈍感だからだろうか。

 布団の近くにある時計を見ると、針が真上を向いていた。久しぶりに長い時間寝てしまったようだ。

「お昼食べたら、私出かけるね」

 そう言いながら恵那は寝室を出て行った。俺はその姿を追う。

 ダイニングの扉を開けると甘辛い匂いが鼻を占領する。そこには豚の角煮が置いてあり、ゆらゆらと白い湯気を立ち昇らせていた。

「朝早く起きて作ってみたんだけど、寝起きじゃ重いかな」

 恵那は俺の前にご飯と味噌汁を置く。この光景にどこか懐かしさを感じてしまう自分がいた。

「いや、ありがたく頂くよ」

 人の作った料理を家で食べるのはいつ振りだろうか。一度だけ息子が必死に作ってくれた、あの日以来かもしれない。あれは妻がいなくなってから何年か経ち、息子が中学に上がった頃だ。


 俺はいつものように仕事を終え、簡単に買い物をして帰ってきた時だった。ダイニングに入ると、キッチンには制服を着たままの祐が立っていた。白いワイシャツが汗に濡れていたことを覚えている。

「ただいま」

 俺の声に少しびっくりしたように肩を動かしたが、こちらを見ずにおかえりと言った。俺は買ってきた食材を冷蔵庫に入れながら、横目でキッチンを見る。俺に似た不器用な手つきで塊の豚肉を厚く切っている祐の顔は真剣そのものだった。

「珍しいな、料理なんて」

 額に汗を溜めながら、祐は切れなくなった包丁をノコギリのように何度も上下に動かしていた。

「豚の角煮。母さんがよく作ってただろ。そのレシピが母さんの使ってた引き出しから出てきたんだ」

 久しぶりに息子と会話をした気がした。それは裕子が繋いでくれたものかもしれない。

 祐子は出て行くときに家具を全部置いていった。そのため祐子の使っていた部屋は時が止まったままになっている。俺自身掃除をする気にもならず、使わない部屋だからと放っておいたのだが、その部屋を祐が整理してくれたようだった。

 俺は台所に置いてあるレシピを見た。懐かしい丸い字がそこに残っていた。日焼けたメモ用紙いっぱいに丁寧な作り方とポイントが書かれており、それを見た瞬間に祐子の顔が脳裏に描かれる。俺の一目惚れした女がそこにはいた。

 台所に立つ華奢な背中。祐子の作る豚の角煮は美味かった。幼い頃から裕福な家庭ではなかった俺にとって祐子の作る角煮は初めて食べる贅沢な料理だった。

 とろけるような厚切りの豚肉に濃いめの甘辛い味付けで、ご飯がいくらあっても足りなかったことだけは覚えている。角煮の日は酒よりも米が欲しくなって、何杯もおかわりしたものだ。

 そんな角煮のレシピを祐子がメモに残しているとは思ってもみなかった。とにかく俺はまたあの味を再現できることに期待を膨らませていた。

「何泣いてんの?気持ち悪いな」

「いや、今日は疲れて眠いんだ。あくびだよ」

 俺は目を腕で思い切りこする。作業着は濃いシミを作っていた。

「疲れてるなら父さんは座ってなよ。僕が作るから」

「お前、そんな手つきじゃ危ない。俺がやるからいいよ」

 俺が包丁に手を伸ばしても祐は全く離さない。必死でやっている祐の姿を見て、少しだけ誇らしかった。俺は黙って角煮ができることを待つことにした。

 結局角煮ができたのは夜の九時を廻った頃。作り始めてから四時間が過ぎていた。

 その角煮は祐子が作る角煮よりも塩気が強くて、喉が乾くような味だった。豚肉の煮る時間も長すぎたようで、肉の繊維が固まっていた。

 しかし、それは祐子の作る角煮よりも美味しかった。俺は泣きながらあの頃のように何杯もご飯をおかわりした。

 あれから祐が角煮を作ることもないし、ご飯すら作ったことはない。代わりに俺が何回か角煮を作った。

「母さんより味付けが薄い」

 会話が少なくなった思春期の頃でも、それだけは欠かさずに言っていたことを思い出す。


「角煮、好きなんだ」

「真ちゃんが角煮を好きなこと、知ってるよ」

 はて、俺は恵那に角煮が好きなことを伝えたことがあっただろうか。飲んだ勢いで伝えたことがあるのかもしれない。

 恵那の作った角煮は祐子の作ったものとは全く違う味だった。豚肉は少し食感が感じられ、味付けは葱の甘みが全面に出ていた。恵那の作った角煮は美味かったが、なぜか満足はできなかった。

「ごちそうさま。美味しかったよ」

 大盛りのご飯を一杯だけもらって、食事を終えた。恵那は穏やかな笑顔を浮かべて、食器を流しへ持っていく。

「俺が洗うからいいよ。仕事に行くんだろ?」

「大したことじゃないから」

 緩やかな水流の音だけが空間に広がっている。俺は流しに立つ若い恵那の背中を見ていた。

 洗い終えると恵那はリビングに置いてあるカバンの中身を整理し始める。

「じゃあ行ってくるね」

「今日は遅いか?」

「うん。でも今日はアパートに戻るよ」

「あのアパートも早く払わないとな」

「しばらくは残しておく。ここから職場はちょっと遠いから。真ちゃんの家族関係を整理し終えてから考えるよ」

 不穏な空気だけを残して、恵那は家を出た。やはり祐のことが気になっているようだ。俺も祐についてはしっかり考えていかなければならない。いずれは帰ってくる。そんなことではいけない気がした。

 お茶でも飲みながら考えることにしようと思い冷蔵庫へ向かうと、そこには妻が置いていった唯一のレシピが寂しく貼りつけられていた。

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