10 百鬼夜行 二
「誰か……!」
闇の中、声がした。
「動くと、この女の首を斬る」
男の声だった。冷やかで、本当に宣言通りのことをしでかしそうな、知らない声。
動けなかった。というより、動けなくなった。息が詰まった。この場の空気さえ凍り付いてしまったかのようだ。緊張で、張りつめていた。
不意に、
直後だ。横合いから衝撃が襲ってきた。自分が蹴り飛ばされたと気付くのに時間を要するほどに突然の〝攻撃〟だった。
「が……っ! ぐ……っ」
中庭を数メートルほど転がされた。それだけの威力と勢いがあった。蹴られたのは右肩だが、吹っ飛ばされたせいで全身が痛む。擦り傷だらけだ。しかしなんとか直前に掴んでいた懐中電灯だけは手放さずに持っていた。
「なに、が……?」
誰かいる。それは間違いない。声もしたし蹴られもしたのだ。だがなぜだ。懐中電灯をいくら振り回しても中庭のどこにも自分と汐見以外に人影は見えない。
――姿の見えない誰かがこの場にいる。
汐見の話を聞いていなければ思いもつかなかった考えだ。でも今はそれを確信している。
「……いったい……」
相手は何者なのか。目に見えないという焦りから頭の中がまとまらない。逸る心臓を鎮めようと胸に片手を当てた。落ち着け。とてもそんな状況ではないが、それでも落ち着かなければ始まらない。
どういうつもりかは知らないが、相手は刃物、恐らく刀を持っていて、汐見を人質にとろうとした。それらの情報からとっさに思い浮かぶのは黒服の存在だ。
――機関。昨日の今日でこの学校は現在、彼らによって封鎖された状態にある。ならば警官が事件現場の見張りに立つように機関が人を置いていてもおかしくはない。
相手の素性については今はそれでいい。問題はそいつは何が目的でこんなことをしていて、自分はそれにどう対応すべきか、ということだ。
機関はどうやらヤワタリイツギを追っているらしい。その中身が別人のものになっていることを把握しているかは不明。ならいっそのこと本人に成りすまして接触を図れば何か現状を打開するヒントを得られるかもしれない。
ただ、それは相手が友好的であればの話だ。放課後に
集団といえば、汐見の話だと中庭に現われた黒服の男はヤワタリイツギに敵対してはいないように思われる。実際、景史も彼に助けられた。だが一方で彼は汐見に対して刀を向けてもいる。
結論――とりあえず機関とはかかわらない方が無難か。
なら、採るべき選択肢は一つ。相手が帯刀しているのならなおのこと……逃げの一手だ。
闇に目を凝らす。耳を澄ませる。相変わらず姿は見えない。足音も聞こえない。立ち止まっているのかなんなのか、近くに人の気配は感じない。じっと目の前の暗闇を睨みつける。
逃げたければ逃げればいい、というわけにもいかない。自分ひとりならまだしも、汐見もいる。出来れば合流したいが姿の見えない何者かは恐らく汐見との中間あたりに立ち塞がるように佇んでいるはずだ。あるいは汐見の傍で彼女に刀を向けているのか。仮に一人で逃げたとしても見えない追手を撒くのは相当むずかしいだろう。
何か……逃げるためのきっかけを作らなければ。
懐中電灯を下げて目線より斜め下辺りを照らす。位置的には相手の足下あたり。だが見えるのは中庭の下草だけだ。
いったいどういう原理なのだろう。たぶん説明されても理解できないとは思うが、鬼やら幽霊やらとはまた違う〝見えない〟なのか。
視線を上げる。離れたところに光がある。
「汐見さん……、」
「……たぶん……そっち」
今のだけで伝わったのか。その足元に転がっている懐中電灯の光の端で汐見が首を横に振るのが確認できた。彼女の近くにはいないということだろう。となると姿の見えない何者かは景史を蹴飛ばした後、近づこうとして足を止め、こちらの動向を窺っている……と考えていいのか。少なくとも近くに気配は感じないから、ある程度の距離を保っていると見るべきだろう。
まずは相手について探るためにも、ここは常套手段からいってみるか。
見当違いの方向かもしれないが、相手がいると思しき場所を睨みつける。
「あんた……誰だ? 何の用だ」
「あ?」
声が返ってきた。方向は合っていたようだ。これなら……。
「それはこっちの台詞だ。しかもそこの女、今日の事件の被害者じゃねえすか。――推測は立つ。だがそうなると……くそ、何がどうなってやがる」
最後の方は独り言のようだったが、口調から察するにどうやらヤワタリイツギとは面識があるのかもしれない。知り合いなら都合がいい。それに先ほども、汐見を人質にとりこそすれ、相手がその気なら問答無用で自分たちを殺せたはずだ。そうしなかったのはつまり、向こうもこちらと話したいことがあるというわけで――、
「まあなんでもいい。ようやくあんたとこうして会えたんだ。まさかほんとに現れるとは思ってなかったが、張ってた甲斐があった。犯人は現場に戻ってくる。あんたの教え通りだ」
悪い予感がした。相手が嘲笑うな口調だったからか。なんにせよ、息を詰める。意識を研ぎ澄ませる。懐中電灯の明度調節のスイッチに指をかけた。必死に記憶を手繰り寄せる。そうしながらも目の前の闇から視線は逸らさない。
見えないだけだ。敵は間違いなくそこにいる。姿を捉えられないなら無理に見ようとしなくていい。目を向けるべきは相手がいると思われるその場所全体。
「あんたが生きてると困る人がいるんでな。〝生きてるかもしれない〟なんて希望があるから、いつまでも諦めきれない。このまま少数派でいたっていいことは一つもねえんだよ。はっ……まあ今のあんたに事情は呑み込めねえだろうが、こっちとしちゃ都合がいい」
最大のピンチは――チャンスは、一瞬。
「――死んでくれ」
中庭の下草が見えない何かに潰された。風の動き。景史はとっさに懐中電灯を上向けた。明度は最大、狙うは相手の顔面。自分を追っている連中の中で、男。声を聴いたことのない人物。あの三人組の中の眼鏡。一か八かの賭けでしかなかったが、どうやら当たったようだ。予測した位置をライトが直撃する。
「な――っ、」
相手の息を呑む音が聞こえた。姿を現すことこそなかったが、目くらましとしては成功だ。その機を見逃さず、景史は敵がいると思われる場所を迂回するようにして走った。走り抜けた。
「汐見さ――、」
ほとんど反射だった。
風を切る音が背後から迫るのを感じ、振り返りながら走った勢いのまま飛び下がった。そうしながら懐中電灯を持った手を振るうと何か重い感触があった。はじき返す。懐中電灯が砕かれた。
明かりが途切れる刹那、垣間見えたあれは……刀か。視界の端へと飛んでいく。
「……は、」
息が抜ける。我ながら曲芸めいたことをやってのけたものだ。というか反応出来ていなかったら恐らく投げられた刀に貫かれていたに違いない。しかもただ避けるだけではその射線上にいる汐見まで危なかった。冷や汗が止まらないのに喉が渇いて苦しい。でも難を逃れた。相手は今ので武器を失ったはずだ。今のうちに汐見を連れて逃げよう。
などと、安心している場合ではなかった。
肉薄する気配があった。
光を失って闇に目が慣れない中だったが、ようやく相手の――予想通り、眼鏡をかけた黒服の青年の姿を捉えた直後、青い光が目の前を掠め、再び衝撃に襲われた。
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