モンステラの花
「あの」
僕は息を切らして、彼女の背中に叫んだ。行き交うサラリーマンが冷ややかな視線を僕に送る。未練がましい男がいると思っているのだろうか。そうだ、僕は金を出したのに抱かせてくれなかった女に声をかける情けない男だ。
少し長めの茶色に染まるボブヘアー。その艶やかな髪がスローモーションのようになびいていく。丸い大きな瞳はホテルで情事を重ねたその人だった。
「あ、僕っ子だ」
凛花はびっくりしたような顔で僕を見た。そして、優しく微笑んだ。
「まさかこんなところで会えるとはね」
「その言い方、すごい怖いよ。面白いけど」
凛花は僕に歩み寄り、耳元に唇を寄せた。その行為は今までに体験したことのないものだった。
「とりあえず繁華街出たところで会おっか」
耳元で凛花が囁くたびに僕はぞくぞくした。鳥肌が立つような感じではない。悪い気は全くしないのだ。全身の感覚が活性化しているように、僕は快感を得ていた。
「早くしてね」
そういうと、凛花は早足で僕の目の前から遠ざかっていった。色々と危ないとはどういうことなのだろうか。このサラリーマンしかいない空間には危険な要素など一個もなかった。いや、この土地に降り立ってからまだ一週間しか経っていない自分にはわからないことなのかもしれない。ただならぬ不安を感じながら、僕は少し離れた凛花の背中を追いかけた。
繁華街を抜けた先で、凛花は足を止めた。熱を帯びた日光は凛花が羽織る薄ピンクのチェスターコートを煌びやかに演出していた。
「ごめんね。わざわざこんなとこまで。あそこのカフェでも入ろうか」
「うん」
僕は少しだけ切れた息を整えながら、またも凛花の背中を追っていった。
都会のカフェは田舎にあるようなチェーン店でも様相が違う。場所が違うというだけで感覚が変わる。店に置いてある観葉植物も田舎の同じ名前を冠するカフェとなんら変わりないのかもしれない。それでもここの観葉植物は田舎にあるものより色鮮やかに見える。そのおしゃれな観葉植物は棒状の果実のようなものを花が優しく包む、珍しい形だった。
「変わった花」
僕の独り言に凛花は過敏に反応したようだった。僕は何か変なことを口走ったのかと不安になる。
「えっと、あの花、不思議だなって」
凛花の反応に驚いた僕は焦って、しどろもどろになっていた。僕の指差す先を見て、凛花は納得したように柔和な顔に変わる。
「ああ、その花のことを言ってたんだ。それモンステラっていうの。真ん中にある棒の部分、美味しいんだよ」
初めて聞いた名前だった。そしてあの棒状の部分が食べられることと凛花の知識に驚く。
「そうなんだ、知らなかった」
「モンステラの花はさ、ドレスを着て、ベールアップされてるお嫁さんみたいで可愛いじゃん?昔からそんな姿に憧れがあってさ。よくモンステラの花に自分の姿を重ねてたなあ」
言われてみれば、確かにそうだ。純白のドレスを着たお嫁さん。的を射ている表現だった。
凛花の花を愛でる姿は愛おしく、目が離せなかった。しばし、二人でいろんな花を鑑賞していると、店員が席に促したので少しムッとしながら鑑賞会を辞め、移動した。
席に座ると凛花はメニューも見ずにコーヒーを頼んだ。僕はコーヒーが飲めない。大人になったら飲めるものだと思っていたが、あの苦味と酸味がいつまでも口に残る感覚は成長しても苦手である。
慌ててメニューを見た時、チョコチーノの文字が見えた。いかにも甘ったるそうなその名前の飲み物はきっとココアに近いものだと思い、それを注文した。
「珍しいね」
凛花が少し身を乗り出して聞いてきた。
「何が珍しいの?」
すると凛花は吹き出すように笑った。女性の表情が崩れる瞬間というのはやけに興奮する。いつも見られない表情を見ることができている気がしてたまらない。
「チョコチーノ。そんな甘いやつ飲んでる男の子見たことないよ。やっぱりレアな存在だね」
「僕コーヒー飲めないから。ココアが飲みたかったんだけどないみたいだし」
その言葉を聞いて、凛花は高らかに笑った。その笑い声に反応して、店員と客がこちらに視線を向ける。僕は恥ずかしくなり、肩をすぼめて、頭を下げた。
「ちょっと周りの人に迷惑だよ」
「いや、その歳でココアって。笑わずにはいられないでしょ」
凛花はまだ声をあげて笑っていた。僕自身面白いことを言ったつもりもなかったので、拍子抜けした。
「ああ、面白い。日頃こんなに笑わないから、ありがたいよ」
そう言いながら、凛花はゆっくりと呼吸を整え始めた。その姿を見て、もうしばらく笑うことはないだろうと思い、少し安堵した。
「お待たせしました。コーヒーとチョコチーノです」
店員は飲み物の入ったグラスを乱暴に置いた。きっと先ほどの高笑いにまだ怒っているのだろう。その気持ちを考えるとその乱暴な置き方への怒りは湧き上がらず、僕はただ平謝りするしかなかった。凛花はその店員の後ろ姿を睨んでいた。
「なんかあの店員感じ悪いね」
この人は自分のしでかした罪の重さを感じていない。ただ、その神経の図太さを羨ましく思う自分もいた。
「あなたが高笑いしたからだよ。きっといつも感じが悪いわけじゃない」
僕が諭すように言うと、凛花はまた高らかに笑った。
「あなたって言葉初めて使われたよ。君はどこまで私の腹筋を痛めつけるのよ。凛花でいいから」
僕はまた店員と客の目線を感じた。それよりも鈍い痛みが胸を襲ったことが気になって仕方ない。
あの時僕は名前を言わなかった。君と呼ばれるのは当然である。あそこでしっかりと自己紹介をしておけばこんなことにはならなかったかもしれない。
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