正解と不正解
僕はまたラブホテルにいた。今日凛花は出勤している。朝に会ったとはいえこのチャンスを逃すことはできなかった。僕は彼女のことが気になっている。元々は女性の体を知りたいというだけだった。ただ下心しかなかった自分がこのような感情を抱くことが不思議でならない。
僕は凛花の店に連絡した。
「あの、凛花さんお願いしたいのですが」
「わかりました。お名前と電話番号、ホテル名をお願いします」
僕は咄嗟に名前をぼっくんと伝えた。それであれば凛花はすぐ僕に気づいてくれる。そう思ったからだ。特殊な客と思われたかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。
スプリングのしっかりしたベッドの上で、僕はゆったりとテレビを見て待った。ふと近くにあるサイドテーブルへ目をやると、そこにはコンドームが二個置いてあった。調べてみるとどんなラブホテルにもコンドームは標準で置いてあるらしい。
そこで僕は疑問に思う。何故前回凛花は僕にその事実を教えてくれなかったのか。この事実を知らなかったということはないだろう。数々のラブホテルにも足を運んだはずだ。
遠回しに僕に抱かれたくないということを伝えていたのだろうか。なるべく傷つけない方向で、僕を遠ざけたのだろうか。そう思うと、今意気揚々と凛花を呼んでいる自分を恥ずかしかった。
一人うなだれていると、インターホンが鳴った。僕は慌てて下へと降りる。ドアを開けるとそこには朝見た姿より、アイラインの濃い凛花の姿があった。
「早速会ったね」
「今日出勤って聞いてたから」
「ご指名ありがとうございます」
凛花は深々と頭を下げた。それに呼応するように僕も自然と頭を下げる。
「ぼっくんはお客さんなんだから頭下げなくていいんだよ。中入ろう?」
お客さんという言葉に切なさを覚えながら、少しだけ急な階段を上っていく。部屋に入ると、何故か初回よりも緊張した。凛花とこれから体を重ねることができると思ったからだろうか。
「お時間は?」
「一時間で」
凛花はソファに座り、店舗へ電話をした。電話が終わると一息ついた後に鮮やかな赤いジャケットの胸ポケットからタバコを取り出した。
「タバコ吸ってもいい?」
僕は頷く。いかにも女性が吸うイメージのある細いタバコはベリーの香りを部屋に残した。凛花の香水にも似た匂い。
「タバコ吸うんだね」
「うん。ぼっくんは吸わないの?」
「体に害しかないじゃないか。まさに百害あって一利なしだよ」
白い煙は部屋をゆらめくように漂っている。ふわふわとあてもなく。
「百害あって一利なしってどういうこと?」
「悪いことしかないってこと」
凛花は納得したような顔をした。それでも彼女は深く、深くタバコの煙を肺に落とし込んでいる。
「そんなことない。いいこともあるよ」
「何があるのさ?」
「ストレス発散。吸ってると気持ちいいんだよ。麻薬みたいなものだよね」
タバコには中毒性がある。その中毒性を呼び起こすのは快感である。ニコチンが脳に快楽を与える。それを何度も体験したくなり、タバコを日常的に吸ってしまう。それは中学の頃、保健体育の時間に習った。
僕は今父親から与えられているストレスをこのタバコで緩和できるだろうか。ただ吸わないに越したことはない。こんなものは税金の塊にすぎない。
そんなものより僕は違う快感を体に染み込ませたい。女の体の中がどれだけ気持ちいいものなのか。それを早く知りたいと思ってしまった。ワンピースから覗く白い足。その服を脱がせて、体をもう一度見たい。それがこの空間なら許される。先ほどまで会話で親睦を深めたいと思っていた心の中の自分は後ずさりしていた。
凛花はタバコを半分以上残して火種を消した。そのタイミングを見計らったように、僕は凛花を押し倒す。驚いた表情も全く見せない凛花はこんな状況を何度も経験しているのだろう。
「朝はあんなに大人しかったのに。どうしたの?」
「ここはホテルだから、大人しくする必要はないよ」
僕は凛花の口に舌を入れ込んだ。彼女はすぐ僕を受け入れた。僕はすでに勃起している。下着が徐々に濡れていく嫌な感覚を覚える。
舌を絡ませ終わると、僕の下半身を凛花が優しく触った。ジーンズ越しにでもわかる細い指の感覚は僕に快感を与える。
早くその指で、僕を触って欲しかった。僕はベルトを取っ払い、下着まで一気に脱ぎ去った。
「早いね。抜いてあげよっか?」
そう言うと、凛花は僕の股間を白い手で包み込み、ゆっくりと上下に動かし始めた。だが僕がこれで満足することはない。
「口でしてよ」
僕はソファに体を投げ捨てた。革張りのシートが僕の皮膚から神経へと冷たさを運んでくる。横たわった僕の上に凛花が体を重ねる。
「お風呂入ったならいいよ」
「先に入った」
「一人で入る人だったね。ちなみに私うまいからね?童貞くんはすぐにいっちゃうよ」
僕は少しだけ動揺した。凛花に女性経験がないことは伝えていない。女性の勘が働いているのだろうかと思い、焦りが募る。僕の股間が急に萎れるのを感じる。変な考えに神経を使いすぎたようだ。
「なんでわかるの?」
「ラブホにコンドームがあること知らなかったから。大抵の男は知ってるからね。珍しいなって思ったの。あと童貞って言葉使ったら、ものが萎れちゃったし。きっと童貞じゃない言い訳考えて、下半身まで神経が回らなくなったんでしょ?」
まるでスポーツ番組の解説を聞いている気分だった。そこまで童貞であることを分析されたと思うと、顔から火が出るような思いだった。
「なんであの時コンドームがあることを教えてくれなかったの?」
「デリヘルは基本本番禁止だから。顔も知らない他人と最初っからヤるわけないでしょ?」
デリヘルは最後まで行為を行えるものだと思っていた。しかし、僕はこの世界では当たり前のことすら知らなかった。もしこれが凛花でなかったならば、どれだけ恥ずかしい思いをしたのだろう。その自分を思い浮かべるだけでこの空間から消えて無くなりたくなる。
凛花は僕の上に体を乗せて、顔を近づけた。そして赤いジャケットを脱ぎ捨てた。ピンク色の花柄があしらわれたワンピースの胸元は大きく開き、凛花の乳房の形を誇張して見せつけた。
「童貞くんはすぐ顔を赤くするんだよね。普通はキモいなって思うんだけど、ぼっくんは可愛いかも」
そして僕の唇を舌でなぞるように舐めた。僕の股間はこれだけの動作にも反応する。間違いなく僕は童貞だ。
そのまま僕の口に舌を入れ込む。先ほどまで萎れていた僕の股間も勢いを取り戻す。凛花は僕の股間の準備態勢を確認したあと、顔を下げていった。直後に僕の股間は滑りのある口の中へと吸い込まれていく。その中で蠢く舌は生き物のようにまとわりついてきた。裏筋を沿う動きに僕は何度も快感を覚える。
口内が上下に動き、凛花の喉の奥に僕の股間が辿り着く。ここで果てたい。凛花の喉の奥まで僕の精子を流し込みたい。僕は果てそうになった瞬間、凛花の頭を掴み、下半身に深く押し付けようとした。その時、僕は中学時代を思い出した。僕が恋した女子は、今の僕のように自分勝手な男に有無を言わさずに犯されたのだろうかと。そう思った瞬間、僕は力強く抑えていた凛花の頭から手を下ろす。凛花は舌の動きを静かに止めて、僕を見上げた。一瞬何が起きたのか理解していないようだった。僕はその表情を見た後に、力なく射精した。
僕の股間から柔らかい暖かさが消えた。凛花が口を離した後、僕の下半身を見ると静かに脈打っていた。白濁した液体が、勢いなく緩やかに滴っていた。
「どうしたの?」
僕は何も答えず、ただテレビの画面によって色を変える薄暗い天井を見上げていた。一瞬だとしても僕の恋した女子に非道なことをした大学生が僕の心の中にいることを知る。大人だから、もう理性を失わない。そんなことは決してなかった。今更になって後ずさりしていた理性を保つ自分が顔を覗かせる。
男である以上、誰でもあの大学生のような行動をとることがある。女性が目の前で卑猥な行為をすれば、それだけ男としての欲望を満たそうとする。たとえ信頼関係などがなかったとしても。
「ぼっくんは本当に珍しいよね」
凛花の細い声は微かに僕の耳へ届いた。珍しい。凛花は僕によくこの言葉を使う。いったい何が珍しいのだ。どこにでもいる変態な男どもと変わらないことをしているではないか。嬢をホテルに呼んで話すだけで終わるようなあり得ない行為もしていない。
「男はみんな力ずくで私を丸め込んでくる。欲望の塊でさ、自分だけ良ければいいと思ってる」
その言葉に僕は共感する。そうだ、男なんてみんなそんなものだ。僕だって相手のことなど考えていない。
「でもねぼっくんは私が誘っても、辛いことは絶対しない。」
違う。しようとはした。むしろ記憶が蘇らなければ、僕はきっと凛花を苦しめた。
「試したの。前に会った時は。普通の男なら、勝手にゴムつけて無理やり挿れてくる。それはぼっくんがホテルにゴムがあること知らなかったからだなって話を聞いて思ったりしたけど、今日だって頭を押さえて喉奥まで責めさせたのに、私から自然と手を離した。普通の男なら興奮して嘔吐くまで突っ込んでくるよ」
試されていたということに僕は気づかなかった。ただその行為に及ばなかったのは過去があるから。あの大学生を思い出すから。
「なんで試したの?」
「まあ絶対に男のことは一回試すんだけどさ。大抵は一緒の結果になるの。前さ、そのままじゃだめ?って聞いたでしょ?あの時、この人も無理やりヤる人なんだなって思った。でも勝手に自分から引いたよね。それが気になって今回も試した。そしたら今回も同じように引いていくし。なんかぼっくんは普通の人と違うんだよね」
僕が行為に及ばない理由があることを凛花は察しているようだった。僕の優しさだと思ってくれればありがたい。そう思ったが、それは違う。僕は非道な男たちと同じなのだから。僕には優しさなどない。過去の思いが現実に戻してくれているだけだから。
「昔恋した人が、無理やり犯された動画を見たことがあるんだ。その時こんな非道な男が世の中にいるんだって悲観した。だから自分はそんなことを女性にはしないと心に誓ったのに実際は欲望が勝って非道なことをしようとする。僕もただの男。欲望の塊さ。違うのは行為に及んでいるときにあの動画がフラッシュバックして、行為を止めることだけ。あの過去がなければ世の中の男と同じように凛花を苦しめるよ」
伝えたいことが全くまとまらない。気持ちに任せて言葉を羅列してしまった。失敗したなと思いながら体を起こし、凛花の顔を覗くとその目は一点を見つめ、沈んでいた。
「そっか。苦しい思いしてたんだね。試してごめん」
「いいよ。何も知らない男を試すのは当たり前だろうから」
「いや悪いことしたよ。私が誘ったりしなければ、嫌なことも思い出さなかっただろうし」
「呼んだのは僕だから。凛花は何も悪くないよ」
凛花が沈んだその視線を上げることはなかった。
僕はどこかであの大学生の行為と女を抱く行為を重ねる。彼と同じ獣になる僕はもう女性を抱くこと資格がない。その事実をここで叩きつけられたようだった。
「でも私はぼっくんがそんな欲望だけで理性を失う人には思えない。そのひどい人とぼっくんの共通点は男ってことだけだよ」
「そんなことない。同じだよ。彼も僕も」
「じゃあいつ私を同じように苦しめたっていうの?」
「同じことをしようとはした」
「しようとしただけじゃん。実際には何もしてないでしょ?理由はどうであれ、ぼっくんは何もしてない。同じじゃないよ」
凛花は強い眼差しでこちらを見ていた。それは悪さをした子供を叱る母のように優しくも真剣なものだった。行動に移すか移さないかで大きく状況は変わる。それは確かに正しいものであった。
僕はあのフラッシュバックにより理性を失わない。そうすればあの大学生のような過ちを犯すことはない。
ただ、僕はそれを理解しているようでしてはいなかった。理性を失いかけたときの行動は犯罪者と同じ思惑を持っていると思う。胸の中を渦巻く邪悪な罪悪感は凛花の諭すような言葉をも全て無に還してしまいそうだった。
「ごめん。まだそれが同じじゃないのかを判断できない」
「ぼっくんは依怙地だね。とりあえず埒があかないから、この話は終わり。私から振っといて申し訳ないけど」
凛花はソファから立ち上がり、背中を大きく反らして伸びをした。そして脱ぎ捨てていたジャケットの内ポケットから、携帯電話を取り出した。
「ねえ、携帯の番号教えて」
僕は電話番号をあまり人に教えたことがない。友達でも仲の良い連絡を取る友達にしか教えていない。浅い関係の人に教えると何かに悪用されてしまうのではないかと不安になるからだ。
デリヘル嬢というのは端から見れば世間体の悪い仕事かもしれない。そんな女性に心を開いても騙されるだけかもしれない。
ただ僕の凛花に対する気持ちは違った。会って二日しか経っていない人間ではあるが、その二日間は何年もの関係が築かれたように濃密であった。僕自身が人に自分の苦悩を語ることも初めてだった。それは凛花が僕に少しだけでも心を開いてくれたからだ。
僕は凛花に携帯の番号を教えた。登録した画面を見せてくれた凛花はただの綺麗な女性だった。
「もうデリヘルで呼ぶことはやめなよ。どうせ抜くわけでもやるわけでもないし。そんなことにお金払うことない」
「でも、僕はそれでもいい。凛花と話ができるならこの関係でも構わない」
「私が嫌。仕事は仕事だし。話するだけでいっぱいお金もらうことはできないよ。だから話したいこととかあったら連絡して」
「でも、僕は」
「ああ、もう本当に依怙地だなあ。素直にうんって言いなさい」
僕は綺麗事ばかりを言う。本心とは違うことが口をついて出る。本当ならば願っても無いことなのに、何故か素直にそれを受け取ることができない。
「ほら、はい、は?」
「はい」
僕は納得していない表情で首を縦に振った。本当は内心納得していると言うのに。
その反応に対して凛花は偉いと言いながら、頭を優しく撫でた。僕は懐かしい気持ちに浸った。
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