はつはる。

藤堂ゆかり

第1話

 私は、非常に怒っている。部屋着のままこの寒空を走り回ることが出来るくらいに。

十二月の下旬。場所によっては雪が降る所もあり、都心でも時々雪が降る季節になった。暦は師走ということで、年末年始はやることが大詰めだ。掃除やお節、年賀状、お年賀の準備と色々忙しい。年末は休みを取ったので、家のことに専念出来る。しかし、彼女が様々な部署での忘年会に引っ張りだこで、ここ最近は帰ってくるのが深夜なのだ。早く帰ればいいのだが、お酒に強く潰れないので、持ち前の面倒見の良さが発揮して介抱する側に回ってしまう。彼女のいいところで、惚れた要素の一つでもあるのだが、今はそれを発揮しないで欲しい。おかげで掃除が全然進まない。


「お正月までに間に合うかなぁ……」

 

 雑巾を片手に私はぽつりと呟く。部屋の掃除が終わらない。二人が住むような広いマンションの部屋なので、掃除をする場所が少し多い。今は台所周りを掃除しているのだが、油跳ねが多くて中々こびりついて取れない。ガスコンロ周りのアルミホイルも取り替えなければならないし、換気扇も油だらけだろう。中々進まない掃除と彼女が家事に参加してくれないのでイライラが募るばかりだ。すると、玄関の方から帰宅の音がした。


「ただいまぁ」

 

 彼女はブーツを脱ぎ捨て、部屋に上がる。今夜はいつもより早くの帰りだ。だが、普段よりかなり飲んだようで、アルコールの匂いがキツい。頬が赤く染まり、いつものキリっとした目がぽやんととろけている。逆にそれが私の不満を増長させる。


「おかえりなさい。今日は結構飲んだんだね」

 

 私はいつもの口調で彼女に言葉を投げかける。本当は文句の一つでも言いたいのだが、忘年会といえども職場での飲み会なので、仕事みたいなものだ。不満の塊を無理やり胃に押し込む。


「そうね。今日は少し飲み過ぎちゃったわぁ……ふふっ、あなたは今日も可愛い……」

「……酔ってる?」

「酔ってません」

 

 すると、彼女に突然ぎゅっと抱き締められる。お酒が入っているせいか、加減なしにキツく抱き締められているので少々痛い。


「わぁ!ちょっと!!」


 私は、語尾にハートマークが付きそうなくらい甘い声を出す彼女にたじたじになる。いつもの彼女の匂いが消え失せ、アルコールの匂いを強制的に嗅がせられる。彼女の腕の中で思わず顔をしかめ、じたばたと動く。


「ほら、先にやることあるでしょう!?」

「まずはあなたを可愛がるのが先!」

 

 頬を両手で押さえられ、ふんわりと真ん中に寄せられ、むちゅっと唇を強調させられる。とろんとした顔が私の唇に近づいてくる。息が臭い。彼女はお酒のせいで空気が読めない女になってしまっている。それが私の胃の中で沸々と大きくなっている不満の種が芽生えさせ、お腹の中から出てきてしまう。


「いい加減にしなさい!」

 

 ぱちーんといい音が響き渡り、彼女を突き飛ばす。突然のことで若干よろめいた彼女をよそに私は自室へと籠った。愛のビンタを食らった彼女は目を丸くして、しばらくそこに立ち尽くしていた。



「昨日はごめんなさい。今日から参加するから、機嫌直してちょうだい」

「……。」

「あなたの好きなプリンを買ってきたから好きな時に食べて」

「……ありがとう。冷蔵庫に入れておいて」

 

 ぶすっと頬を膨らませながら、私は今日のお昼ご飯を作っている。彼女には何も聞かず、お昼はオムライスにした。なんとなくふわふわの卵が食べたかったのだ。フライパンにベーコンとコーン、グリーンピースをバターで炒め、後から昨日の残り物のご飯を入れてケチャップで和える。背中からの視線が凄まじく痛い。彼女は昨夜の記憶があるらしく、二日酔いそっちのけで私に謝り倒している。

 

 昨夜はそのまま自室に引きこもり、いわゆるふて寝というものをしてしまった。冷静に考えると、少し大人げなかったかなと思ってしまう。ただ、一緒に住んでいるのだから、彼女にも参加して欲しいのも事実。すると、後ろからふんわりと抱き締められる。


「ねぇ、どうしたら機嫌を直してくれるの?」

 

 彼女にしては、少し悲しげな声色。いつもの少し威厳のある口調はどこへやら。後ろを向いていないのでわからないが、彼女は悲しげな顔して、犬が叱られたように耳が垂れているような気がする。少し可哀そうになってきたので、構ってあげようか。私はガスの火を一旦止め、彼女と向き合う。彼女の顔は想像通りの顔になっていて、内心笑ってしまう。


「ここ最近、一人で家事頑張ってたから、ご褒美が欲しい……」

「ご褒美?何がいいのかしら?」


 彼女は前からぎゅっと私を抱きしめる。お酒の匂いはもう感じられなくて、いつもの彼女の優しい匂い。私はいつものようにそっと背に手を添えてみる。


「台所の掃除頑張った」

「ガスコンロも綺麗になったわね」

「お風呂の排水溝も掃除した」

「お湯がいつもより綺麗ね」

「窓ガラスも拭いた」

「ええ、わかってる」

 

 頑張ったわね、と彼女が頭を撫でてくれる。今まで頑張ってきたことが報われたみたいで凄く落ち着く。彼女の優しい匂いが私を包み、ずっとここにいたいくらいだ。私はぎゅっと彼女の服を掴み、とろんとした目をしながらぽつりと呟く。


「だから、いっぱい甘やかして欲しい……」

「仰せのままに」

 

 彼女によって顎を掴まれ、目線を合わせられる。彼女の表情は嬉しくもあり、少しだけ困った顔をしていた。彼女のことだから本当はもっと要求して欲しかったのだろうか。彼女と一緒にいられるだけでも十分なご褒美なのだ。私たちは、どちらかともなく唇を重ね合わせる。それは、いつもより優しく、甘い口付け。



 大晦日。部屋の掃除も一通り終え、元旦に向けての準備をしているところだった。最近のスーパーは元日と二日は休む所が増えてきたので、今のうちに買い出しに出かけようというわけだ。


 私は白のダウンを着込み、少し長めのスカートにショートブーツという格好。彼女は黒のコートにジーパンといういつもよりラフなスタイルだ。長い黒髪を靡かせ、赤いルージュが人目を惹く。家でいつも見ているのに、ちらりと見るとドキドキしてしまう。これはもう末期なのではないだろうか。私の視線が彼女にも見つかったようで、顔を覗き込まれる。


「私の顔に何か付いてる?」

「あ、ううん。大丈夫!」

 

 慌てて視線を逸らす。なんだか小っ恥ずかしく感じてしまった。恥ずかしさを紛らわせるように手にはぁと息を吹きかける。今日は寒いのにも関わらず手袋を忘れてきてしまった。寒さが手に沁みこみ、じんじんと軽い痛みが走る。すると、突然彼女に左手を取られ、彼女のコートのポケットに突っ込まれる。


「素手じゃ寒いでしょ」

「でも、歩きにくくない?」

「そんなことないわ……だって」

 

 ポケットの中で彼女の熱を孕んだ手によって絡め取られる。彼女の手の温かさによって寒さで凍えた私の手にじんわりと沁みる。そして、彼女のいたずらな指によって私の手の甲を軽くつぅと撫でられる。指と指が絡まり合い、二度と離さんと言わんばかりで。それが段々心地よくなってしまい、もっともっととおねだりしそうになる。そんな私の反応に彼女はしてやったりと微笑む。


「あなたとよりくっついていられるから」

「……バカ」


 私は、頬がさらに赤くなったことを隠すように小言を言ってみた。会社以外だとプライベートは絶対に持ち込まない彼女の対応に胸が高ぶってしまう。


 行きつけのスーパーにたどり着いた。スーパーは正月仕様に様変わりしており、食材もいつもより高い。中に入ると彼女が率先して買い物カゴを持ってくれる。私は遠慮せずに次々と食材を放り込んだ。


「これと、これと……昆布高いけど、しょうがないかぁ……」

「出汁の素を使えばいいじゃないの」

「年越し蕎麦はちゃんと出汁取りたいの!」

 

 出汁の材料をすべて揃えるよりも粉末タイプの出汁の素を使った方が安く済ませられるのだが、年越しに食べる蕎麦くらいはちゃんと出汁を取りたい。大変だが、その辺りはきっちりやりたい。彼女もわかってはいるので、これ以上追及しなかった。


「そう。楽しみにしてる」

「まかせて!――あ、これも買う」

 

 私が次に買い物カゴに入れたのは、タコわさだ。タコのこりこりとした触感にピリっと痺れるワサビはたまらない。もちろん、知らずお酒が進んでしまうため相性は抜群だ。それを見た彼女は苦笑した。


「あなたって見た目によらずオヤジ臭いのが好きよね。ご飯食べたらやることあるのだから、お酒もほどほどにしなさいよ」

「わーかーりーまーしーたー」

 

 私はぶすっとふくれっ面で答える。今は一番言われたくない人からの言葉だったが、喧嘩になりそうなのであえて言わない。そう言いつつも、自分の好きな銘柄のビールと日本酒、チューハイを買い物カゴに放り込む。もちろん、彼女の好きなお酒も一緒に。



 家に帰ると、食材を冷蔵庫に入れて早速年越し蕎麦作りを始める。彼女にはお風呂と残りの部屋掃除をお願いした。


 昆布を水に張った鍋に入れてしばらく放置する。今日買った鰹節を取り出し、使う分量を確かめる。海老の背ワタを取り除き、野菜を切って水気を切る。鍋に油を注ぎ、熱したら衣を付けた海老と野菜を入れる。彼女の好きな人参と春菊のかき揚も投入する。ぱちぱちと油が跳ねる音が響き、キツネ色になったらキッチンペーパーを敷いた皿に盛り付ける。


「うん!いい色ね」


 思わず自分を褒めたくなる。彼女には揚げたての熱々のものを食べて欲しい。昆布を浸してある鍋に火をかけ、そこに鰹節を投入し煮詰める。頃合いになったところで昆布と鰹節を漉す。これらは後で佃煮にするので無駄がない。すると、揚げ物と出汁の匂いに釣られて彼女が台所にやって来る。


「あら、美味しそう。味見してあげましょうか?」

「もうっ。天ぷらに味見なんてないよ」


 彼女が物欲しげな目をしてくるので、しょうがないと言わんばかりに天ぷらの乗った皿を差し出した。しかし、それでは納得いかないようで、さらにじーっと瞳を見つめられる。少し恥ずかしいが、彼女が納得してくれなさそうなので止むを得ない。


「はいはい」

 

 私は菜箸で揚げたてのかぼちゃを掴み、目を閉じて口を開けて待っている彼女の口の中に入れてやる。いわゆる、あーんというやつだ。思わず菜箸を持つ手が震えてしまう。彼女の口の中でかぼちゃの天ぷらが溶け、サクサクと噛む音がこちらにまで聞こえる。彼女は私の恥ずかしそうな顔をしているのを見て、にやりと微笑む。


「何を恥ずかしがっているの?」

  

 もっと恥ずかしいことをたくさんしているのに。と、彼女の熱い息が私の耳に吹き込まれる。甘く、熱い熱が身体中を駆け巡り、身震いしてしまう。彼女の行動一つ一つが私の身体を支配する。立っていられなくなりそうになるが、まだやるべきことがある。理性を総動員して、甘い誘惑を振りほどく。


「後で……です!!揚げ物しているから危ないよ!」

 

 私はそう言うと、一歩彼女から離れた。彼女もわかってはいたようで、嫌な顔をしなかった。


「はいはい。リビング片付けるわね」

「お願いします!もうすぐ出来るから」

 

 目の前の天ぷら揚げに集中する。少しこんがり揚がってしまったものを慌てて引き上げる。まだ心臓の鼓動が早い。早く治まって欲しい。マンネリしやすい同棲生活にちょっとした刺激があった方がいいと思ってしまうのは、彼女によって作り変えられているということなのか。少し悔しい。

 

すべての材料を揚げ終え、次は蕎麦を茹でる。その間に冷凍してあるほうれん草を解凍し、かまぼこを切る。茹であがったら、そば湯用に茹で汁を少し残しザルに引き上げる。器に蕎麦と具材、そして最後に熱々の出汁をかければ完成だ。


「出来た!運ぶの手伝って」

「こちらも準備完了よ」

 

 温かい蕎麦と後から入れるネギ、お好みで柚子胡椒と七味もリビングへ運ぶ。もちろん、今日買ったお酒とタコわさも忘れずに。


「はい。いただきます」

「いただきます」

 

 お酒の缶を開けると、カキンっといい音がする。彼女は普段は飲まないお高めのビールで、私は期間限定味であるリンゴのチューハイだ。お互いの缶を開けて、グラスに注ぎ合う。とくとくとくと美味しそうな音が響く。私はチューハイを一口飲むと、芳醇なリンゴの味を楽しんだ。今日の力作である海老の天ぷらを頬張り、お汁を飲む。さっくさくに揚がっている海老と昆布と鰹がきいた出汁がさらに旨味を引き出す。衝動買いしたタコわさもアクセントになってさらにお酒が進む。


「んんっ、あつあつ。美味しい!頑張って作った甲斐があった!」

「料理に関しては、私よりも上手よね」


 彼女は春菊と人参のかき揚を頬張りながら言った。お気に召したようで、次々と天ぷらを口の中に入れる。少し多めに作っておいて良かった。しかし、彼女はストレートには褒めてはくれない。


「料理に関しては、ね。だったら、来年作ってよ」

「そうね。来年は私が拵えようかしら」

 

 何気なく言ったつもりが、あっさりと了承されてしまう。逆に私は、意表を突かれた。来年も一緒にいてくれるということだ。思わず唇をきゅっと噛みしめる。


「来年も、よろしくお願いします」

「バカね。まだ今年は終わってないわよ」

 

 彼女はずずずっと出汁を飲む。器で顔が少し隠れて見えないが、いつもの余裕そうな笑みを浮かべているのだろうか。それとも、私と同じ心情だったらいいなと願うばかりだ。


 遠くの方から鐘の音色が寒空の夜更けに響き渡る。寒い冬から、温かい春の季節が少しずつ近づいてくる音がした。


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