君と呼び合う僕たち
君という二人称には嫌悪感を抱く。中学の頃好きだった女の子がよく使う言葉だったからだ。僕にだけ君という言葉を使っていた。同じクラスの男子は苗字で呼ぶというのに。だからこそ君と使われるのには違和感があった。好きな子に赤の他人だと言われているような気がして、気持ち悪かった。
卒業が間近に迫った冬のある時、僕と彼女は日直で放課後に日誌を書いていた。嫌な記憶はすぐに蘇る。
「君は高校どこに決めたの?」
「登美の丘。君は?」
僕も彼女のことを君と呼んでいた。僕だけ名前を呼ぶことに疑問を持ったからである。彼女が僕の名前を呼んだ時、僕も彼女の名前を呼ぼうと思った。
「私は平野台。頭がいい人は違うね」
「僕の家はお金がないから、公立に行くしかない。私立には頭を下げても入れてはもらえないよ」
僕は彼女の顔を見ずに、ひたすら一人で日誌を書いていた。彼女はやすりを使い丁寧に爪を磨いている。
「なんかバカにされてる気分。頭が悪いから私立に行くみたいな感じじゃん」
「そんなつもりじゃない。僕の場合は仕方ないんだ。君には選択肢があって羨ましいと言いたかっただけだよ」
彼女は爪を磨く手を止めた。そして乱暴に机へとやすりを叩きつけた。
「選択肢なんて私もないよ」
声を荒らげる彼女を初めて見た。僕はすぐに彼女の顔へ目を向けた。彼女は目に涙を溜めていた。姉以外の女性が泣く瞬間は初めて見た。あまりの展開に、僕は唖然とした。
「日誌出しといてね」
少し震えた声で彼女はそう言い残し、教室から逃げるようにして去った。僕はその背中が遠ざかるのをスローモーションの世界で眺めていた。
平野台高校はお嬢様学校として有名な高校で、金持ちの女子が通うイメージしかなかった。そのため少し言い方に棘があったかもしれないが、あれほど怒られる理由はわからなかった。
その日から一週間後、彼女は学校を休んだ。彼女が学校を休むことなどなかったので、その日は珍しいと思っていた。ホームルームが始まるまでの間、友人たちと談笑している時だった。
「おい、みんな。これ見ろよ」
一人の友人が携帯電話の画面を僕たちに見せた。それはSNSで拡散されている動画だった。一人の全裸の女性が執拗に陰部を責められていた。画質は荒いがそれは僕の恋した女の子に見える。
陰部にカメラが動くとそこからは次第に血が流れていく。非道な責め方に僕は恐怖を覚えた。動画から流れてくる声は苦しい叫びた泣き声だった。
「何この趣味悪いエロ動画」
一人が顔を引きつらせながら言った。携帯電話を持っている友人も深刻な顔を浮かべている。
「いや、この動画の説明がついてるんだけど、それがやばいんだよ」
彼は動画の投稿を下へとスクロールする。そこには、君と呼ぶ女子の名前と出身中学が書かれていた。個人情報までを晒す、悪質なやり方に僕は怒りを覚えていた。
どうやら当時付き合っていた彼氏が別れた腹いせに動画を投稿したらしい。
その事実に皆、言葉を失くした。ただ彼らよりも心に傷を負ったのは間違いなく僕だった。いや、それよりもひどく心を傷つけられた人がこの動画の中で甲高い声を上げていた。
彼女は先週怯えていたはずだ。いつこのリベンジポルノを世間に流されるかと。きっと男を信じられないようなところまで彼女は追い込まれていたかもしれない。だからこそ彼女は女子校を進学先に選んだ。男と密接に関係することのない世界に行くためにはそれしか選択肢がなかったのだ。選択肢なんて私もない。それはこの理由があったからなのだろう。
それだというのに僕は彼女を羨ましいと妬んだ。苦しい思いをしている彼女の気持ちを考えずに。何気ない一言が彼女の気持ちを傷つけた。
以降、彼女は一度も学校に姿を現さないまま、卒業を迎えた。動画を投稿した大学生の男は児童ポルノ禁止法違反により逮捕された。未成年だった彼の名前を知ることはなかった。
男が逮捕されたとしても彼女の気持ちの穴が埋まることはない。そして僕の何気ない一言も彼女の心の中で残り続けるだろう。
僕はそれ以来君という言葉に嫌悪感を抱く。あの忌まわしい記憶が蘇り、彼女の涙を浮かべる姿がフラッシュバックする。その瞬間僕の胸はナイフで突き刺されたように痛み出すのだ。
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