第5話 指先のひび割れ。

 八時すぎになってFAVがやってきた。


 既にエナもマナミも帰宅していて、HISAKA宅にはメンバーとマリコさんだけになっていた。

 FAVが来てから夕飯にする、とマリコさんが主張したので、それまでは音合わせをすることにしていた。時間がもったいない、とのリーダーのお言葉に、確かにそうだ、とうなづいた結果である。

 FAVのパート抜きでやると、さすがに音はシンプルになる。

 入ったばかりだというのに、彼女のギターが、PH7の曲にふりかけるエッセンスの効き目は大きかった。

 音一つで曲が華やかになる。それはHISAKAの時々無意味にゴージャスに重厚になってしまうものとは違って、何かしら浮遊感を伴っていた。

 切れるように鋭い音も出すことは出すのだが、その一方で、サステインを効かせた――― 上空へ舞い上がるような遠くへ届く音を自在に奏でる部分もあった。

 HISAKAは最初に意識してその音を聴いた時に、光の明度が高い風景画が浮かんだのだ。その明るさは自分にやや欠けていた。欠けていたから欲しいと思ったのだ。

 そしてそれは正解だったようである。

 重厚なものはある程度支持されることは判っていた。だが重厚なだけでは駄目なのだ。自分には理解できても、聴く相手に理解されなくては意味がない。

 だがそれは客のレベルに落とす、ということではない。


「要は入口なのよ」


と十一月の中頃、よくHISAKAはFAVに言っていた。


「あたしのボキャブラリィだけではコトバが通じない人にはあなたのコトバが必要だと思うの」


 なるほど、とその時FAVは答えた。

 そんなことを思いだしながら、HISAKAは新曲のドラムを考えながら叩いていた。新曲がFAVのものだったのだ。タイトルは「MERRY-GO-ROUND」という。

 おもちゃ箱みたいな曲なんだけど、とFAVは前置きした。だからそこに何かあんた達で色塗ったくってちょーだい、と。


「どーせ単純にあたしの思ったとおりにはしてくれないでしょ?」


 そう笑いながら。

 FAVは自分の曲がいじられるのが好きだ、という。

 変わったら変わったでまたそれが面白いんだ、と。その点がついつい構築に走ってしまう自分と違うんだ、とHISAKAは思う。そして自分にない部分だから、PH7には必要なんだ、と。

 おもちゃ箱おもちゃ箱…… 思いつつもある程度決めたリズムパターンを叩いていく。そこにベースが跳ねるような音で乗っかる。軽いリズム。


「……!」


 突然途切れる。


「たぁ……」


 TEARが小さくうめいた。どうしたの、と手が空いているMAVOが訊ねる。


「MAVOちゃんバンソーコちょーだい」

「ばんそうこ? どしたのTEAR」

「これこれ」


 ぐっと右手を突き出し、左手で親指と人差し指の先端を見せる。


「げげっ、痛そ」

「何何どーしました?」


 P子さんもHISAKAも何事じゃ、と言わんばかりに近寄ってくる。基本的に皆野次馬根性は旺盛だった。


「ありゃこれゃ痛いですよ」


 親指の先端の、固くなった部分がぱっくりと口を空けていた。


「何でこうなるまでほっとくのよお」

「いや毎年なるし、春になれば勝手に治るもんだからまあ」

「そういう問題じゃあないでしょ、マリコさあん」


 MAVOはばたばたとスタジオから飛び出して行った。


「何でそこまでなる訳?」

「まー体質もあるんだけど。さすがに左手はもうそれすらならなくなったけどまだ右手は中途半端だなあ」

「ああベースだこ」


 P子さんは自分はどうだったっけ、とじっと自分の手を見る。


「P子さんは大丈夫。あんただいたいひび割れもせんじゃない」

「何どーしたの?」


 ひょい、と鮮やかな風が吹き込んだような気がした。大きめのコートを羽織って、中には鮮やかな色のモヘアの、これまた大きめのセーターを着た奴がやってきた。


「FAVさんは手、大丈夫?」

「手?」


 じっと手を見る。


「何? 手がどーしたの?」


 HISAKAは近付いてぱっと手を取る。


「あらしなやか」

「だから何だっつーの」

「いや、そこの女がご大層なひび割れ起こして」

「おやまあ」


 自業自得だよ、とFAVはそのトラブルの主に言う。HISAKAは何それ、と言葉の意味を訊ねた。


「ただでさえほこりっぼい所でバイトしてるんだから、もっときっちり手のケアせいっつーの」

「ああ、そういうことか」


 HISAKAはにやにや笑う。何笑ってんのよ、とFAVは軽くHISAKAをにらんだ。


「おおっ血がにじんでくる」

「押してりゃとーぜんだわ。止めたきゃ心臓より上!」


 そう言って手を掴むと彼女の大きな胸より上に上げた。こうなるとHISAKAは、やめろと言われてもにやにや笑いは止められない。


「誰かけがですってーっ! あらFAVさんこんばんわ。いつの間に」


 MAVOより先にマリコさんが飛び込んできた。どうやらケガだ何だと聞くと、昔の血が騒ぐらしい。


「玄関開いてたよ。物騒だからちゃんと鍵しめなさいや」

「あ、そーでした? で、けがは」


 てきぱきとマリコさんは救急箱から道具を出す。


「そ、そんな大げさに」

「TEARさんどっか…… あら血」

「大丈夫だって。ばんそーこだけちょうだい」

「そう言ってるとひどくなるんですよ。あーあひどいあかぎれ」


 そう言うとマリコさんはきず薬の軟膏を取り出そうとする。それを見てTEARは、


「あ、塗るのは駄目っ」

「何でですか」

「楽器に付くじゃねーの。とりあえず音合わせの後に」

「だってFAVさん来たじゃないの」


とMAVOが口をはさむ。


「へ」

「FAVさん来たら食事にするからって、時間つぶしに合わせてたんじゃなかったっけ?」

「あれ?」


 MAVO以外の全員が熱中しすぎていて当初の目的を忘れていたのだった。


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