11 辻村茜
今日は三月で、俺達が学校に行く最後の日だった。灰色で青い空から、雨が降っていた。この所、ずっと降り続いていた。玄関前の傘模様、殊更にはしゃぐような、大量の騒ぎ声。
やがて体育館で、式が始まった。いつもの学期末に比べたら、そこに居る連中の数は馬鹿みたいに多かった。知っている奴も知らない奴もいた。その中で、俺は一人だけを探していた。後ろのほうで見渡す。何回見ても、夏目は居なかった。
鞄を持って、俺は体育館を出た。行く場所は一つしかなかった。
屋上だ。
静まり返った廊下、窓に張り付いた水滴。雨音と自分の走る音だけが聞こえた。階段を駆け上がる。真っ黒の扉はもう、隙間から光なんて見えない。握ったノブは冷たい。開けたら、風が吹き抜けて、雨と水が追ってきた。後ろ手で、扉を閉めた。靴裏にコンクリートが干渉する。息を整えて、夏目を探した。いつもの場所には居ない。グラウンドが見える方の、柵に座っていた。
俺は立ち止まり、その背中を睨み付ける。夏目、と呼ぶ。夏目がゆっくり、身体ごと振り向く。
「茜?」
俺は鞄から、ナイフを取り出した。
――朝、校舎裏に石川を呼び出した。あいつはナイフが好きだったな、と当てにして、昨日、電話をかけていたが、本当に来るとは思っていなかった。
エンジン音がして、雨水が跳ねた。ノーヘルで単車を降りた石川が、目を伏せたまま近づいてきた。
「よお……石川、薫子」
「ああ……辻村茜」
軽い挨拶をしてから、石川は何も言わずに鞄から取り出した新聞紙の塊を俺に寄越した。
「石川、この貸しは、返せるか分かんねえけど……」
「返しなどいらん。そいつはやる」
即答されて、身体が強張った。
「もう貴様の物だ。俺様をこれ以上面倒ごとに巻き込むな」
石川の言うことはもっともだった。俺は石川を見据えて、頷いた。
「分かった」
そう言ってから、付け足す。
「最後だな」
石川が俺を見据え返す。
「貴様とは、三年間、終に決着をつけることは無かったな」
「別に俺は……今からやってもいいよ」
「断る。今の貴様には、他にやることがあるのだろう。夏の時よりは、ずっと生きている」
そうは思えなかった。ただ、刃になれないのなら、刃を持つ、それだけだ。
「けど、結局喧嘩はしなかったけど、まあ、そんなもんなんじゃねえのか」
「ああ、そんな物だ」
そう言ってから、石川は背を向けて出ていこうとした。その後ろ姿を眺める。ずぶ濡れの改造制服、巻いた茶髪の二つ結び、トサカ頭。ふと、言うつもりの無かった言葉が口をついて出た。
「お前は、変わんねえな」
石川は立ち止まる。雨音に包まれる。石川がもう一度俺に向けた顔に、目を見張った。疲れ切ったような、安らいだような笑顔だった。信じられないくらいの、笑顔だった。
「もう良いんだ、辻村。貴様に……あんたにあげた、それがあたしの、最後の一本だ」
捨てられなかった、と石川は呟いた。
……別に貴様だろうと、俺様だろうと、似合っちゃいなかったけど、俺は嫌いじゃなかったよ。
なんて、言えるはずもなかった。
石川もどこかに行くんだと、その時になって俺はやっと気付いた。そして石川は行った。たった一人で。
傘のない俺と夏目を、雨が洗い流している。制服がひどく重くて冷たい。だけど、染みついた暴力は落ちない。
俺は鞄を投げ捨てて、真っ直ぐにナイフを構えた。こんなもの、素人の俺が持ったところでどうにもならない。だが今欲しかったのは、純粋な、刃だった。
夏目は目を見開き、口をぽかんと開けていた。それを認識した時にはもう、夏目は飛び降りて重心低く近付いていた。身体を引く。俺は構えたまま。まだ動くな。夏目が手の甲を突き出す瞬間、後方にすぐさま腰を落とした。夏目の腕が空を切る。俺はバランスを崩しながら、ナイフを目の前に突っ込む。
銀色が夏目の頭の脇を、切り裂くように抜けた。
ぞっとするのを振り払うように、俺は夏目の頭を蹴飛ばした。夏目は転がり、コンクリートに片手をつきながら頭を抱える。
心臓が怯えているように鳴る。今の夏目が、怖くないことに。
「来いよ! 刺すぞ!」
ナイフを持ったままの両手が震える。雨のせいだ。
夏目は笑うのをやめていた。笑みもない。地面につけていた手が、袈裟に振られる。水飛沫に思わず目を瞑った。目を開けた時既に夏目は沈み込んで腕を引いていた。反射的に仰け反る身体が引き寄せられる。頭にない行動だった。俺は凍り付いた。ぶら下がった両腕が思うように動かない。ナイフが落ちて水が跳ねる。潰れるような音がした。
触れたほとんど雨を受けて冷たくなっている身体の中の、仄かな体温。俺の肩に顔を預けた夏目が、耳元で囁く。
「もういい、って。いらないって、言っただろ」
俺は絶句する。直後、拳で腹を突かれた。蹲りたくなるくらいに力が抜けていく。下からこみ上げてきて、呼吸が苦しい。耐えるために息を吐く。腹を突く夏目の手首を、強く押さえつけながら。夏目の骨が軋む。だけど俺の腹には拳がめり込んでいく。夏目がすうっと、息を吸うのが聞こえた。そう思った瞬間、押さえつけていた腕を前へ引かれた。体勢が崩れる、数瞬後には足を引っ掛けられていた。立っていられない。さらに雨の足場の悪さでコンクリートに打ち付けられた。身体が軽く痺れ、意識を失いかける。夏目が倒れこんでくる。頭部直撃のヘッドバット。割れそうだ。額も頭も。背中が冷えていく。下半身に重く力が圧し掛かる。夏目が乗りかかりながら、それぞれの手で俺の両腕を掴んでいる。こんな時に思うのが、よりによって、夏目の表情が見たいなんてこと。今はよく見えない。夏目の身体がふらっと揺れた。落ちていく雨。振り上げられた右の拳が、俺に落ちる。
途方に暮れる。気が付くと、俺の思考だけが浮いていた。夏目は俺を殴り続け、地面に打ちつけ続けている。俺は口も閉じられなくなり、半目を開けるのがやっと。頭がおかしくなりそうに痛い。顎も、頬骨も痛い。生温かいのはたぶん鼻血だ。腹も重い。体温は少しは感じる。雨音がやけに大きく聞こえる。うっすら開いた右目で、目の前の夏目がぼんやりと見える。見たこともないようなひどい顔だった。この狭い箱の、歪みそのものみたいだった。
こいつ俺を殺す気なのかな、そんな感情が淡々と浮かぶ。確かに、これじゃ本当に死神だな。まあ、いいか。制服も重すぎる。
もうねえよ――刃なんか。
その時、頭の中で声が聞こえた。ガキっぽい、声だった。
『お願いしたいことがあるんだ。あなたが負けたら――』
かつての、夏目の言葉だった。
『僕と一緒に、行ってくれないかな』
ああ、思い出した。来てくれ、でも、連れて行ってくれ、でもない。友達になってくれなんて、絶対お前は言わねえからな。
「夏、目」
俺は辛うじて声を出した。夏目は動きを止めた。
「俺は、お前のこと、凄えと思った。てめえみたいに、なりてえって」
夏目は思い出したように真顔になった。舌に、血と雨が混ざった苦味が触れる。言葉を繋ぐ。
「……けど」
俺は学校が好きだったことなんて、本当に無かった。だから、お前みたいに、学校が大好きな奴には。そこに居ることしかできないような奴には。
「俺は、もう、お前みたいにはなりたく、ない」
お前の、透明な視線。純粋を絵に描いたような笑顔。揺らがない、無敵の刃。夏目は最強だ。それはきっと、俺の中で一生変わらない事実だ。変わらねえお前だけの、何一つ変えることができない暴力。
夏目は目を閉じた。それから目を開けた。笑顔だった。初めて笑ったのを見た気がするくらいに、柔らかい笑顔だった。
「世界って、案外幸せにできてたりするのかな」
――理想だったのかもね。
なんて言って、夏目はまた、拳を振り下ろす。
理想なんかじゃねえよ、初めから、お前なんか。そんなんでずっとお前を見てたわけじゃ、絶対ねえ。
ああ、分かったような顔して、お前は何も分かってねえよ。俺も同じだ。ずっと何を見ていたのかも分からなかった、今でも分からない奴に、知ったような口を聞いて、くだらない殴り合いをして、それが多分ただ一つの、ここから抜け出すための、俺の選択だ。
振り下ろされた腕を左手で握り込む。肩に達する直前だった。夏目に振りほどかれないように渾身の力を押し付ける。
「重くねえぞ、全っ然、い、痛くねえ……!」
言い聞かせるように唸る。掴んだ腕を支柱に僅かに起き上がった。
「けど初めてだ、こんなに痛えの、はっ」
開けられる目で夏目を睨み付ける。夏目が一瞬、硬直した。もう片方の手を即座に伸ばして、後ろ頭を掴んだ。
そのまま自分の頭を顔面に打ち付けた。頭突きを返す。同じだけの痛みが来る。
こんなに、近え距離も。
いつかの思い出が頭を駆け抜けた。
『辻ちゃんって、いつもは単に目つき悪いだけだけど、なんかたまに恐いんだよなあ』
『うんうん。良いこというぜ三田』
『あのな、好き勝手言いやがって』
『けどよ、それを実戦でもできればもっと――』
こんな時に、お前らかよ。
薄れる意識。身体が崩れ落ちていく。夏目が傾いていく、そう思ったら手首に痛みが走った。握り潰されそうなほどの力。強制的な覚醒の感覚で目を開けると、夏目は鼻が潰れて多少の血を流しながら、目を見開いたままの無表情だった。
俺はコンクリートの地面に倒れた。それでも、立ったままの夏目から目が離せない。お下げの解けかけた黒髪を雨が流れ落ちる。泥がついている。制服は、今日までの穴や落ちない血や泥の跡で、だらしなくなっていた。覗く皮膚にはいくつかの消えない傷がある。
夏目が背を向ける。俺の口からは、乾いた笑いがこぼれた。夏目は最強だ。学校という、この場所で。だけどそれは、夏目だけの物だった。俺には、意味のない力だった。だから、憧れた。
強さも、痛みも――全部こんなちっぽけな箱の中の話なんだって、外の連中が笑うだろうか。
銀色が目に入った。それは、手の届くところにあった。俺は、それに触れた。
それに触れた途端、俺は起き上がって駆けだしていた。
刃を両手に。
振り向きかけた夏目が口を僅かに開くのが見えた。腕を突き出した。夏目だけを目指して。そうだ、俺はお前に届くために。あの距離を、壊すために。
「俺は、お前に、勝ちに来た……!」
両手に、肉の感触がした。銀色を、赤い血が一筋、伝って、俺の手に届く。深く、深く、刺さる。夏目の、黒いセーラー服の、肩のあたりだった。息ができない。一筋の暴力しか、見えなかった。夏目の顔も、見えなかった。聴こえた声の全ては、ただ無意味だった。
「……やっぱり、あなたは、怖いね」
緩やかな拳骨が、頬を掠めた。たったそれだけで、動けないまま俺は倒れた。背を向けた夏目が、どこかへ歩いていくのが、真っ黒になる視界を、一瞬だけ過ぎった。
「今のは、痛かったよ」
どこかで声がした。
刺すような細い光線の熱で目が覚めた。雨は止んでいた。起き上がるにはまだ痛すぎる。コンクリートに仰向けになったまま、柵の方を見た。両目が開くようになってきた時には、雲が切れて、天道がくっきりと円を作っていた。夏目はどこにも居なかった。やがて右手で顔を覆った。とりとめのない考えで埋め尽くされそうな頭を、どこか他人事のように感じながら。
立ち上がれるようになった頃、血の跡のある柵に掴まって外を見た。そこにも、夏目は居なかった。ただ、校舎の壁と、土と、植物と、街があるだけだった。
床に転がっていたはずのナイフも、どこにもなかった。ただ、赤く染まった俺の手だけが。雨に流れても、落ち切らない血が。
鞄を開いた。ぬいぐるみが入っている。三田がよこしたのと俺が取ったので三つだ。俺が白で、佐嶋が黒で、三田がトラ。
「なら……ピンク……だよなあ……」
誰も聞いていないのに、俺は言った。幼稚なうさぎ。届かないなら、色なんてないのと、同じことだ。夏目がどこに行ったのかは分からない。たとえあいつがどこに行っても、俺にはついていけない。
俺は負けた。
近くの壁を眺めた。狭くて、だけど十分なコンクリートだった。雨で溶けた、油性マジックの匂いで満ちていた。その下の濡れた床に、三つのうさぎを並べて置いた。俺の白に、赤い汚れがつく。それから、いつの物だったか、ソーダアイスの棒を置いた。もちろん何も書いていない。最後まで、ハズレのままだった。すぐ傍に、なぜかスプレー缶が転がっていた。それを拾った。中身はまだある。
振り返って、白い柵の隙間の街を、もう一度だけ見た。
……こんなに、綺麗だったんだな。
全部、黒く塗り潰した。
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