遠く離れた君へ
「おかけになった電話をお呼びしましたが、お繋ぎできませんでした」
受話器越しに聞こえるのは無機質な女の声だった。もう息子の声を聞くことは叶わないのだろうか。
隣で眠る恵那の顔は息子と変わらないほど若い。俺は我が子と歳の変わらない女に恋をした。
俺は酒を呑むことが好きで、若い頃から晩酌を欠かさなかった。家で呑むときもあれば、外で呑むときもある。
歳を重ねると酒に入り浸るようになる。そのため、帰りの道中で知らぬ間に眠りにつくこともあった。うだつの上がらない日々のせいで会社にはよく遅れるようになり、簡単に仕事を休む日も増えた。
そんな日が続けば会社からも見放される。俺は祐が六歳の時、職を失った。それでも俺は酒をやめなかった。いや、やめることができなかった。もらった退職金を日々酒に使い、家でも外でも呑み続けた。
しかし妻は俺から酒を奪わなかった。呑みつぶれ、朝を迎えると体にはいつも暖かい毛布がかけられていた。そして妻は何も言わずに空けたボトルを片付け、仕事へと向かっていたのだ。
俺は妻に不信感を全く抱かなかった。こいつはいつまでも俺のそばで面倒を見てくれる。強固な絆を感じていた俺は安堵しながら毎日酒を呑み続けた。
退職金が底をついた頃、酒を呑むために日雇いで土方の仕事をした。家庭を動かす金は妻の収入。俺の収入は全て酒へと消えていた。毎月給料前になると、財布に残った数千円を妻に渡した。少ない金額でも彼女はありがとうと笑顔を見せる。俺はその笑顔につかの間の幸せを感じていた。そしてまた安堵した。
しかしその生活は音もなく消える。仕事を終えて帰ってくると暗闇の中で祐が一人で机に顔を突っ伏したまま、叫ぶように泣いていた。状況を飲み込むまで、そう時間はかからなかった。俺は置いていかれた。この場所に祐と二人だけで。ただ妻が何故祐の姉である由乃を連れていったのかがわからなかった。
「ただいま」
俺がそう言っても祐は泣き続けた。その姿を見下ろすことしかできなかった。
「お母さんとお姉ちゃんが帰ってこない」
祐は俺に向かって、泣きながら問う。それは俺も聞きたいことだった。
「泊まりに行ってるだけだから、大丈夫」
都合のいい嘘しかつけない自分に苛立ちが募る。それは時間が経つごとに何も言わずに出ていった妻へと矛先が向く。俺は頭の中で妻のことを怒鳴りつけていた。
しばらくして祐は泣き疲れたのか。そのまま眠りについた。俺は妻がしてくれたように祐の体へと毛布をかけた。
苛立ちを紛らわせるために浴びるほど酒を飲んだ。それでも全く収まることのないまま時刻が零時を回る。その時、日頃鳴ることのない電話が鳴った。
「もしもし、月島です」
「祐子です。ご無沙汰しております」
改まった口調で話すその声は妻である祐子に変わりなかった。他人行儀で話す祐子に俺は苛立ちを爆発させた。
「どこにいるんだ!勝手なことしやがって」
「離婚してください」
俺の激しい口調を包むようなほど穏やかな口調だった。その瞬間に体の力は抜けていく。
「どうして」
「自分の振る舞いを理解していないからです。離婚届を書いて、私に送ってください」
何とも業務的な連絡だった。こんなに機械的で無感情な祐子を見たことがなかった。俺は祐子を知らぬ間に最後の審判の時まで追い込んでいたことを知る。
「親権はどうするんだ。祐はどうすればいい」
「あなたが育ててください。由乃は私が育てますので。この意見を飲めないのであれば裁判を起こします」
裁判を起こす。それは親権を取り、養育費を払ってもらうようにすることだと理解した。定職についていない俺は二人の養育費を賄うことなどできない。それを既に見込んでいたのかもしれない。
祐子は泣いていた。きっとその涙は愛情を持って育てた祐を置いていく選択肢しかなかったことに対してだろう。
それを思うと俺が今までしてきた行いが無慈悲なものだと気付く。俺は泣きながら、その提案を飲むことしかできなかった。
妻の帰ってこない家で離婚届にサインをして、それを妻の実家に送った。
これで離婚が成立する。もう二度と妻と娘には会えない。その悲しみは常に俺の心を支配した。
それから仕事を終えて帰ってくると妻のしていた家事をやる生活になり、酒を呑む暇など無くなった。由乃が生まれた頃も少しばかり家事を手伝っていたことを思い出す。
ご飯がないと泣き喚く祐に対し最初は殺意さえ覚えていたが、我が子を殺めることなどできなかった。それはたとえ子供と血が繋がっていなかったとしてもできないことだろう。
あの気丈な妻が愛を持って、この子を育てたことを考えるとこれから先、祐を立派に育てていかなければならない使命感に駆られた。
きっと俺が酒に溺れなければ、妻は今でも俺の横で笑ってくれていただろう。ただ昔は妻を酒以上に愛することはできなかった。
祐を育てる中で酒を絶つ決意を固めた。妻がいた頃は酒より妻を愛している事など気付かなかったというのに。大切なものは無くしてから気付く。
祐は妻と娘がいた頃より、笑わなくなった。思春期を迎えると会話も少なくなり、言葉も乱暴になった。育てた恩を仇で返されている気がしたが、妻を裏切った報いが今になり返ってきたのだと思い、反省することにした。
祐は高校を卒業するとバイトをして、金を稼ぐようになった。祐が初めて給料をもらった日のことを覚えている。
「これ」
疲れている顔をした息子が真新しい茶封筒を差し出す。
「なんだ、これ」
「給料。これからもしばらくは住むことになるから。少ないけど食費だと思って使ってよ」
もう子育てが終わったと感じた。妻が愛情を注いだ祐は家庭のことを考えることのできる立派な息子になった。身勝手な俺とは違う立派な息子に。
その瞬間肩の荷が下りた。そして俺はまた酒に手を出した。
仕事を終えると繁華街に一人で繰り出す。昔に戻ったようで気分が高揚した。いつしか行きつけのスナックができ、その店に入り浸るようになる。入り浸るようになったのはママの人柄が良かったこともあるが、昔から聞いていたビートルズの「オール・ユー・ニード・イズ・ラブ」が流れていたからだろう。その店で働いていたのが、恵那だった。
今まで妻よりも魅力を感じる女などいなかった。離婚した後も妻の幻影だけが付きまとい、他の女を考えることもなく中年になった。そんなくたびれた俺の前に現れた恵那は妻の幻影を見事に再現したような女だった。
とは言っても似ているかと言われればそうではない。恵那の見た目は派手で、顔のパーツも大きく際立っているものが多い。妻はそういうタイプの顔立ちではなく、目は切れ長で細く、鼻も口も小さかった。似ていたのは白く透明感がある肌色だけ。
それでも恵那の笑顔は何故か妻に似ていた。大きな目が笑うと一気に細くなる。その表情を見た瞬間、体に衝撃が走った。
「祐子」
そう小さく、声が漏れたことを今でも覚えている。たまたまカウンターにいたママの名前がゆうこだったらしく、なんで本名知ってるの!?と慌てふためいていたことも思い出す。
だが恵那と仲良くなることはないと思っていた。まず年の差がありすぎる。相手は二十歳も年下の二十六歳。話すことなど何も思いつかなかった。そして中年の男と恵那が話す姿も考えられなかった。事実、中年世代にはママが話し、若い男が来ると、恵那が話す事が多い。親父共には目もくれないと思った。
しかし毎日のように通うと恵那がボトルを出してくれるようになった。
「今日も来てくださってありがとうございます」
ママからよく聞いていた台詞が、恵那の口から発せられると気持ちが高まった。若い女というだけでこんなにも感情が違うと、改めて自分がまだ男であることを知る。
「お名前は?」
恵那が初めて質問した言葉。たった一言名前を述べるだけだというのに俺の口は小刻みに震えた。
「月島です」
「下のお名前は?」
俺がまた口を窄めて、言いづらそうにしていると、ママがグラスを洗いながら優しく言った。
「真太郎さん。真ちゃんって私は呼んでるの」
「そうなんだ。じゃあ私も真ちゃんって呼ぼうかな」
こんなに年の離れた女から真ちゃんと呼ばれるのには少し抵抗があった。馬鹿にされているような気もしたが、実際に呼ばれると、すぐ素直に受け入れていた。それどころか呼ばれるたびに、俺は鼻の下を伸ばしていた。
それから、俺は恵那に包み隠さず何事も伝えるようになった。恵那は全てのことを親身になって聞いてくれた。
いつの間にかママと話す機会よりも恵那と話す機会が増え、ママが違う客につくことが多くなっていった。少しだけママに悪い気がして、謝ったこともあるが「話したい人と話すことが一番よ」と優しく答えてくれた。
正直恵那に話すことは暗い話が多かった。そんな話でもしっかりと聞いてくれる恵那に俺は心を徐々に開いていった。
気を許した俺は仲の良い友人にすら話していなかった恥ずかしいことも話した。それは俺が絵描きを目指していたという話だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます