第30話 特別
「俺もヤキが回ったわ。ぐうの音も出ねえ。」
まだどよめいている試合会場を後にした柿崎は、彰に対して自嘲気味に言った。正直、最後だけを見た彰としては、試合内容で柿崎が完敗だったとは感じなかった。
しかし、当事者はその差をまざまざと感じたようだった。
「最初は互角、いや、俺の方が少し勝ってたくらいだったな。2セット目くらいからか。嘘みてぇにレベルが上がりやがった。へっ。様子見だったのかよってな。」
柿崎は、雑にラケットを床に置いて座り込んだ。
「……あいつ、2週間くらい前までは、俺より弱かったんですよ。」
彰が呟いた。
「だから、手加減なんてできる奴じゃないんですよ。嘘みたいでしょ。あいつ、多分柿崎さんとの試合中に、一つ階段を上がったんですよ。」
柿崎は手を額に当てて少し笑った。
「悪役は俺だったわ。」
主人公はあいつか、と呟いた。
彰は自信なさげに会場の方を見た。嵐の去った会場は、ようやく落ち着きを取り戻していた。
彰と別れた後も、柿崎は暫く椅子に座り込んでいた。
自分で自分を否定したくなる。その努力も、才能も。昨年の自分に敗れた先輩達もこんな惨めな気持ちだったのか。
ふう、と息を吐いて顔を上げた。
これからどうするかな。暫く休んで遊ぶか。今はあまりバドミントンのことを考えたくない。
「だいぶショックみたいだね。」
思考を巡らせていた柿崎の元にやってきたのは、伊勢橋の小西だった。
「やあ、小西さん。図らずも、小西さんの言ったとおりになりましたよ。」
小西は笑った。
「違うよ。俺は、もし負けた時の言い訳を作った方が、気持ちが楽だと思ったから言っただけ。」
「はあ。」
柿崎は首を捻った。
「調子悪かったから負けてやったと言えた方が、自分を諦めずに済むだろ。」
「なんだ、それ。」
しょうもない、と柿崎は笑った。小西も釣られて笑う。
「でもな、これ、意外と悪くないんだよ。まともに悩んで考えたらこっちが潰れる。」
軽い笑い声とは逆に、小西の言葉は真剣だった。
「あんたらは数か月に一回でいいだろうけど、こちとら毎日だぜ?昨日まで勝てた部員が次の日にはコテンパンにされる。その繰り返しだ。で、伊勢橋ではもう俺しかいないわけ。あいつに負けてない奴。」
それも今日で終わりかもねー、と小西は右手を振った。
投げやりになりたくなる気持ちは痛いほど分かる。あんな怪物がすぐ近くにいては嫌にもなるだろう。死刑執行を指折り待っているようなものだ。
「俺さ、篠宮が嫌いなわけじゃないんだよ。」
急に何の話だ、と柿崎は思った。
「他の部員も……まあ半々かな。あいつ生意気、というか空気が読めないからさ。ムカつく奴ってほどじゃないし、嫌味とかあるわけじゃない。でも、やっぱそういう目で見てしまうんだよな。天才ってのはさ。」
「伊勢橋の人らは十分天才でしょうが。贅沢な話っすね。」
皮肉っぽく柿崎は言った。
「ははは。学校のお遊戯で上手な程度じゃ、売れない役者しかなれないからね。」
我ながら良いたとえだろ?と小西は言った。全然、と柿崎は首を振る。
「役者ってのは、どこで目が出るか分からんでしょ?」
「そうだよ、柿崎君。だから俺はもう少し足掻いてみるわ。」
そう言って、小西は立ち上がった。
そのまま会場へと足を向ける。そこでやっと気づいた。
(そうか、次は小西さんが篠宮とやるのか。)
柿崎は立ち上がり、呼びかけた。
「小西さん。」
呼び止められた小西が振り向く。
「頑張ってください。……俺も、また出直します。」
「おう!」
小西が爽やかに手を振った。
負けに行く顔じゃない。
柿崎は少しだけ救われた気持ちになった。
「おーい。彰―。」
聞き覚えのある声だ。今、一番聞きたくなかった声。
「見たか?柿崎さんに勝ったぜ、俺。」
「ああ、おめでとう。」
ぎこちない、そんな言葉しか出てこなかった。
「何だよ。お前の敵討ちしたのに。」
(敵討ち?そんなことしてくれって誰が頼んだ。勝手なこと言いやがって。そんなのは自分でするんだ。)
彰は今にも飛び出してきそうな言葉を飲み込んだ。今、侑司に強い言葉をぶつけることは、自分にも侑司にも負けることのように思えた。
「おい、彰どうした?」
何事もなかったように侑司が話してきた。
「いや、お前冷静だなって。柿崎さんに勝ったんだぞ。もっと大喜びで来ると思ったのに。」
彰の言葉に、侑司はきょとんとした。
「柿崎さんとは別に何にもないからな。」
「何にもない?」
「強いから勝ったのは嬉しいけど、それだけだよ。」
彰は唖然とした。どういうことだ、こいつは?
「あの柿崎さんに勝ってるのに、どんな神経だよ。」
無知なのか、それとも素なのか。彰は首を捻った。
「誰に勝てば嬉しいんだよ。」
彰の問いに、侑司は少し上を向いて考えた。
「お前だな。」
はあ、と思わず彰は声を上げた。侑司は真面目な顔だった。
「柿崎さん、俺より強いんだぞ?」
「そうかあ?」
「実際負けてるんだぞ、俺。」
彰はそう声にしなくてはいけない事実に項垂れた。
「俺にはお前の方が強く思えたけどな。まあ、関係ないだろ。実際、俺はお前に勝ってないんだし。それにさ、何ていうかさ……。」
侑司は少し言いづらそうだった。
「何だよ、急に歯切れ悪いな。」
「お前は何か、特別な感じするからな。」
侑司は照れ臭そうに言った。確かに恥ずかしい。彰も少しむずかゆい感じがした。
「そりゃ光栄だ。」
不思議な奴だ、と思った。侑司が自分より強い人間に勝つと、嫉妬に似た感情が湧いてくる。
だが、侑司が自分以外に負けたらどうなんだろう?
その答えはまだ出ていない。
彰の胸はひどく締め付けられるような痛みを感じていた。
こいつを倒すのは……なんてのは、自分も悪役の証拠だ。
悩んでいる内に、次の試合の時間が近づいてきた。
「ああ、そうだ。お前以外に一人だけ、勝ったら嬉しい相手がいるかも。」
彰は眉を顰めた。それはそれで複雑な思いだった。
「次の相手。」
薄っすら笑っているが、侑司の目は本気だった。
確か、次の相手は、伊勢橋の……。
「お前と違って、全力で潰したい奴だけどな。」
侑司の目には怒りの色が浮かんでいた。
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