展覧会の絵
「恐れ入りますが、作品にはお手を触れないようお願いいたします」
控えめな、それでいてはっきりとした声を耳にして、はっと目の前を見る。そこには、今まさにぼくに触れようと手を伸ばす、一人の女性がいた。
「あ、すみません」
「いいえ」
責めたわけじゃないんですごめんなさい、というように、声をかけた彼女、ホンダさんははにかみ笑いを浮かべた。
ぼくは絵だ。名前は「夜空」。みんな、ぼくのことをそう呼ぶ。キャプションにそう書いてあるらしい。ホンダさんは、展示室にいつもいるお姉さんだ。名札にホンダって書いてあるから、そういう名前らしい。ぼくや他の絵に傷がつかないように、いつも見ていてくれる人。
週に3日くらい、ホンダさんはやって来る。時間はいろいろ。美術館が開館するよりも早く、朝一番に来るときもあれば、昼頃に顔を出すときもある。いつもぼくを見かけると少しだけ笑いかけてくれる。人が誰もいないときにはこっそり「おはよう」と声をかけてくれるときもある。
ホンダさんは壁に掛けられているぼくがお客さんに触られそうになったり、カバンや物がぼくにぶつかりそうになったら、そっと止めて守ってくれる。そのときにお客さんに嫌な顔をされることもたまにあって、ちょっと落ち込んでいる日もある。だけど、お客さんが「綺麗ですね」ってぼくを褒めてくれたら、嬉しそうにしている日もある。
向かい側のショーケースの中にいる絵は、ときどき羨ましそうにぼくに言う。
「お前、むき出しで展示されてるからホンダさんに大事にされてんだよ。いいなあ。おれ、ホンダさん可愛いから好きー」
「何言ってるの。ケースの中にいるほうが安全でいいに決まってるよ」
可愛いのは、否定しない。
ある日の開館前、ホンダさんはぼくの前までやって来ると、いつものように「おはよう」と笑いかけてくれた。それだけじゃなくて少し寂しそうにぼくを見つめる。
「今日で展示、最後だね。ねえ夜空。きみはお客さんにも人気だから人が集まってきて、私もひやひやしたよ。無事に作家さんにお返しできそうでよかった」
展示期間が今日までだとは知らなかった。どうやらもう、生みの親の画家のもとに帰らなければいけないらしい。
どうして絵は人と話すことができないんだろう。ホンダさんに別れの挨拶がしたい。どうしても。
突然、体が軽くなる感覚がして、気が付くとぼくは人の姿でホンダさんの前に立っていた。
「ぼくを守ってくれてありがとう。また会えたらいいな」
言い終えるのと同時に体は実体をなくし、ぼくはまた絵に戻っていた。
ホンダさんは驚いたのか目を丸くして、ぼくを凝視していた。彼女にそんなに見つめられることなんてなかったから、ちょっと恥ずかしいな……なんて思うぼくであった。
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