8 身体、心臓、そして
何も見えない闇の中、だった。
目を開けているのかさえ分からなくなるような、自分がそこに立っているのか座っているのかさえ判別のつかないような、闇。
にもかかわらず、少し離れたところに誰かがいることに気付けた。
遅れて、その誰かは椅子の上で片膝を抱えていて、対面にいる自分もまた同じように椅子の上に腰掛けていることに気が付いた。
相手の顔は見えない。でも男だという気がした。
「……あんたは……?」
声をかけてみた。ここがどこかよりもまず、相手が何者かの方が気になったのだ。
「僕は……いや、私のことは気にしなくていいよ」
穏やかな声だった。聞き覚えがある。
彼のことをもっと深く知りたいと思うと同時に、知るべきではないという危機感めいた何かが頭の内に響いていた。気にしなくていいと男も言った。なら、彼のことは気にするべきではないのだろう。
気付いてはいけない。
「……その椅子。知ってる気がする」
「これは私の椅子だよ。君のじゃない」
もっと他に気にすべきことがある。なんだろう。頭がぼんやりとしていてよく分からない。でもそれは大事なことだ。大事な――
「……そうだ、
「そうだね。彼女は今、鬼に狙われている。どうにも何か怒らせるようなことをしてしまったらしいね。彼女自身に悪気はなくても、人は何がきっかけとなってそれまで蓄積してきたストレスを爆発させるか分からない。膨らみきった風船には些細な言葉さえ針になりうる」
「……でもどうして、汐見さんが」
「鬼はその発現の原因となった感情に執着する。それが彼女に対する不満だったなら、それが解消されるまで暴れるのを止めない。……分かるね?」
「要するに……汐見さんを殺すまで、止まらない」
「そう。……彼女の身も心配だが、鬼が暴れている間、それを発現した人間は生命力を奪われ続ける。早く止めなければあの女性の身も危ないし、十分な生命力を得た鬼は、宿主なしでも暴れるようになってしまう。そうなったら手に負えなくなる」
「……先生たちが機関に通報したはず。もう俺に出来ることはないよ」
「このままではマズいことになるだろうね。君の想像よりも、遥かにマズいことに。……〝機関〟は必ずしも、万人を救えるわけじゃない」
なんだろう。何か含みのある物言いだった。
まるで機関が、彼女を救ってはくれないかのような。
「……そんな話をして、俺にどうしろっていうんだ。俺には何も……。そうだ、俺、どうなったんだ……?」
汐見を助けようと飛び出した。殴られた。それからどうなった。たぶん意識を失ったはずだが、あのあとも暴行されていたならたぶん今頃死んでいる。じゃあ助かった? それで今こんなところに――こんなところ? ここはどこだ?
そもそも――俺は誰だ?
「自分が生きていると証明するものはなんだろう。何が私たちの生を証明していると思う」
「え……?」
そんなもの。
左手が胸に触れる。心音。聞こえる。鳴っている。自分は生きている。
生かされている。
生かしてもらっている。
もう一つ、この場所に椅子があることに気が付いた。
顔の見えない誰かが微笑んだ気がした。
「そうだね。生きている。その心臓が、君の生存を証明している。……でもそれは君の主観に過ぎないかもしれない」
「……そんなこと言い出したら」
「きりがないね。だから私はこう考える。私たちは周りの人々の存在があってこそ、自らの生を実感できるんだと。私がここにいることを、彼らが証明してくれる。君を認めてくれる人たちのいる場所。人には
君にはそれがあるかい、と。
問われて、考えて、自分には返す答えがないように思えた。
そんなものはないような気がした。
家族や友人が認めてくれる『
父も母も妹も、彼らが見ている自分は記憶を失う前の〝誰か〟であって、今の自分ではないのではないか。
ソーマだってそうだ。記憶を失う前の自分と交流があったという。だから声をかけたのだと。それはつまり、彼もまた自分に誰かの面影を重ねて見ているということではないのか。
誰も、俺を知らない。
この手には何もない。
でも――
「この孤独を、知ってくれる人がいる」
気のせいかもしれない。単なる思い込みかもしれない。
だけど彼女は自分と同じような気持ちを知っていると思うのだ。
勝手な、独りよがりな、一方的なつながりだけれど。
それでも、大切にしたかった。
「彼女を助けられるなら、君はたとえ自分が自分でなくなったとしても構わないかい」
その質問の意味するところはよく分からなかった。
しかし、仮に自分を見失ったとしても、彼女がそこにいてくれるなら、そのつながりを頼りにきっと取り戻すことが出来る。根拠のない自信でしかなくても、そう思えたから頷けた。
「今の生活を失ってしまうかもしれなくても、君は彼女を助けたいと思えるかい」
鬼に追われている彼女は今、何を思っているだろう。突然の脅威に怯えているだろうか。平然としているような気もする。その斜め上をいって笑っていたりするだろうか。
想像できない。彼女は不思議な人だから。正直、いつも何を考えているのかさっぱり分からないけれど。
もしもそれが自分なら、誰の助けも得られず逃げるしかない状況なんて心許なくて心細いに違いない。その時こそ、きっと一番の孤独を感じるはずだ。
助けるなんて、おこがましいにもほどがあるとは思う。
「彼女を独りにしたくないから」
「そう――」
苦笑、したのだろうか。
どこか悲しそうな、それでいて嬉しそうにも感じられる声だった。
男が立ち上がった。
近付いてくる。
その顔が見えた。
「なら、手を貸そう。行こうか――景史」
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