恋のようなもの

 この田舎町の冬は、妙に寒い。

 電車から駅のホームに降り立った私は、当たり前の事実を思い出してほっと息をついた。

 年に1度は帰省しているけれど、そういえば実家は寒いんんだよなあ、と駅についてからやっと気づくということを毎年繰り返している。

 階段を上がり、改札を抜けようとICカードをかざしたところで、同じ動作をした近くの人と肩が軽くぶつかった。


「すみません」

「あ、いえ」


 謝られてとっさに適当な返事しながら慌てて改札を抜ける。そのついでに相手の顔を見て、私は一瞬かたまった。

 その男性は動きをとめた私を怪訝そうに見て、少しだけ目を見開く。

 私は彼を知っている。

 そしておそらく彼も、私を覚えている。


                 *


「なあ、雪ふってる」


 同級生だった彼が初めて私に話しかけたのは、そんな言葉だった。

 私たちは高校に入学して1か月も経たないうちから保健室登校の常連だったけれど、冬になってもまだお互いに会話したことはなかった。

 私は学校の人間関係にほとほと疲れていて、できる限り誰とも何も話したくなかった。だから彼が保健室にいても無視していた。彼は彼で、だるい授業をさぼってやって来た場所にいる、ぼんやりしたダサい女子と仲良くするメリットなどなかったのだろう。だから私がいても彼は無視していた。

 突然話しかけられて、数学の教師から出された宿題をやっつけていた私はおそるおそる顔を上げた。だぼだぼのカーディガンを着た後ろ姿が、窓辺にもたれて熱心に外を見ている。

 私に言っているのかひとりごとなのか、よくわからない。

 返事をせずに黙っていると、彼は振り向いてもう一度言った。


「雪」

「あ、うん」


 確かに外は白い粒かがちらついていた。毎年この時期になれば珍しくもない。帰りに積もっていなければいいのだけど。

 淡泊な私の反応が不満だったのか、彼は不機嫌そうに私を睨んで「雪だよ」と繰り返し言いながら、窓を開けた。冷たい空気が暖房で温まった部屋の中を荒らし始める。

 寒いから閉めてくんないかなあ、なんて思っていると、彼は窓に足をかけて、そのまま外へ出てしまった。

 何やってんの、あいつ。1階だから別に危険ではないけれど、コートも何も着てないし、足も上靴じゃん。

 もう、面倒だし放っておいていいかな。ゆっくりと数学の教科書とノートに目を落とし、思考を数式の計算に戻してゆく。

 寒いほうが案外、集中できるかもしれない。これはこれで悪くないか……。


「……うわっ!」


 急に飛んできた何かに驚いて、シャーペンを投げ飛ばして立ち上がった。

 制服のスカートが少し濡れている。足元には雪のかたまりがばらばらと落ちていた。窓のほうを見ると、窓の外から雪玉を両手に持った彼が、にやにやと笑ってこちらを見ていた。最悪だ。

 こいつにも一発くらいは当ててやらないと気が済まない。続けて飛んできた雪を華麗に避けながら、窓まで走って私も外に降り立った。

 彼がしゃがみこんで新しい雪玉を作っているうちに、私も急いで足元の雪をかき集める。せっかくだから手でがっちがちに固めよう。

 彼よりも0.5秒ほど早く立ち上がった私は、出来上がった雪玉を持ってこっちを向いた彼に向かって振りかぶり、雪を投げつけた。


「いっっっって!!」


 肩に命中した彼が尻もちをつく。あれ、ちょっと固めすぎたかな。


「そんなに痛かった? ごめん」

「いやー、うん。そんなきっついの投げてくるとは思ってなかったから、びっくりしただけ。てかなに? 俺が投げた玉もほとんど避けるし今投げた玉もめっちゃ速いし。運動神経よくね?」

「中学まで少年野球やってたから」

「マジのやつじゃん、それ。勝負を挑んだ俺はばかだー」


 そう言って彼は、心の底から楽しそうに笑った。つられて私も少しだけ声をあげて笑う。この人のおかげでスカートは湿っているし、指先も手のひらも冷たいけれど、まあいいか。


 ちなみに数分後、席を外していた保健室の先生が戻って来て、とけた雪によって濡れた部屋の床と、雪まみれになった私たちを見て悲鳴をあげた。後にも先にも私が高校で先生に怒られたのは、この日だけだった。


 それから私たちは保健室で会うと、社交辞令程度の会話はかわすようになった。だけど、それも1年生の終わりまでのこと。

 2年生になった春、昨年度と変わらず私が保健室を訪れても、彼と会うことはなかった。彼は学校からいなくなっていた。

 私が知る限り、彼が退学した理由をはっきりと知っている人間は誰もいなかった。

 ただ、風のうわさで、成績が悪くて留年が決まり、進級できないなら学校をやめるとごねて退学したんだとか、他校の誰かを妊娠させたから子どもを育てるために働くらしいとか、親が外交官で海外に転勤するのについていったんだとか、本当なのか嘘なのかよくわからない情報だけが、耳に入っては通り過ぎていった。

 相変わらず私は誰と会話するのも億劫で、保健室の常連がひとり減ろうがどうでもいいと思っていたけれど、ときおり無性に寂しくなった。わけもなく彼に会いたいと思う日が定期的に訪れた。

 一度だけその気持ちを口にすると、保健室の先生は「生きていればそういうこともあるでしょうね」と淡々と答えた。


「恋みたいなものよ」と。


 私には、恋と恋みたいなものの違いがわからなかった。今だってよくわからない。だからなんとなく、あれは恋だったんだなということにしておいた。

 時間が私を変えてゆく。なんとか高校を卒業して1年ほどニートと浪人生の中間のような生活をし、大学に入学して一人暮らしを始めて。その中で彼への寂しさは薄れ、また別の出会いや別れがあり、それらによって新たな寂しさが上書きされたりしているうちに、彼のことはすっかり忘れていた。


                  *

 

 改札を抜けてから後ろを振り向くと、私に続いて改札を通った彼と目が合う。何もかけるべき言葉は思いつかなかった。ただ懐かしさがこみ上げてきて、笑みが浮かぶ。

 同じように微笑んだ彼に軽く会釈をされた。私も同じように軽く頭を下げると、彼は私に背を向けて出口のほうへ去っていった。

 黒いコートを着込んだその後ろ姿は、学生のようにも社会人のようにも見える。勉強をしているのか働いているのか、今なにをしているのかはわからないけれど、顔つきは子供っぽさが抜けて大人の男の人になっていた。

 思いっきり笑えば、あの雪の日に尻もちをついていた彼の、少年らしい面影も残っているだろうか。見たいような気もするけれど、見る必要がないこともわかっている。

 私たちは、そっと微笑み合う程度には、それなりに大人になったんだと思う。

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