君の名前、あなたの名前
「顔色悪いけど、大丈夫?」
「あ、いや、ちょっと疲れてて」
僕はチョコチーノを勢いよく流し込む。乳状の液体が喉にへばりつき、少しむせてしまった。
「焦るな、少年。なんか考えてたんでしょ?」
そう言いながら凛花は明るい茶色に染まったコーヒーをひと啜りした。飲みながらこちらを見つめる目線は鋭かった。本当のことを言わなければいつまでもこの質問をすると訴えている気がした。
「いや、君って言葉に抵抗があるんだ。過去に色々とあってね」
「あ、そうなんだ。ごめんね。じゃあさっき言ったみたいにあなたって呼ぼうかな」
凛花はその理由を深く聞くこともなく、微笑んだ。
あなたという言葉の方が確かに気持ちはいい。だが僕だけが凛花の名前を呼ぶのに、凛花が名前を呼ばないことに違和感があった。昔のような違和感が。
「名前で呼んでもらいたいって言ったら気持ち悪いかな?」
「うーん。気持ち悪くはないよ。でも私たちは友達ではないからね。そんな人に名前を教えるかなって。私はただの源氏名だから教えても支障はないけどね。もしあなたがペンネームでも持ってるなら抵抗なくその名前で呼んであげるよ」
凛花は常にホワイトニングをしていそうな真っ白の歯を覗かせて笑った。凛花は顔のパーツに不自然な箇所がある。自分を偽っているような気がしてならない。女性はもちろん化粧をして化けるわけだが、凛花の場合は生まれ持ったものを変えているような気がする。それでも整形をしすぎた女のように変な顔をしているかといえばそうではない。ちょうどいい整形をしているように見受けられた。あくまで憶測だが。
「僕にはそんな名前なんてないよ」
「じゃあ今つけてみるとか」
凛花は黒い革の高級そうなバッグから携帯電話を取り出して、画面と格闘し始めた。僕のペンネーム候補を探していることは間違いないだろう。しばらく画面をスクロールして手が止まった時、凛花は目を少し大きくして、僕の顔を見つめてきた。
「なかなかお似合いの名前がないなあ」
僕は変な名前が候補として上がっていたらどうしようかと固唾を飲んでいた。変な名前で呼ばれるくらいなら、あなたと呼ばれていたほうがいい。
凛花は携帯を置き、腕組みをしながら天井を見上げた。独特な考え方をする人だと思って見ていた時だった。急に僕の顔を見て、誇らしげな表情になった。
「降りてきた。ぴったりのペンネーム」
「どんな名前?」
「ぼっくん」
「え?どういう意味?」
「自分のことを僕って呼ぶ男の子だからぼっくん。どう?」
長い時間を使い考えた割には、適当な名前だった。すぐ浮かぶような名前を自信満々な表情で伝えてきた彼女の精神力はきっと強い。
「それは嫌だな」
「えー、すごいいいと思うんだけど。あなたって呼ぶより呼びやすいし」
それでも納得していない表情をしていると、凛花はため息をつきながらもまた天井を見始めた。またどうでもよい名前を考える時間が続くと思うと時間が無駄に思えた。
「いいよ。ぼっくんで」
仕方なく僕が言うと、凛花はすぐに前を向いた。その表情は心底嬉しそうなものだった。
「じゃあぼっくんね。決まりー」
嬉しそうな表情のまま凛花は拍手していた。この表情を見ると凛花は相当頭を働かせたのかもしれない。
ひとしきり場を盛り上げた後、凛花は先ほどの僕みたいに勢いよくコーヒーを飲み干した。僕もその姿を見て、チョコチーノを流し込もうとした。
「ぼっくんはいいよ。ゆっくり飲んでて。私今日出勤だから、もう帰らないと」
そう言うと凛花は千円札をテーブルに置いた。
「これくらい僕が払っておくよ」
「いいの。多分私の方がお金持ってるし」
それでも、僕は千円札を自分の財布に入れることはなかった。これを受け取ってしまうとこの程度の代金も払えない男なのかと思われそうで、そこは強がった。
「手、出して」
僕はその声に反応し、手のひらをテーブルの上に置いた。その瞬間僕の手に千円札が置かれ、優しく手を握りこまれた。しばらく凛花の温もりを感じていた。優しいぬくもりのある手だ。
「これでそのお金はぼっくんのもの。じゃあね」
慣れたように凛花はウィンクをして、滑らかな指の動きで手を振った。まるで外国人が友達と別れる時のようだった。
「あのさ」
凛花の背中に向けて、僕はほんの少しだけ声を張った。凛花はにこやかに振り返る。
「何?」
「また会えるかな?」
すると凛花はまた吹き出すように笑った。
「会えるよ。当たり前じゃん」
凛花は目を一瞬泳がせた。そして甘いベリーの香りを辺りに残して、店を出ていった
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