9 死に損ないたち 一
「か、は……っ」
喉から空気の漏れる音がした。
息が出来ない。
少しでも酸素を取り入れようと必死に首を伸ばし、空に向かってあえぐ。
足は地面を離れていた。いくらあがいても爪先が中庭の下草をかすめるばかりで、暴れれば暴れるほどに、首を絞めつける力が強くなる。少しでも苦しみを和らげようともがくけど、自分の首を掴む鬼の腕に触れることすらかなわない。
確かにあるのだ。そこに在って、大きな手で私の首を絞めている。首だけでなく、あごから後頭部にかけてをその五指が掴んでいて、そのまま捻り潰されるのではないかというほどに皮膚に食い込み気道を塞いでいる。
片腕だ。片腕だけで人間一人を持ち上げている。
見えてはいる。そこに、眼前にしっかりと鬼の姿はある。
人間の上半身をかたどったような形状だが頭はなく、左腕に当たる部分も再生しつつあるが欠損している。毒々しい色合いをしているものの向こうが透けて見えるような半透明で、目で見てとれる質感は煙のようにつかみどころがない。
鬼だ。
そいつが私を捕まえている。
にもかかわらず、こちらからはどんなにあがいても触れることが出来ない。首を絞められている感覚は確かにあるのに、その腕を掴もうとしても指先が空を切るのだ。
だから抵抗のしようもなく、されるがままにじりじりと首を絞められている。
じりじりと、焼け付くような痛みに苛まれている。
首を掴む手を通して伝わってくる熱。頭蓋が燃え、脳が沸騰するような感覚。
それは火であぶった金属を押し付けられるようでありながら物理的なものではなく、形容しがたい、とにかく不快感を覚えるものだ。
頭の中がぐちゃぐちゃになる。脳が攪拌されていく。炎天下でテスト勉強したらこうなるだろうか、気持ち悪くて内蔵全部吐き出したい。
肌を焼いて肉を焦がし、それは骨の髄にまで染み込んでくる。
血管から流れ込んで全身を侵しながら、心臓に、脳に、こころに――
怒りや悲しみや憎しみ、怨みとか嘆きとか苦しみとか、ありとあらゆる人間の負の感情――何かを呪う、悪意の奔流。
総じて、叫び。
幾千幾万もの〝声〟に蹂躙されるかのようだ。
鬼に長時間触れられた人間は発狂してしまうことがあるという。
これがそうなんだろう。漠然と思った。
目の前がちかちかする。だんだんと視界が悪くなる。意識が遠くなる。単純に呼吸できないせいもあるのだろう。
ただ、危機感はその比ではなかった。肉体的な死も恐ろしい。でもそれ以上に、このままだと意識と共に〝自分〟を失うような気がして――
それだけはダメだ。意識を手放すな。自分を失ってはいけない。ここでもしも諦めてしまったらとてもマズいことになる。きっと、取り返しのつかないことになる。
「ん……っ!」
必死に暴れた。暴れるというより体が勝手に反応していた。触れない腕をほどこうとあがいてもがいて力の限り助かろうと、生にしがみついた。
こころが叫んでいた。
死にたくない。
「ぁ――、」
唐突、だった。
心身を苛んでいた全てから解き放たれた。
一瞬わけが分からなくて、自分は死んだんじゃないかとさえ思った。
そうではなかった。
斬られたのだ。鬼の腕。目の前で手首から先が斬り落とされた。それで解放されたのだ。
地面に落ちる。爪先から地面にぶつかって力が入らず膝をついた。地面に手をつき激しく咳き込む。喉が痛かった。たぶん痣になっているのだろう。未だ焼け付くように痛い。
「――――――!」
悲鳴のようだった。だがそれは声でもなければ音でもない。心に直接叩きつけるような衝撃だ。それでも思わず耳を塞ぎたくなるほどの苦痛を訴えていた。鬼がよろめき、女性教師が這うようにしながら後ずさる。
気が付けば、黒い影――まるで鬼から
最初は女性かと思った。きれいな黒髪をポニーテールのようにまとめていて、垣間見えた横顔も女性のように端正なものだったからだ。しかしすらりとした長身に女性的な凹凸はなく、細身だが体格はしっかりしていて頼もしさを感じた。
どこからともなく現れたその男は鬼の腕を断ち斬った刀を鞘に収め、無防備にも鬼に背を向けてまでこちらを振り返った。
見下ろされる。男の顔をちゃんと見る。目が合った。
深い青色の瞳が印象的だった。暗い影を帯びた冷たい目。鋭い視線。きっと一瞬前まで、その双眸は対峙するものを凍てつかせるような輝きを宿していたに違いない。穏やかとはいいがたいが、今はその目に脅威を感じない。
知らない人だった。知ってるような気もした。だって、黒い。黒服に日本刀。この組み合わせはあまりに有名だ。誰でも知ってる。でも実物を見た人はそんなにいない。警察のような役割を果たしているにもかかわらず、あまりに常識からかけ離れていて、警察と同様かそれ以上に、出来れば関わり合いになりたくない相手。
特にその人は他者を寄せ付けない雰囲気をまとっていた。自分から周りを遠ざけるのではなく、周りが自然と彼から距離をとるような剣呑さ。近付けば切れる。まるで抜き身の刀。それはたぶん殺気の類だ。こちらの安否を確認するように振り向きながらも、背後にいる鬼の存在を忘れてはいない。臨戦態勢というやつだろう。
男は静かな面持ちで私を見つめていた。
まるで品定めでもするように。
そして、何気ない動きで刀の柄に手をかける。
「
そうつぶやいた直後、その手と刀が淡い青色の光を宿した。
「…………!」
わけが分からなかった。いや、分かる。分かっている。彼が何をするつもりなのか。でもその理由が本当に分からなくて。
だって。
私に向かって言う。
「やはり貴様は死ぬべきだ」
――じゃあどうして今、私を助けたりなんかしたんですか。
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