7 生存本能との競合
校舎から出ずに階段を駆け上ったのはきっと、安心が欲しかったからだ。
少しでも人がいる空間に逃げたかった。そこなら一人じゃない。さすがに人がいれば〝あれ〟も目立った行動はしない。
――なんて考えが馬鹿げていることくらい、もう少し冷静であれば、すぐに気付けそうなものだったのに。
それとも打算か。人が大勢いれば自分一人が狙われることもない。すれ違いざまにぶつかるなりして進行を妨げた誰かが、囮という犠牲になれば自分は助かる。助かるかもしれない。
もしそんなことをわずかでも思ったのなら、こんな醜い私なんてさっさと殺されてしまえばいい――自己嫌悪はすぐに呑まれて消えた。
二階に上がったところで理性が働いた。出来るだけ人のいないところに行くべきだ。あれがもしも自分を狙っているなら、そうすることで被害を最小限に抑えられる。
それが自分のためにもなる。
だが今のぼってきた階段を下りることは愚策だ。気配がするとでもいえばいいか。追ってくるのが分かる。不愉快な感覚が肌を刺す。
そして実際、階段を這うようにしながら、そいつは眼下の踊り場に姿を現した。
まるで獣だった。手も足も使って這い上ってくる女性教師。翼かパラシュートのようにその背中から膨れ上がる毒々しい色の塊。
かろうじて人間の上半身のような形状を保っているが、頭はない。腕だけがはっきりしている。
さっき見た時は両腕ともにあった気がしたが、今は左腕の肘に当たる部分がごっそりなくなっていた。その断面は泡立ち、ぶくぶくと少しずつ膨張しながら元の形を取り戻そうとしているようだ。
いったいどうしてあんなものが現れることになったのか。
たぶん原因は自分なのだろう。
だが正直、自分でもよく分からない。
廊下を歩いていたら隣のクラスの担任をしている女性教師と出くわして、その人の醸し出す〝異様な感じ〟に目を奪われたのだ。
疲れ切っているように見えるこけた顔。眼鏡越しの瞳には淀んだ何かがあった。彼女はこちらを見てぶつぶつとよく分からないことをつぶやいていた。
羨ましいだの、ふざけるなだの。どうやらこちらの容姿のことを言っているようだった。そんなことを言われても、と困るしかない。
その女性教師は小柄で少し地味目な印象だが、別に容姿が劣っているというわけでもない。だがその時はとてもマイナス思考というか、ネガティブなっていたようで。
つい立ち尽くしていると、見られていることに気を害したのか教師が突然怒鳴り声を上げた。掴みかかってきた。ほんとにわけが分からなかった。だから訊ねた。
――どうしたんですか?
首を傾げるしかなかったからそうした。そうしたら教師の中でくすぶってわだかまって淀みきっていた何かが内側から弾けるように溢れ出したのだ。
そしてそれは現れた。
でも今は、あれがなんなのかはどうでもよかった。
一年生の教室がある一帯だ。教室で駄弁るなりしていて、今になって帰路についたり部活に向かうのだろう。廊下にはまだちらほらと生徒の姿もあるし、視界の隅を過ぎる教室の中にもまだ結構残っている。
だが仕方ない。階段を上っているうちに追いつかれるだろう。ならこの廊下を抜けてもう一つの階段を目指すしかない。そこから階下へ。中庭……校舎裏にでも回ればなんとかなるか?
いや、階段を下りている最中に追いつかれる可能性が大。こっちが駆け下りるのに対し、向こうはきっと飛び降りてくる。最悪、踊り場あたりで捕まって終わりだ。
ならどうする?
「……はは」
笑みがこぼれた。
怖いとは思う。自分からあれに向かっていくつもりなんてない。当然だが捕まりたくもない。心臓だってばくばくしてるし今でも気を抜けば足をもつれさせて激しく転倒してしまうだろう。
だけど、こうして逃げ回っている今。
命がけのこの瞬間。
何かを少しでも間違えればどうにかなってしまいかねない緊張感。
――私は今を楽しんでる。
わくわくしている。自分だけでなく周りまで巻き込んでいるのにもかかわらず、不謹慎にも、とても。
なんてスリルのある鬼ごっこだろう。まさしく鬼だ。あれが噂に聞く最悪の異象。なぜかは知らないけどあれはいま私のことを求めてやまない。必要とされてる。出来れば応えてあげたいような。だけど捕まったらたぶん死んじゃうよ?
「はは……!」
化け物に気付いた一年生たちが騒ぎ出す。その中を駆け抜ける。この恐慌が心地良く感じる自分は間違ってるだろうか。
だって楽しいんだから仕方ないじゃない!
でも楽しんでばかりもいられない。どうにかしないと。
「そうだ」
たぶん気分が高揚していたからだろう。これくらい造作もないと思えた。
階段はもうすぐだが、あれは生徒たちを蹴散らしながら近付いてくる。幸いにも生徒たちは驚きのあまり廊下の端で腰を抜かしたり教室に逃げ戻ったりしているから直接の被害はないようだが、あいつの邪気とでも呼ぶべきものに当てられたのか、その場で失神している者もいる。
校内放送から慌てた様子の教師の声が聞こえてきた。落ち着いて行動するようにとかなんとか、そんな悠長にしてはいられない。
汐見は走りながら身をひるがえし、手近な教室に駆け込んだ。
突然の上級生登場にどよめき、廊下の様子を覗こうとしていた未だ事態を把握していない生徒たちが脇に退く。気にせず机の間を縫って窓際に向かった。そこからは中庭が見下ろせる。ここは二階だがまあなんとかなるだろう。
窓枠に足をかけた。教室の前でブレーキでもかけるような所作で立ち止まる獣。入り口から入るという頭はないらしい。窓も壁も突き破らんばかりの勢いで突っ込んでくる。
躊躇している暇はなかった。
窓枠を蹴って飛び出した。
外へ、空へ、中庭へ。
「あ――」
一瞬の解放感。でもすぐに気付く。これ、落ちたらマズいんじゃ?
だが今更だ。それに意味もなく自殺行為に出たわけでもない。
近付く眼下には枝葉を伸ばした木々が並んでいる。擦り傷くらい覚悟の上だ。両腕で顔を庇いながら、自分から枝にぶつかるようにして落下の勢いを殺していく。
着地はうまく姿勢を保てず背中から地面に衝突した。骨が軋むような痛み。呼吸が出来なくなった。でも相手もまさかこう出るとは思うまい。だいぶ距離を稼げたはず。放課後の中庭にはまばらに人の姿があるが今のうちに移動してしまえば問題ない。すぐに動くのは無理そうだが、焦る必要は――
「あぁ……」
力ない声が漏れた。そうなることが半ば予想できていたからかもしれない。
やつは追ってきた。本当に獣のようだった。
飛んできたのだ。
高く跳び上がり勢いも殺さずに着地する。何かの折れるような嫌な音が聞こえた気がした。
もはや女性教師はただの付属品に過ぎなかった。鬼に引っ張られて受け身もとれず地面に叩きつけられた彼女はしかし、痛みも何も感じていないかのような無表情で、それでもなおこちらを暗い目で見据えている。
汐見は腕に力を込めてなんとか上半身だけでも起こそうとする。だがこんなざまではもうどうしようもないだろう。
鬼が近づいてくる。上半身だけの身体で、両腕を使って地面を這っている。いつの間にか両腕がより肥大化していた。
女性教師はただ地面を引きずられているだけだ。ちゃんと生きているのかさえ疑わしいほどされるがまま。白かったブラウスが土と血の色で汚れている。
――もうそこに、彼女はいないのだろうか。
「……っ」
今更ながら震えが込み上げてくる。腰が抜けて立ち上がれず、奇しくも近付いてくる化け物と同じように腕を使って後ずさる。それでも互いの距離は刻一刻と縮まっていた。
捕まるのは時間の問題だった。
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