9 百鬼夜行 一




 結果から言えば、学校侵入の成果は芳しくなかった。


 何もなかったというのが一つの収穫といえばそうかもしれないが、正直、あまり進展がなかったという感の方が強い。


 意気消沈というには複雑すぎる心境のまま、職員室を出る。

 外も曇り気味のため校舎内は薄暗く、持参した懐中電灯がないと少し心許ない。明度を小・中・大の三段階に調整できるもので、明るさを一番低い小にした状態で廊下の左右を確認する。ひと気はない。明るさを中に戻し、鬼に壊された窓の方へ向かう。汐見しおみが遅れてついてきた。弾んだ声がする。


「理科室見てこない? 人体模型」


「……人体模型はたしか準備室にあったはずだから行っても見れないと思う」


「じゃあ音楽室行こうよ、音楽室。……あ。うちの学校には肖像画とかなかったね、残念」


 二人で校門を乗り越えて、鬼の壊した窓から校内に侵入した。道中、汐見が「誰かに見られてる気がする」と楽しそうに言っていたが、校内にひと気はなく、当初の緊張が無駄に思えるくらいあっさりと職員室に忍び込むことが出来た。


 生徒の情報が記された名簿のようなものでも見つかればといろいろ漁っている間、汐見には人がこないか見張ってもらっていたのだが、彼女は「今度のテストの解答ないかな」とか言って職員の机を一緒になって探っていた。真面目なんだか不真面目なんだか、なんだかんだで探し物は汐見が発見してくれた。


 だが結果は先の通り、ヤワタリイツギどころか、汐見が気にしていた「日逃ひのがれかすか」の名前も見つけることが出来なかった。外見の印象から三年生ではと考えてそこから当たってみるもののハズれ、一、二年生も当たったが全滅。二人ともこの学校の生徒でないことだけが判明した。


 無駄足、とはいいたくないが、唯一の手掛かりが消えたことには変わりなかった。


「せっかく夜の学校に来たのに、用事すませたらもう帰るってどうなのかな」


「……悪いけど、そういう気分じゃなくて」


 疲れているのもある。これからどうするか考えなくてもいけない。


 でもそれ以上に、その事実をどう受け止めればいいのか、心の整理がつかないでいる。


 ソーマの名前がなかったのだ。


 一年生から三年生まで、全生徒の名前を確認した。同じ名前か名字の生徒が何人かいるんじゃないかと予想していたにもかかわらず、一人も該当する名前がなかった。


 あれは偽名だったのか? でもそれならどうして偽名を名乗る必要が?


 というかそもそも、自分は彼の本名すら知らないのだ。ソーマという名が名字なのか名前なのかさえ。


 不安だった。このまま彼の存在がどこかに消えてしまうようで。


 汐見の言葉を思い出す。


 ――たまに誰もいないところに向かって話しかけてて――


 鬼というものはいわゆる幽霊と呼ばれるものと同じで、視える人とそうでない人がいる。景史けいしには鬼が視えた。そうなると、幽霊も視えるということにはならないか。

 今まで自覚はなかった。一目でそれだと分かるものと出くわさなかっただけかもしれないし、あるいは視ていたとしても、触れ合っていたとしても、そうだと分からない存在だったからかもしれない。


 幽霊……?


 ふと浮かんだ考えは自分でもどうかと思うものだった。しかし一度思いついてしまうとすぐには振り払えない。自分の性分を恨んだ。


 確認できれば安心できるのに携帯もないから連絡できず、こちらから会う手段もない。このまま会えないような気さえしている。

 どこか違和感のあった日々と一緒に、彼の存在すら溶けてなくなってしまうような恐怖がつきまとって離れない。


 だから、そんな気分じゃない。


「あ、トイレいきたいな」


「……この流れから察するに、君は花子さん的なものでも期待してるのかな」


「トイレっていっぱいあるけど、どの階のどこに行けば会えると思う?」


「女子トイレは知らないけど、これまでの学校生活で何一つそれらしいものを視た覚えはないからどこに行っても何とも出会えないと思う」


「それは日中だからだよ。夜なら違うかもしれないし」


 ソーマのことは自分の問題だとしても、こんな状況だ。唯一の手掛かりがなくなってこれからどうすればいいのか、どうなるのかも判然としていないのに。どうしてこうも彼女はお気楽というか、場違いに一人だけ楽しそうにしているのだろう。


 彼女のそういうところを苦手とする人や、中には苛立つ人もいるように思う。それも周りが彼女と深く関わろうとしない理由のひとつに違いない。

 他人の気持ちなんて考えず、いっそ我が侭といってもいいくらい自分に素直。

 今はただ、あきれるばかりだ。


「……はあ」


「辛気臭いね。せっかく夜の学校に来てるのに、相手が穏原おだわらくんだとつまらないなぁ。つれないし」


「……つまらないも何も、遊びに来たわけじゃないんだけど」


 こちらは万が一のため、汐見からパーカーを借りてまで顔を隠してきたのだ。いろいろと警戒しているのだ。それにしてもフードを目深に被るとなんだかいい匂いがする。


「穏原くんはわくわくしないの?」


 壊れた窓から中庭に出た時だった。先に出ていた汐見がこちらを振り返りながら言った。


「わくわくもなにも……だから、そういう気分じゃないんだって」


「夜なんだよ? 学校だよ? 普段は人がいっぱいいる場所が、今は私たちだけしかいない。先生たちもいないから何しても自由だし、実際穏原くんもいろいろやってたよね?」


「……言いたいことはあるけど」


「人目がないから、人の目に見えない何かもいろいろ自由にしちゃうかもしれないよ。何が起こってもおかしくない。あんなことがあったばかりだしね。わくわくするよ」


 汐見が懐中電灯で中庭を照らした。ざっと周りを見渡す。人影はない。動くものもない。彼女の話通りなら、つい数時間前にこの場所で鬼退治が行われたはずだ。そういう場所に立っていると思うと、少しばかり感慨深い気もする。でも、わくわくはしない。


「私は映画とかカラオケに行くよりも、こういうのの方が好きかも。遊園地っていったことないけど、お化け屋敷とかもこんな感じかな? 穏原くんは行ったことある? 遊園地」


「さあ……? あったとしても覚えてないから……」


「だよね。まあなんにしても、一人で来るより誰かと一緒の方がいいよね。一人で来ても寂しいだけでわくわくしないと思うし。相手が穏原くんなのが残念だけど……穏原くんでもないとこんなことしてくれなさそうな気もする」


「……一応、認められてると思っていいのかな、それ……」


 わくわく出来るような心境ではないものの、たしかに、一人で来るよりはマシだったのではないかと思えてきた。汐見と話していると少し気も紛れてきたし、苦くても、不恰好でも、この顔で笑みを形作ることが出来たから。


 歩き出した汐見についていく。隣に並ぶと、汐見は体を傾けてこちらの顔を覗き込んできた。


「お、笑ってる。穏原くんもわくわくしてきた? なにか出そうだよね、この辺。私、さっきから誰かに見られてる気がしてるんだ」


「……人の視線なんてそうそう感じるものでもないと思うんだけどなぁ――」


 と、その時だった。


 背中を叩かれた。


「でもその顔で笑うのはやめてほしいかな。なんていうか……似合わないっていうか。私のイメージと違う。いつぎさんはそんな穏原くんっぽく笑わないはず」


「いや、そんなこと言われても……。ていうか結構痛かったんだけど」


「? 何が?」


「何がって、今、俺の背中叩いたでしょ。叩くっていうよりむしろ殴るって感じだった」


「私、どうせ殴るなら正面からやるけど」


「痛っ!」


 殴られた。正面に回った汐見から、グーで。さすがに全力ではなかっただろうが、容赦もなかった。思わず叫んで顔を押さえてうずくまるくらいには痛かった。手落とした懐中電灯が地面を転がり、こちらを見下ろす汐見の足下を照らした。


「大袈裟だよね」


「……そうだった。君は割と暴力的な人だった……」


「暴力的じゃないよ、私。今のは……穏原くん殴るとなんかすっきりするから、つい」


「ヤバい、汐見さんといると血糖値よりも先に普通に撲殺される……」


「あぁ、でも、思わずやっちゃったけど、その顔は穏原くんのものじゃないんだよね。気を付けなくちゃ」


「……ん?」


 うっかり失念しそうになったが、汐見でないとすると、さっきのはいったい……?



「わっ、」



 唐突だった。汐見が何かに引っ張られたみたいに後ろへよろめき、引き倒されるように尻餅をついた。汐見の懐中電灯が音を立てて地面にぶつかり、光をこちらに向けたまま横に転がった。


 そして。


「……穏原くん」


 汐見の声が硬い。


「……どうか、した……?」


 うずくまったまま、景史は汐見の顔を見つめる。見つめ合う。生唾を呑み込んだ。


 何か……いるかもしれない。そんな気がする。少なくとも何かが起こっている。


 汐見は凍り付いたように固まっていた。その口が恐る恐るといったように開かれる。


「冷たい……なんか、刃物っぽいものを首に当てられてる気がする……。もしかしてだけど、私の後ろ、誰かいる……?」


 さっき取り落した懐中電灯は汐見を向いているが、その後ろには誰の姿もない。景史はゆっくりと首を横に振った。でも〝誰もいない〟とは言い切れなかった。


 中庭。刃物。姿の見えない人物――



 何が起こってもおかしくない。


 足元に転がっている懐中電灯に手を伸ばした。



「――動くな」



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