地獄からの、光明
あんな引きこもり、早く死ねばいいのに。ていうかなんで生きてるんだろう。
それが私、
私の兄――あんな屑を兄だなんて、そんな現実を自覚するだけで吐きそうになる――の
兄は一体何が気に入らなくて学校に行くのをやめて引きこもり始めたのか、家を出ようとしないのか。そのことについては何も知らないし知りたくもない。兄とは七歳の年齢差があるので、私は兄――あぁもう、兄だなんて本当に呼びたくない。もう、「ヤツ」でいいやあんな屑――が引きこもり始めた時にはまだ三歳で、物心付いた頃にはヤツが常に家にいる生活が当たり前になっていた。小学校にあがる頃には「ヤツがいつも家にいるのはおかしい」と薄々気付いていたが、一体どうしてそういうことになっているのか、本人はおろかまわりの大人に対しても訊くことは
だって、いろいろ――そう、それはもう、いろいろなことがあったのである。
「普通の家にはお父さんとお母さんがいるものだ」というやや前時代的な常識を身に着けた、幼稚園児の頃には、父はもう家の中にいなかった。私が父と呼ぶべき人は二年ほど引きこもった末に自殺したのだと、母から聞いたことがある。そんな男がいつ、どうやって母との間に私という子供を儲ける機会があったのかはおおいに疑問だ。引きこもりながらも、そんなことはできる元気があったということか。そうだとしたら最低だと思う。いいからまずは働け、全部それからだろうが。経済力もないのに子作りだけしてるんじゃねぇよ――と、会ったこともない父を罵りたい気持ちになる。
ともあれ、引きこもりの血は父から息子へと着実に受け継がれたということなのだろう。本当に、穢らわしい血筋だ。でも、その父の血が等しく流れている私は引きこもりになどなってはいない。なってなるものか。引きこもりになんかならない方が普通なのだ。本当ならば。こんな、誰も彼もが引きこもっているような社会はおかしい。五十年前はこんなふうではなかったと、学校でも習った。
父親のいない家でヤツは暴君のように振舞った。引きこもって、やりたくないことは全部放棄して好き放題生きていて、それで充分だろうに、そんなお気楽な暮らしをしていてもなにやら鬱憤が溜まるらしく、事あるごとに母親や、私に当たり散らした。それこそ、私が物心付く前からの話だ。
殴る蹴るの暴行はジャブ程度。拳骨を食らって鼻を折られたことがあるし、割れたコップで切りつけられて手をざっくり切ったことだってある。熱いうどんをぶっかけられて脚に酷い火傷を負ったことも。傷跡が残るような怪我はそれこそ両手の指で数えても足りないはずの数、こしらえさせられた。それでも、外聞を気にした母に、病院や学校では転んだとか
家庭内には男親という抑止力がなかったばかりか、母もヤツをひたすら庇うばかりで私を守ってはくれなかった。このことは、私の心の傷を更に深くした。
――あの子は可哀相な子だから。
――だから璃愛は我慢してあげて。
母は私に何度もそう繰り返した。
泣きながら。苦しげな顔で。呪文のように。呪いのように。
何が可哀相なものか。ああまで好き放題に振舞っているくせに。何の苦労もせずにぬくぬくと家におさまっているくせに。私に酷いことばかりするくせに。
私は、可哀相ではないのか。鼻を折られ、手を切り裂かれ、脚を焼かれ、髪を引っ張られ、押し倒されて首を絞められ、存在自体がムカつくなどと罵られ、足蹴にされている、私は。こんな地獄のような家に生まれて、暮らして行くしかない私の人生は、一体何なのか。これを可哀相とはいわないのか。こんな家に私を生んだ母は、私を可哀相だと思ってはくれないのか――そんなふうに考えずにはいられなかった。自分の境遇に、到底納得は行かなかった。
引きこもりを抱える家は今やありふれており、私の置かれた環境も並外れて劣悪というわけでもなかった。家族から暴力を受けているクラスメイトは私以外にもたくさんいた。毎日のように誰かが服で隠れないところに大きな傷をつくって登校し、休み時間には家の中にいる悪魔のような引きこもりにされた酷いことにまつわる愚痴を吐き、みんなで泣いた。どうしてこんな目に遭うんだろうね私たち――と。
他のクラスメイトも同じような境遇にあり、みんなで泣くことだってできるとしても、その事実は私にとって慰めにはならず、理不尽を呑み込むのは容易ではなかった。だって苦しいのは私だ。みんなも苦しいから私が苦しくても我慢できる、などという道理はない。
どんなに現状を呪おうが、この境遇から逃れることはできない。私は母ともども、ヤツのサンドバッグとして生きて行くしかない。少なくとも、私が自活できる年齢になるまでは。
それが、現実だった。
――私は、可哀相ではないのだろう。おかあさんにとっては。
そんな諦念を抱くに至り、家を離れるための手段として全寮制の高校を受験するための準備をしていた十五歳の頃、事件が起こった。
私の目の前で、ヤツが、激しい口論の末に母を階段から蹴落として死なせたのである。
「母は足を踏み外して階段から落ちた」
「目の前で見ていたけれどもどうしようもなかった」
「母はきっと打ちどころが悪くて、死んでしまったんだと思う」
対外的な説明が必要な場面ではこそこそとゴキブリのように自室に引っ込んでしまう、内弁慶の極みというほかないヤツに代わって矢面に立つこととなった私は、警察にはそう説明した。ヤツを庇うためなどではない。自分の身を守るためだ。
「殺人犯の妹」などという汚名を着せられてしまったら、自分の人生はどうなるのだ。ただでさえ、引きこもりの暴君を兄に持ったことで生き地獄を味わわされてきたのに、これ以上の苦境に立たされるのはまっぴらだ――そう思っての私の行動を、誰も責めることはできないはずだ。
母の死は、無事に“事故”として片付けることができたが、そこからが更なる地獄だった。
唯一の稼ぎ手である母を失い、母が遺したわずかばかりの貯金だけを頼りに暮らして行かなければならなくなったのだ。生活能力のないヤツと二人きりで。
進学を目指していた全寮制の高校は私立だから学費が掛かるし、「テメェが出て行ったら俺の飯はどうなるんだよ⁉ 俺に死ねというのかお前は!」などと
できるものなら「お前の飯なんか知るか。自力でどうにかできないなら死ね」と捨て台詞を吐いて家を出てやりたかったが、そんなことをして孤独死でもされたらそれはそれで面倒だし、何よりヤツに逆らうことは怖くて、どうしてもできなかった。
そうして近所の公立高校に通いながらヤツの身の回りの世話を担う日々が続いた。母の命を奪い、私の進路を捻じ曲げ、なおも好き放題に振る舞う、ヤツの。
暮らして行くには遊び半分ではない本気のアルバイトも必要だったから、高校生らしい楽しみなど何一つ知らないまま、通学と家事、アルバイトに三年間明け暮れ、なんとか一定以上の成績を維持して高校を卒業し、奨学金という名の借金を背負いながら看護学校を卒業した私は、市内の病院に就職した。
看護職は、AIが未だ人間に取って代わることができていない領域の一つである。結局のところ、究極の頭脳労働か究極の汚れ仕事のどちらかだけが、「人間にしかできない仕事」として残るのだろう。もちろん看護は後者だ。人の命が懸かっている現場にあって誰もがピリピリしていて、先輩に当たられることは当たり前。どんなにふてぶてしい患者にも仕事として優しく接しなければならない。普通の職場であればハラスメント事案にあたるようなことは毎日のようにあるが、それだって仕事のうち。勤務形態だって三交代だから過酷なんていうもんじゃない。
それでも仕事ならば、まだ我慢できた。これはお給料と引き換えなのだと思えば。やるせないのは、こんなに大変な仕事をして、こんなに疲れるのに、家に帰れば今度はヤツの世話が待っているということだった。病人でもない、ただ働きたくないだけのヤツに、どうしてこんなに尽くさなければならないのか。自由に動く手と足があるくせに食器洗いや洗濯すら自力でできないとはどういう了見なのか、全く理解不能だった。
看護師になってから一年足らずで、私は精神科の患者となり、
――こんなものに頼らなきゃならないなんて。
――これじゃあまるで
――ヤツは、こんなものがなくても平気な身体なのに、私は、ヤツのせいで。
そう考えると理不尽でたまらなかった。この私が、精神科の患者なんかになるなんて。食後や寝る前には掌に載せた精神安定剤を口の中に放り込み、ガリガリと咀嚼する。その時、私はきっと、ヤツへの憎悪も咀嚼している。薬にがちがちと歯を立てることで得られるちょっとの苦味は、ヤツに対する苦い思いだ。
腕力では絶対に叶わないヤツに、憎悪を直接ぶつけることはできないから。そんなことをしたら、またものすごく痛い目に遭わされるから。そんなのは、嫌だから。だから私はヤツに対して言いたいことを呑み込みながら精神安定剤を呑み下してやっとのことで日々を送る。「ヤツを放り出して家を出て一人暮らしをする」という叶わない夢に思いを馳せながら。
こんなにつらくて、こんなに気分が悪いのに、仕事を辞めることはできなかった。二人分の生活費に加え、奨学金の返済も私の両肩に重くのしかかっているからだ。生きるために働いているのか、働くために生きているのか。生きるためにお金が要るというのは、生きて行くことを放棄するならばお金なんか要らないというのと同義ではないのか。疲弊した頭でそんなことを考え、しかし、とにかく一日、一日を積み重ねるようにしてとにかく暮らしを回して――
精神安定剤と離れられない仲になってからどれほど経った頃だろう。私が二十五になる年の四月、いわゆる引きこもり特対法が施行された。
これは私にとって光明だった。
ヤツを、合法的に、殺せるようになったのだから。
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