4話「忘却の恋人」
4話「忘却の恋人」
「あ、風花さん。こんにちは」
「………柊……さん。こんにちは。昨日は、ご迷惑をお掛けしてしまって、すみませんでした」
風香がロビーに向かうと、すでに柊は待っていてくれた。昨日のスーツとは違い、薄手のグレーのニット、中にシャツを来ているのか爽やかなグリーンの襟と袖が見えていた。そして細身の黒ズボンにスニーカーという姿だった。今日はオフなのだろう。そして、その洋服は風香が見たことがないもので、新品のように見えた。
光に当たると灰色に見える黒髪は、いつもよりラフにスタイリングされている。そう、風香が知っているオフの日の柊そのものだった。
風香を見つけると、座っていたソファから立ち上がり出迎えてくれた。
「昨日は大分酔っていたようなので、覚えてくれてるか心配だったんですけど。また、会えてよかったです」
「お恥ずかしいです………あんな突然声を掛けてしまうなんて。酔っていたから出来ることかもしれませんが」
「俺は嬉しかったですよ。風香さんと話してみたいと思ったので」
「…………それは………」
「あんなに熱烈なお誘い始めてだったので、嬉しくて」
「………すみません」
柊は冗談でそう言ったのか、少し意地悪な笑みを浮かべていたので、風香は困った顔を浮かべた。けれど、柊に悪い印象を与えていたわけではなかったようでよかったと思った。
「海辺におしゃれなレストランがあるんです。風香さんはご存知ですか?」
「え、えぇ………パスタとかおいしいですよね」
「そうなんですね。俺は初めてなんです。そこに行ってもいいですか?」
「え、えぇ………もちろん」
海辺にあるレストラン。
それは、きっと柊と風香が初めての旅行で訪れた時に行ったお店のはずだ。
風香はもちろん覚えている。大切な場所なのだから。けれど、柊は忘れてしまっているようだった。婚約者である柊はこの事を覚えているはずだ。そうなると、やはり目の前の彼は似ている別人なのだろうか?
「風香さん?」
「あ、ごめんなさい。ボーッとしてしまって………」
横を歩いていた柊が、反応のない風香を心配して顔を覗き込んだ。
風香は間近に迫った彼の顔を驚き、返事をすると柊は笑顔で「昨日はお互い遅くまで飲んでしまいましたしね」と、にこやかに話しをしてくれる。彼の話しに返事をしながら歩いているうちに、近くの海岸に向かった。
「せっかくだから、海の近くを歩きますか?」
「そうですね。………柊、さんはお休みでこちらにいらっしゃったんですか?」
柊の事は「柊」と呼び捨てにしていたので、「柊さん」と呼ぶのは他の人の名前のように聞こえてしまい、違和感を感じていた。けれど、実際目の前の男は別人なのかもしれないのだ。それに昨日の夜に会ったばかりの男性を呼び捨てにする事も出来ないので、風香は彼の事を「柊さん」と呼び続けることにした。
「えぇ。久しぶりの連休を貰っていたので。一人旅をしに……風香さんは?」
「私も同じです。一人でここに来ました」
「そうですか。ここはいい場所ですね。ホテルからの景色も最高だし、周りには落ち着いた店も多くて雰囲気もいいのに混み合っていないので、静かですし。それに………何故か懐かしさも感じます」
それからしばらくはこの場所についての話しをしながら浜辺を歩いた。潮風が温かく春を感じさせるものだった。
しばらく歩くと、目的地のレストランが見えてきた。ランチ時だったので少し混雑していたが、ちょうど帰る人が居たため待ち時間もなく店内に案内された。
2人が座ったのは、窓際の海の見える席だった。柊は遠くの海を眺めながら、懐かしそうに目を細めて遠くを見つめていた。
彼の懐かしいというのは、自分と旅行に来た事があるからではないか、風香はそう思ってしまい、ここで彼に全てを打ち明けてしまいたかった。
けれど、それはまだ早いのではないか、と風香は思い止まり、高まる気持ちをグッと堪えた。
風香は、目の前の彼は自分の婚約者である青海柊と同一人物だとほぼ確信していた。
けれど、まだ疑ってしまう部分があるのだ。いや、彼が自分の事を忘れていると思いたくないのかもしれない。
ずるいとは思いつつも、風香は左手の薬指の婚約指輪はつけていなかった。
もしつけていたら、彼は風香を婚約しているか結婚していると思って離れてしまうと考えたからだ。彼に嘘をついてしまっているのは心苦しいけれど、本当に柊なのか見極めるためには必要なのだと、思うようにした。
そのためには、彼にいろいろと質問しなければいけないのだ。
風香は話しのタイミングを見計らいながら、柊に問いかけていった。
「柊さんは、体鍛えてる感じがしますけど………お仕事の関係ですか?」
「あぁ、俺は警察官なんです。だから、意識的に体は鍛えるようにしてるんですけど……どうしてわかったんですか?」
「そんな風に見えたもので……警察官は大変そうですが、かっこいいですよね。事件とか追ってたりするんですか?」
「そんなにカッコいいものじゃないですよ。意外に地味なものです。書類書きも多いし………。確かに、事件を追っているような課ではありますが、警察に興味あるんですか?」
「あ、結構刑事もののドラマが好きなので……」
いろいろ突っ込んで聞いてしまったので、柊は警察に興味を持ったと思ったのか、それとも怪しんだのかわからないか、最後にそう質問してきたので、慌てて誤魔化したが、上手く誤魔化せただろうかと不安になってしまう。
「そう言えば、風香さんはおいくつですか?………って、女性に年齢は聞かない方がいいのかな………。俺は31歳だけど、年下ですよね?」
「えぇ……28歳です」
「そうか。俺とあまり変わらないんですね。よかった」
彼が何故「よかった」と言ったのか。
風香は、その理由を察知して思わず嬉しくなってしまう。
それにまるで出会ってすぐの付き合いたての頃のように、敬語で話したり、妙にそわそわした雰囲気が懐かしくなってしまう。それが悲しくもさせてしまうのだけれど………。
「おうちはここの近くなんですか?あ、でも旅行だから少し遠くでしょうか?」
「趣味は何ですか?」
「好きな食べ物は?」
気づけば、風香が彼に質問し続けるという構図が出来てしまっていた。けれど、柊は嫌な顔1つせずににこやかに答えてくれていた。むしろ、楽しそうだった。それに、そこから話しを発展させてくれるのも上手く、2人は食事よりも会話を楽しんでいた。
緊張していた風香も自然と笑みを浮かべてしまう。それほど、彼には安心させる雰囲気があった。
いや、違う。
彼は青海柊なのだ。
年齢も職業も、趣味も好きなものも、全てが婚約者である青海柊と同じだった。
これが偶然だというのか?そうだとしたら、同じ人が世界に3人はいる、という噂も本当なのだろうと信じられるほどだった。
彼が探していた柊と同一人物だと確信した風香は、グッと手に力が入っていく。
この時間が続いて欲しい。けれど、彼にもう一度優しく「風香」と名前を呼んで、愛の言葉を囁いて欲しいと願ってしまう。
けれど、今の彼はそれを叶えてはくれないのだろう。
彼に打ち明けるべきなのか。
それを迷ってしまい、唇が止まってしまう。
すると、柊は続けて楽しそうに笑った。
「何だか、沢山質問してくれますね?」
「あ、すみませんっ………!」
「いえいえ。楽しいのでいいですよ。あ、でも、俺からも質問してもいいですか?」
「えぇ………それはもちろん」
「風香さんは恋人はいるんですか?」
「え………」
予想していなかった言葉に、風香は固まってしまった。
恋人はいる。結婚を誓った大切な相手がいる。それなのに、すぐに「はい」と返事をする事など出来るはずがなかった。
恋人である柊自身に問われてしまうとは思わなかったのだ。
それで、全てを理解し、やっと受け入れる事が出来た。
柊は風香の事を綺麗に忘れているのだと。
「風香さん?」
「………せん」
「ぇ………」
「恋人はいません」
平然を装って笑顔で言葉を紡いだつもりだった。けれど、きっと上手く笑えていないのだろう。目の前の彼の表情が、少し悲しげだったのだ。よく言う、会話をしているとお互いに同じ表情になるものだ、と言う事が正しければ、彼の表情が、今の風香の表情なのだろう。
眉や目尻を下げて、苦しげに微笑む顔だ。
自分の事を忘れてしまった人の事を、恋人や婚約者とは言えない。
風香はそう思い、彼に「いない」と告げた。
これが正しい判断だったのかはわからない。
けれど、今はまだ彼に本当の事を伝える勇気は出なかった。
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