世界で一番美しい絵
ある街に、一人の絵描きの青年が住んでいた。
彼は貧しいけれど、町の人々とも仲が良く、毎日楽しく絵を描いて、幸せな日々を送っていた。
ある日、同じ街に住む、絵描きの恋人が、病気で死んだ。
絵描きは何日も、何日も泣き続けた。やがて涙が枯れると、ぼんやりと街を歩き続けた。
彼女とよく歩いた大通り。
彼女と何時間もくだらない話をした公園のベンチ。
彼女が大好きだった街の広場。
思い出の場所が次々と目の前を通り過ぎていく。絵描きは思わず、道の真ん中にしゃがみ込んだ。
この街にいると、どうしても彼女のことを思い出してしまう。もういやだ。彼女は死んだんだ。死んだ人間のことを考えたって、どうにもならない。
忘れてしまいたい。
忘れていまいたい。
忘れてしまいたい……!
絵描きは、気怠げに空を見上げた。どんよりとした、曇り空だった。
そうだ。もう、この街から出て行ってしまおう。
悲しいことなんて、忘れてしまおう。
絵描きは街を出て、ひたすら細い道を進んでいった。かばんの中には、少しのお金に絵の具、パレット、スケッチブックと筆が数本。
これが今の彼の全財産と言ってもいいくらいだった。
絵描きは歩いた。途中、誰にも会うことはなかった。誰にも会いたくなかった。こんな泣きはらした惨めな顔を、いったい誰に見せられるだろうか。
しばらくすると、森の中に入った。木々の間から、小鳥たちのさえずりが聞こえる。
絵描きはスケッチブックをかばんから取り出した。なぜだか、この森を絵に残しておきたくなったのだ。それほど、この森は美しかった。
筆を走らせながら絵描きは、死んだ恋人のことを考えた。
彼女はいつも、とびきりの笑顔でこう言っていた。
「あなたの描く自然の絵が、私は大好き」と。
ああ、彼女に会いたい。
完成した緑の森林の絵を一羽のカナリアが上からのぞきこみ、絵描きに問いかけた。
「なぜあなたは、そんなに悲しい森を描くの?」
絵描きは無表情で答えた。
「悲しいからだよ」
森を抜けた先には、海が見える大きな港町があった。
絵描きは、夕日が差してオレンジ色に染まった海を、スケッチブックに写していた。
彼の恋人は、海が好きだった。
一度、二人で海へ行ったことがある。あの日も綺麗な夕日が輝いていた。
「また一緒にここへ来ようね」
彼女と、そう約束した。
けれどもう、そんなことは叶わない。二人でどこかへ行くことは、永遠にできないのだ。
通りすがりの老人が、絵描きに声をかけた。
「なぜ、そんなに暗い顔で、明るい海を描くのだ?」
絵描きは、絵の具のチューブを震える左手で強く握りしめ、答えた。
「悲しいからです」
さらに歩いていくと、小さな町をみつけた。
この町の人たちは、みんな笑顔で楽しそうだ。
道化師が道行く人々に風船を配っている。
絵描きはその姿をスケッチブックに描いた。
絵描きが少年だった頃にも、彼の街に道化師が来た。
あの愉快なパフォーマンスに、幼かった彼も、その頃は恋人ではなく友達だった彼女も、楽しげに笑い合った。
けれどもう、一緒に笑うこともできない。
一人の男の子が絵描きに近寄り、不思議そうに尋ねた。
「どうしてお兄さんは、楽しいピエロの絵を寂しそうに描くの?」
絵描きは男の子にそっと微笑みかけて、何も答えなかった。
何も答えず、絵描きはふらふらと道化師と観客から離れていった。
彼女のことを忘れようと思って街から出てきたのに、どうしても思い出してしまう。早く彼女のことなんて忘れてしまいたい。
絵描きは道ばたで立ち止まった。
なぜか、目から涙がこぼれ落ちてくる。どうして。
どうして自分の思い出には、いつも彼女がいるのだろう。
気づけば、街を出たあの日のようにしゃがみ込んでいた。
そんな絵描きに気づき、近くにいた花売りの女が近づいてきた。
「どうしたの?」
絵描きはうつむいたまま、途切れ途切れに答えた。
「……愛する人を、失って、悲しくて、つらくて……。忘れようとしているのに、どうしても彼女のことを考えてしまう。……絵を描いていると、彼女の思い出が次々と、頭に浮かんでしまうんだっ……」
絵描きはスケッチブックを腹立たしげに道ばたに投げつけた。
花売りはそれを拾い、そっと中を開けた。
森、海、道化師。
三枚の絵を見て、花売りは絵描きに訊いた。
「これは、あなたが描いたの?」
絵描きは涙を流しながら、うなずいた。
「この絵の中に、あなたと、あなたの大切な人の思い出がつまっているの?」
絵描きは、さっきよりも大きくうなずいた。
花売りは、ふっと微笑んだ。
「愛する人を想いながら描いた絵は、こんなにも美しいのね。ねえ、絵描きさん。大好きな人を忘れよう、なんて考えてはだめ。だって、この絵を見ていると、あなたとその人には素敵な思い出がたくさんあるんだって想像できて、幸せな気持ちになるもの。忘れてしまってはもったいないわ」
絵描きは、優しく微笑む花売りの前で、声をあげて泣き続けた。
彼女のことを忘れようと思っていた自分が恥ずかしかったり、彼女のことが恋しくてたまらなかったり。いろいろな気持ちが混ざり合った涙だ。
そして泣きながら、絵描きは思った。
もう、君を忘れようなんて絶対に思わない。
君と過ごしたたくさんの思い出を、一生心の中に、大切にしまっておくよ。
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