無機質
ラブホテルを出る頃にはもうお天道様がしっかりと顔を覗かせていた。都会は春先の日差しすら肌を痛めつける。
都会でも早朝は閑散としていることを知らなかった。閑散としているといっても、僕の住んでいるところより圧倒的に人が多い。だがイメージとは違った。いつでも人で賑わっているイメージとは大きくかけ離れていた。平日の早朝はどの土地でも人などいないのだ。
ほとんど周りに人がいないことを入念に確認した後に、色が剥げたジーンズのポケットから先ほど嬢にもらった名刺を取り出した。乱雑に押し込まれた名刺には少しだけシワがついていた。それがやけに味があるように感じ、ポケットに入れたことを誇らしくなる。
凛花。華やかな蝶が舞う名刺にその名前が記されていた。無駄に整った顔立ちを思い出すと、凛としているという意味合いとは違うかもしれないが、名前と顔は妙にマッチしていた。
凛花は何歳だろうか。僕よりも年下だろうか。姉よりも年下だろうか。父が連れてきた女より年下だろうか。僕は彼女を抱けなかったことよりもそんなことばかりを気にしていた。
両親は十三年前に離婚した。僕が七歳の時。理由は未だにわからない。そして僕には五歳年の離れた姉がいる。その姉は母と共に出ていった。
比較的仲の良い家族だったと思っている。夏休みはいつも近くの山へキャンプに行き、冬休みは家族みんなで温泉旅行に行った。それはあくまで父がたらふく酒を飲む口実に過ぎなかったが、子供心ながらに楽しい行事であった。
特に夏のキャンプは楽しかった。人があまり訪れない山へ家族みんなで歩いて向かう。その道中も酒を飲んで上機嫌な父は笑顔で僕と姉をあやしてくれた。母はずっと手を離さない僕の手を繋いでいてくれた。場所は山の水を川へ流す大きな滝のそば。少しだけ舗装されている山道を三十分ほど上がるとその滝はあった。近くには薄ピンク色の百合が咲き誇っており、その花を愛でる母の姿が好きだった。
「これは、ヒメサユリっていう花なんだ。珍しい花でいい香りがするんだよ」
そう言って母は花の匂いを嗅いでいた。僕もそれを真似て匂いを嗅ぐと、甘い濃厚な香りが鼻の中を占領した。それはとても心地良い匂いだった。
夜はみんなでバーベキューをして、キャンプファイヤーをした。日頃できないことをするのが楽しくて仕方なかった。そこには幸せな家族の形がしっかりと存在していた。
そんな幸せだった家族が壊れた日、母と姉はキッチンで朝ごはんを食べていた。ラジオからはビートルズの「オール・ユー・ニード・イズ・ラブ」が流れている。上機嫌に鼻歌を歌っている母の姿があった。
家を出る前にはいつものように母が玄関へと来た。その日はたまたま給食が休みの日だった。
「今日はお母さん頑張ってお弁当作ったからね。しっかり食べて頑張って来るんだよ」
目を細めて笑いかける母。いつもより微笑ましい朝の風景がそこにはあった。自然と笑顔になる風景が。
その笑顔は自宅に帰った瞬間、消えることになる。家には母も姉もおらず、夜になると父親だけが家に帰ってきた。母と姉はいくら待っても帰ってこなかった
父にその疑問を投げかけても、父は大丈夫と言い酒を飲むばかりだった。母と姉がいないことには全く触れなかった。その大丈夫という言葉の意味もよくわからなかった。
家族が父しかいないということを受け入れるまでどれだけの時間を要しただろう。
昨日、父は僕の前に若い女を連れて来た。キャバクラにでもいそうな派手な雰囲気の女。髪は金色に近く、紺色のタイトなワンピースを着ていた。きっと街を歩いているだけで男どもが皆振り返るのではないかと思うほど綺麗な女性。僕は玄関先で彼女を見た瞬間、背筋がピンと伸びるほど緊張した。少しだけ姉だと勘違いしたからかもしれない。信じられないほど、美人になった姉が帰ってきたと。
しかしそれは淡い期待でしかなかった。
「祐。これからこの人と三人で暮らすから」
父が連れてきたその若い女は父の恋人だった。その衝撃は稲妻のように体を迸った。その瞬間、僕は二人の間をくぐり抜けて、玄関を飛び出した。稲妻の衝撃は緊張すらも一瞬で掻き消した。
バイト先の着替えと財布だけが入ったリュックを持ち、自由席の新幹線に飛び乗った。僕は何も考えずに地元を離れた。色々なことが頭を駆け巡るようになったのは、田舎の真白な風景を越え、都市部へと差し掛かった時だった。
とにかく慌てた僕は、駅に着いてからすぐバイト先へ連絡した。親戚の元へしばらくの間行かなくてはならなくなった。そんな下手くそな嘘をついた。その嘘もあっという間にバレて、僕の携帯はひっきりなしに鳴り響くのだろうと思いながら。
やることなど特にない。計画性のない旅なのだから仕方ないが。ただ僕には一度だけやってみたいことがあった。それは女性を抱くことだ。いや僕に抱くことができるのかを知りたかった。
街中から少し外れたところにあるラブホテル。そこに一人で入り、部屋に置いてある雑誌の後ろに書いてあるデリバリーヘルスに電話をした。しかし、僕は彼女を抱けなかった。
この無機質な街並みが妙に僕の存在感と合っている気がした。どこか寂しさを感じるこの街並み。僕の心を表しているようだった。
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