新しい恋
ある日、いつものように店へ行くと、恵那だけが出勤していた。珍しいなと思いながらカウンターへと腰を下ろす。
「今日ママは?」
「なんか具合悪いみたい。予約してるお客さんいるから出てって言われたんだけど、さっきキャンセルの電話来たから片付けて帰ろうとしてたんだ」
タイミングを間違ったなと思い、椅子に置いた鞄を持った時だった。
「真ちゃんはいいよ。常連さんだから。飲んでって」
慣れた手つきで恵那は焼酎の水割りを作り始めた。マドラーを回す様がこんなに滑らかだっただろうか。最初の頃は氷にマドラーが引っかかり、よく苦労していたのに。
「わざわざすまないね。じゃあ一杯だけ」
本当に一杯で済ます予定だったのだが、最近別れた彼氏の話題で盛り上がった。
「なんか未練たらたらでさ、何でもするから別れないでとか言うんだよ。今まで私のこと散々放っておいたのに別れる瞬間になると手のひら返すの。男はこれだから面倒臭いよね」
話を聞けば聞くほど胸が痛くなった。俺もそうだった。妻と別れる時、未練がましく説得したものだった。
「若い男はそれに気付けないんだ。自分の欲ばかりが先走ってしまうんだよ」
「真ちゃんくらいの年になるとそれがわかってくるのかあ。やっぱりおじさんは悪くないね」
少しばかりまた期待をした。あり得ないことと知っていながら。きっと男の精神年齢が上がる感覚は女性にとって、計り知れないほど遅い。恵那の言葉を聞いて、すぐに期待してしまうほど俺は幼いのだから。
「俺みたいなやつでもってことかい?」
「うーん。真ちゃんならいいかも」
思いもよらぬ回答に俺は危うく理性を失いそうになった。いかんと思い、すぐ現実に帰って来たものの、興奮は冷めやらない。どうにかこの興奮を鎮めなければ。
「馬鹿言うなよ」
焼酎の水割りをぐっと胃に流し込み、前を向くと、そこには恵那の顔が近づいており、潤いを帯びたピンク色の唇は何かを欲しがっているように見えた。
「本当だよ?」
ゆっくりと恵那の唇が動く。流暢に、そして艶やかに。そのたった四文字の短い言葉が何時間もかかって囁かれているようだった。
唇は徐々に近づく。恵那の顔はいつの間にか俺の視界を埋め尽くした。ピンボケしている恵那の目が静かに閉じられた。そして俺の唇を覆うように、恵那の唇が優しく包んだ。一瞬何が起きたのか、理解に苦しんだ。ただ夢のようなぼんやりとした幸せがそこには広がっていた。
いつまでもこの時間が続けばいいとすら思った。唇が離れると、恵那は付き合いたての恋人のように、頬を赤らめた。その姿は天女のように神々しかった。
「嫌だった?」
俺が首を横に振ると、恵那は恥ずかしそうに微笑んだ。とにかくこの空間が嘘ではないかと何度も頬をつねる。その手を恵那は優しく止めた。
「私ね、真ちゃんの大きい鼻が好き」
恵那は俺の手を止めた後、俺が今まで嫌ってきた大きな鼻をちょんと指で押した。
俺はその後理性をなくした。ホテルで狂ったように恵那を抱いた。何度も恵那の体を舐めまわし、恵那の中に何度も自分を入れ込んだ。たとえ騙されていたとしてもいい。明日警察に捕まって、牢屋にぶち込まれてもいい。
若い頃の妻を抱いている感覚に似ている。行為が終わった後の笑顔を見るたびにそう思った。もう一度愛した人を抱いているような感覚だった。ただ間違いなく俺は妻を恵那に重ねていた。
酒も抜けきった朝。隣にいる恵那を見た時、まさしく現実であることを知る。理性を取り戻した瞬間、急に罪悪感が襲う。
「起きたの?」
恵那の声はいつもより低く、かすれていた。それでも聞いたことのない声にまた俺は興奮した。他のスナックの常連は一生かかってもこの声を聞けない。恵那に愛された者しか、この声を聞くことはできないのだ。
「ああ、ついさっきな」
「お風呂入ってきてもいい?」
「ああ」
恵那は大きな胸を揺らしながら、風呂場へと向かった。その姿を見送りながら、タバコに火をつける。
彼女は俺と身体を重ねたことに何の疑問も抱かないのだろうか。俺を本当に好きだとすれば、何も考えることなどはないのだろうか。
いろんな思いが頭の中で交錯する。いつの間にか火種は勢いを無くし、灰が机の上で綺麗な一本筋を描いていた。
シャワーの音が絶え間なく鳴る。このまま彼女を残して帰ってしまおうかとも考えたが、それでは何も解決しない。彼女と体の関係を持ったことは紛れもない事実なのだから。
シャワーが止まり、恵那は体にバスタオルを巻いて部屋に戻ってきた。
「お待たせ」
太ももから水が滴り落ちている。化粧の落ちた顔は覇気がないが、目鼻立ちのくっきりとしたパーツは化粧によって作り上げられたものではないことがわかった。
「髪は洗わないのか?」
「長いから乾かすのめんどくさくて。今日の出勤前にでも洗うよ」
恵那は俺の隣に座ると、細いタバコに火をつけ始めた。
「濡れたままだと髪の毛がタバコ臭くなっちゃうし」
その姿を見て、先ほど吸いそびれたタバコに火をつける。聞かなければならない。俺の思考では解決できないことを。
「なあ、なんで俺と寝たんだ?」
「おじさんも悪くないって言ったでしょ?」
「まあ、そんなことも言ってたが。虫のいい話だなと思ってね」
「私は人を顔とか年齢で選ばないよ。もちろんお金持ってる人なら遊びで寝ることはあるけど、真ちゃんはお金持ってないこと知ってるし」
「俺は恋愛対象にあるってことか?」
恵那は、小さく笑った。それを鵜呑みにしていいかどうかはわからない。俺は彼女のことを知らないまま、彼女の中へと身体を入れ込んだ。男女の関係になってしまったのだから、もう後に引くことなどはできないのだ。
それから、恵那と店で会うことはなくなった。というより俺が店に行かなくなったというのが正しい。身体を重ねた後に平然な顔で店に行き、恵那と話をすることはできなかった。他の客の視線が異様に気になってしまいそうで怖かった。
恵那の仕事終わりまで別の飲み屋で酒を飲み、出来上がった状態で恵那に会う。そうしてホテルで身体を重ねる。何度もそんな日々を重ねていくと恵那が俺を好きであることは聞かずともわかっていった。恵那が俺を相手にしているのは裏があるからだという思いも消えてなくなった。
愛を久々に感じていた。俺は恵那を愛し、恵那は俺を愛している。記憶から消えていこうとしている妻。しかし妻の幻影は小さくなっても頭の片隅から完全に消えることはなかった。
冬になると、田舎の繁華街にある大きいクリスマスツリーが電飾を光らせる。若いカップルが携帯を片手に写真を撮る中で俺と恵那はベンチに座りホットコーヒーを飲んでいた。
「結婚しないか?」
俺の言葉とともに飲みかけのホットコーヒーが地面に落ちる。その音に気づいた周りの人がこちらを凝視していた。恵那は慌ててコーヒーの入れ物を拾い上げる。
俺が妻を忘れるためにはその方法しかない。恵那が俺の妻になればあの頃の記憶を全て断ち切ることができる。頑丈な金庫にこの記憶を入れて鍵をかけ、もう引き出すことができないようにしてしまえば、俺は永遠につきまとってきそうな幻影から逃れられるはずだと思っていた。
「ごめん、びっくりしちゃった」
「いや、俺もいきなり言ってごめん」
それからしばらく沈黙が続いた気がした。膝に置いた手の甲に雪が何度も降り注いだ。
「私たち本当に結婚してもいいのかな?」
「お互いを愛しているなら、それでいいんじゃないか?」
「でもさ、乗り越えなきゃいけないことはいっぱいあるよね」
「息子のことか?」
「そう。私たちがいきなり息子さんに会って結婚するなんて言ったらきっと理解に苦しむよ」
恵那の言うことは正しい。俺には一緒に暮らしている息子がいる。もし恵那と結婚すれば息子も俺たちと生活しなければならない。心労がたたるのは目に見えている。だがそれでいいのだろうか。まだ幼いなら話もわかるが、もう独り立ちしかけているのだ。息子を主体とした生活は終わりを告げている。
息子が最初は理解しないことなどわかっている。だが時間をかけてきっと理解をしてくれる。自ずと生活していけば恵那の人柄を知っていき、家族として暮らしていけるのではないかという淡い期待が胸の中にはあった。
「じゃあ、三人でまず暮らしてみないか?きっと時間はかかるが息子は理解してくれる」
「本当に?」
俺は自信に満ちた顔で頷いた。その表情を見た恵那は微笑んだが、すぐに顔を曇らせた。
息子には結婚を前提とした付き合いになるため、これから三人で暮らすことを恵那と共に提案することにした。気持ちの乗らない表情をする恵那の荷造りを終わらせ、家へと向かった。息子の待つ家に新しい妻となる人を連れて。
結果としてその存在が愛情を込めて育てた息子をこの家から消し去った。あの頃の幻影を捨てるならばそれでいい。むしろこれが新しい人生を歩むためには一番いい結果だ。
だが俺には胸に引っかかるものがあった。妻の幻影、息子と娘の幻影。あの頃あった幸せの形がいつまでも俺の背中を引っ張るのだった。
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