5話「忘れたい記憶」
5話「忘れたい記憶」
どうして、彼は記憶を失くしてしまったのか。しかも、風香の事だけを。
事故にあったのだろうか?けれど、彼は見たところは元気そうだった。それに、彼がいなくなってから1ヶ月は経っているのだ。もしかしたら、事件に巻き込まれた可能性はあるかもしれないので、柊に聞いて見なければと思った。
そして、もう1つの可能性。
それに考え付いた時、風香は「何故、彼が………」と、大きなショックを受けてしまった。
その可能性はないと思いたかった。
「恋人はいらっしゃらないのですね」
「はい………」
いない、と返事をした後の切ない表情は一瞬のものだった。柊は、すぐにニコニコとした表情に戻った。戻れなかったのは、風香だけ。
「俺もいませんよ」
「そ、そうなんですね」
「はい。聞けてよかったです」
その答えは少しだけ安心出来るものであったけれど、やはりショックが大きかった。
「すみません。………そろそろ、時間です」
「あ。長々とすみませんでした。せっかくのお休みなのに時間を貰ってしまって……」
「いえ。一人旅のいい思い出が出来ました。一人旅もゆったりできていいですが、やはり誰かと一緒の方が楽しい。そう、思えました」
「………そ、そうですね」
彼の優しい言葉は全て自分に向けられていると勘違いしそうになってしまうほど、紳士的な返事だった。
柊が記憶を失くしていたとしても、やはりまだ大好きだと強く強く思える。
ここでお別れだとは思いたくない。早く連絡先を聞かなければ。
そう思って、スマホを出そうとしたときだった。
柊は、小さな紙をスッと差し出してきた。
そこには手書きで、スマホの番号が書かれていた。
「風香さんに渡したくて、準備してきました。連絡先です」
「………あ、ありがとうございます」
「受け取って貰えなかったら、自分で捨てようと思ってたので。そうならなくてよかったです」
「そんな………私もお聞きしたいと思っていたんです」
「では、また会えるように連絡してください。楽しみにしています」
柊は、そう言って席から立ち上がった。
風香も同じように立ち上がろうとするが、柊はそれを止めた。
「俺は、仕事で食事中に席を立たなきゃいけないんですが……もしよかったら、風香さんはゆっくりしていってください。まだ、残っていますし、おいしそうなデザートもありますよ?」
「え、でも………」
「また、会えるはずなので大丈夫です。ここの支払いは俺が貰いますので。もちろん、デザート分も」
「そんな!私も支払います」
「ダメですよ。年上で、しかも俺は男なんですから払わせてください。では、次に会った時にいろいろ聞かせてくださいね。今度は俺が質問責めをしますので」
「…………わかりました。ありがとうございます」
風香は彼の厚意に甘える事にして、チーズケーキも注文させて貰った。
柊は「楽しかったです。では、また」と言って一足先にレストランから出ていった。彼の背中を見送った後、風香は小さく息を吐いて、彼から貰った紙を手に取った。
そこに書かれていたのは、風香が知らないスマホの番号だった。行方不明になる前に使っていたスマホではないのだろう。風香はある可能性を考えてしまい、また涙が流れそうになった。
「お待たせいたしました。チーズケーキとコーヒーになります。お食事はお済みでしたか?」
店員が注文したものをテーブルの上に置いた。まだ風香の前には食べかけのものがあった。
「あ……まだいただきます。済んでいるものだけ下げて貰えますか?」
「かしこまりました」
そう言うと、柊が食べ終えた食具を店員か下げてくれる。
風香は冷えてしまった、パスタとスープに口をつけた。柊がご馳走してくれたものを残すのは嫌だったのだ。
目の前から柊がいた痕跡がなくなり、風香は寂しくなる。けれど、テーブルの端には、彼から貰った紙が置いてある。それだけで、先ほど柊と会ったのが夢ではないと思わせてくれる。
何気なくその紙を裏返すと、そこには彼の名前が書かれた名刺があった。警察官だと示すものだった。
「この名刺は同じだわ………」
それを見つめると何故だか雨音が聞こえてくるような、そんな気がした。
しばらくの間、その名刺を見つめているうちに、暖かいコーヒーも、また冷めてしまったのだった。
その日の夜。
警察から電話が掛かってきた。
相手は柊の後輩である朝霧和臣(あさぎりかずおみ)からだ。内容は、柊が見つかったという事だった。
風香は、偶然にも彼に会っていた事、そして彼が自分の事だけを忘れている様子だった事を伝えると驚きの声を上げていた。
電話で詳しく話す事ではなかったし、和臣も仕事中だったため、その話しはすぐに終わり、明日に風香が警察署に向かう事になった。
一人旅の夜。
風香はスマホを握りしめて、ずっとある事を検索していた。
検索ワードは「メモリーロス」。
メモリーロスとは、世間で話題になっているドラックだった。
そのドラックは特殊なもので、幻覚症状や気分の向上などはない。
ただ一つの特性だったが、それがある一定の人々を虜にしていた。
薬を服用した事で、自分が忘れたいと強く望んだ物事を忘れることが出来るのだ。
柊は風香だけの事を忘れている。
それはメモリーロスを飲んだ事により引き起こった結果ではないかと風香は考え付いたのだ。そう考えると、彼が風香の前から突然姿を消し、記憶を無くているのかが納得出来る。
ただ、誰にも会わずに1ヶ月も離れていた事は謎のままだった。
そこまで考えて、もしそれが本当だったらと思うと、強くショックを受けてしまっていた。
メモリーロスを飲んで、風香の事を忘れようと望んだのは、紛れもなく柊という事になるのだ。
恋人であり、婚約者でもあった柊が自分を忘れようとドラックに手を出した。
もしそうだとしたら…………彼はそこまでして、風香から離れたいと願っていたのだろうか。
何故?
どうして?
…………私の事が嫌いになったの?
そう考えては、悲しみが込み上げてくるのだった。
もし、彼が本当に自分の事が嫌になって忘れてしまったのであれば、折角記憶を失くしたのに、また会う事になってもいいのだろうか?
そんな事さえ思ってしまうのだ。
「はー………。あ、薬………私も飲まないと」
柊がいなくなってから、不安になってしまったせいか、なかなか寝付けない日が続いていた。柊の後輩である和臣におすすめのサプリメントを教えてもらい、風香は週に1度それを飲むことにしていた。飲みすぎもよくないとの事だったので、不安定な時に服用するようにしていた。
ポーチから薬を取りだし、薬を水で喉に流し込む。
昨日はお酒、そして今日は薬のお陰で何もかも忘れてぐっすり寝れるはずだ。
風香は、眠りの世界へと逃げ込んだのだった。
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