10 死に損ないたち 二
動けなかった。
何も考えられなかった。ただ呆然と、男が柄を握る手に力を込めるのを見ていた。あれが抜かれた瞬間、自分は死ぬ。殺される。分かってるのに動けない。
嵐の前の静けさという言葉がある。
ずっと臨戦態勢だったのだ。獲物を油断させるための静けさ。殺気を抑え込んでいたというよりは一気に爆発させるために溜め込んでいた。だから突然向けられた殺意に気圧されてしまったのだ。
あぁ、今度こそ死ぬ。
一度は拾った命なのに。
瞼をぎゅっと閉じた。もう今度こそどうしようもなかった。
鞘を滑る刃音が流れ――
「「――ッ!」」
炸裂したのは火花でも散りそうな金属音。
目を開けた先にあった光景は、その瞬間想像できる全てから外れていた。
ホウキだ。
自在箒という、取り付けられた金具によって穂先の向きが自在に変わる、まあ学校などでよく使われるあのホウキだ。なんら特別なものではない。特別なものではないのだが、だからこそそれが刀を受け止めているという光景には目を瞠らざるを得ない。
そんなものでどうにかなるとはとても思えない殺気だったのだが、ホウキは金具の部分で刃を押さえている。
徐々に食い込んではいるものの、金具が断ち斬られるようには見えない。何か不思議な力でも働いているのか、刀同様ホウキも淡い青色の光をまとっている。
当たり前のことだが、ホウキがひとりでにやってきて自分を助けてくれたりなどしない。
横合いからだ。
誰かが無謀にもホウキ片手に飛び込んできたのだ。
とてもじゃないが正気とは思えなかった。でもその人が現れたお陰で助かったのだ。
「……っ」
黒服の男も驚きに目を見開いて、いやそれ以上に動揺した様子で飛び退った。
まるで汐見の盾になるようにそこに立っていたのは、学生服姿の少年だ。
歳は汐見と近いようにも年上のようにも見える。制服は似合ってはいるがどこか違和感も否めない。背も高く大人びた印象で、涼しげな顔立ちから感じられる余裕さもまたその印象を深くしていた。
今は少しだけ表情を険しくさせているが、きっとこの人には笑顔が似合う。根拠はないけれど、そういう確信めいた思いが心をよぎった。
今度こそ助かったのだろうか。まだ分からない。目の前に立つ彼の横顔には何があっても笑って許してくれるような穏やかさと、一方で何かあれば容赦しないと思わせる鋭さがある。いつその刃のような眼差しが自分に向けられるか分からない。
それに、彼の顔を見た瞬間、胸の動悸が激しくなったから。
私はこの人を知っている。
胸騒ぎ――初めての経験。
苦しい。胸を押さえる。制服をぎゅっと掴む。分からない。恐い。不安だ。なんだろう、この気持ちは。
――いつものように、消えてなくならない。
「…………ッッッ!」
声にならない叫びが上がった。思わず耳を塞ぐがそれは胸を殴るような衝撃を意識に叩き込む。どこかで窓ガラスの弾ける音が響いた。戸惑いも何もかも一気に吹き飛んでしまった。
鬼だ。
ついさっきまで手首を落とされ弱っていたように見えたのに、急に勢いづいたのか天に向かって絶叫している。しかしそれは咆哮や雄叫びとは言い難い。まるでこの上ない苦痛に苛まれているかのようだった。
ぶくぶくと膨れ上がる。鬼の全身――人型の上半身が激しく膨張する。沸騰したお湯のように泡立つ。なくなっていた右腕の手首から先が飛び出すように生えてきた。両腕はもはや完全に元通りだ。いや、以前よりも一回り以上、太い。というか勢い余って爆発してしまいそうなほど、腕も含めて全身が未だ膨張を続けている。
「がぁっ、あぁっ、あァっ!?」
今度は耳で聞きとれる叫びだった。無理やり絞り出されたかのようなかすれた声音で、途切れ途切れにだが確かな痛みを訴えている。
声の主は鬼ではない。その下で身をくの字に折ってもがき苦しんでいる女性教師だ。自分の体を抱きしめるような両腕が激しく痙攣している。
これまでは彼女の身体から鬼が煙のように立ち上っている状態だったのだが、今はもう大きくなりすぎた鬼に埋もれて辛うじてその姿を確認できるという程度だ。
少しだけ彼女を心配する気持ちが湧き起こったが、それはすぐ自分に向けられた殺気によってかき消された。
あの黒服の人がこちらを見ている。刀を再び鞘に収め、睨むというほどあからさまに表情を変えてはいないものの、その目に浮かぶのは見間違えようがないほど明らかな敵意だ。
だが、肌を刺すような殺気はすぐに阻まれた。
こちらも表情を変えず、それとない足の運びだけで汐見を庇うように黒服の前に立ち塞がる。手には単なるホウキだけだが、制服のポケットから何か飛び出している。ハンカチらしき布を巻きつけたガラス片のようだ。
正直、持っているものは即席のよりあわせで頼りないものばかりだが、どこかの誰かのようにいっときの感情で無謀にも飛び込んできたのではなく、出来る限りの対策を整えた上で、ただ身を挺して守るだけでなく抵抗する覚悟で臨んでいる。
もちろんそのどこかの誰かのお陰で自分は命を繋いでいるわけだが、今はこの名前も知らない誰かの心意気というか勇気のようなものに頼もしさを感じた。
どのみち、今の汐見にはどうすることも出来ない。不安も何もかも、彼に委ねる他にない。
「…………」
彼は静かな面持ちで黒服の男を見据えている。何も言わないが、男にとってはそれだけで十分な重圧のようだった。まるで悪いことをして咎められた子供のようだ。表情にこそ出ていないからそこまで落ち込んでいるようには見えないが、そういう印象を受けるうろたえ方をしていたのだ。
「――引きなさい
どこからか声がした。女声……有無を言わせないような、大人びた、でも少女の声だ。それを受けて二人の視線が初めてお互いから逸れた。揃ってどこかを一瞬だけ見やった。
本当に一瞬のことで二人がどこに目を向けたのかは分からないが、少なくとも汐見にはこの場に第三者の姿を見つけることは出来なかった。
なんにせよ、その声がきっかけだった。男が刀の柄にかけていた手を下ろし、名前も知らない彼に目礼して――そこまでは見えた。だが瞬きの間に男の姿を見失ったのだ。ついさっきまでそこにいたはずなのに、今や影も形もない。
「さて――」
と、また誰かの声が聞こえた。あまりに何気なく自然過ぎて、すぐ目の前にいる彼の声だと気付くのに少し時間がかかった。
彼はこちらに背を向けた格好のまま、制服のポケットに突っ込んでいたガラス片を抜いた。二十センチくらいはあるだろうか。結構大きい。
その時になって気付いたが、ガラスに巻かれた布には血がついていて、彼の手も赤く濡れている。
ホウキを右手に、左手にガラス片を握り込むと、布に染みていた血がすうっとガラスの鋭利な先端部分に向かって流れた。その跡を辿るように青い光がガラス片を包み込む。
「――鬼退治でも始めようか」
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