9 辻村茜

 俺と、夏目。俺達は二人になった。もう、ただの一人と一人だ。

 三年になった。夏目は何も変わらない。ただ、街を見ていただけだ。今年の春は、単純に寒い。まだ来ていないかのように。

 俺はふと一人で、屋上で寝て起きて、後悔したことがあった。コンクリートが固くて、怠かった。身体が動かなくて、死にたくなった。

 黙ったままの教室。眩しくて冷たくて、降り注ぐ白色。降り注ぐ先公の声。俺は窓際の椅子に座って、机に落書きをする。窓の外は見ない。見るものがないから。ずっと、机を黒く塗り潰しては、消しゴムで消した。なんか全部忘れたくなる時は。いつもと同じ、いや、聞いてないから、同じ、意味なんてない説教。聞こえてない。聞こえてなんかない。花びらが落ちた。いつか掃かれて流れてく花びら。冬じゃないことの証明。ピンクは、ずっと淡い。水で薄めた血みたいな、どこかで見た空みたいな色。どこにあるかも分からない重い鐘の音で、いつも時間が経っている。

 そういえば、こんな寒い日は、山井が居た頃の秋なら、佐嶋が煮玉子ばっかのおでんを買ってきたことがあったな。空気を温めながら。珍しく夏目が分けてもらってたか。柵に足だけかけて、逆さまになって、熱い玉子を佐嶋の手渡しで一個、口に入れて。

 あの頃の俺が何を考えていたのか、少しも思い出せない。

 あーあ。

 屋上で、グレープフルーツジュースを飲んだ。こんなに甘ったるかったか。紙パックを握り潰した。くしゃみが出た。気持ち悪い。それに寒い。鼻が痛い。上着がもう一枚欲しい。夏目はいつも、黒いセーラー服のままだ。二年も経って、さすがに石灰はもう取れていても、傷や歪みがひどい。夏目は柵の上に座って、珍しく、街じゃない方、俺の方を向いていた。八メートルくらいの距離がある。

「お前、最後に山井と何話してたんだよ」

 そんな昔のことを聞いたところで、夏目は何も言わなかった。

 山井と口にしてふと思い出す。夏目に「死神」なんて呼び名が広まっているのは、本当は夏目の目の前で山井が死んだからだ。そんな話、誰が流したのかは知らないが。

「無視か」

 本当に、何も答えなかった。きっと目は背けていても、夏目はまだ街を見ている。一緒だよ。どんだけ見てたって何も変わらねえんだよ、あんなちゃちな街は。

 お前が何もしないから、俺も何がしたいのか分からない。お前に勝ちたい、そんなことはもうどうでも良かった。暴力にも証明にも意味がない。時間が止まっていても、永遠に終わらない訳じゃない。それだけが確かだった。


 今日で最後の夏休みが終わる日。三階の三〇二。夏目はその教室で待っていた。終業式の前の日に、聞いたこともないくらいにたくさん喋って、夏目が俺に話した計画があった。

 夏目が今まで喧嘩した奴らで、今もここに残っている奴らを誘う。夏目とやりたいならその日に来いと。夏目自身がそいつらに呼び掛けて。夏目ができなかった分は俺も付き合わされた。石川とかだ。それが、夏目の計画。

 教室の机は、全部で二十台くらいで散乱していた。時計は十二時半を指していた。朝からここに居て、まだ誰も来ていない。夏目はさっきから、開け放した窓の外をずっと見ていた。白いカーテンが広がって広がって、揺れていた。蝉がうるさい。俺は廊下側の壁にもたれて、腕を組んでそれを見ていた。夏目との間の距離は、約八メートル。

「本当に来てくれると思ってんのか、夏目」

 蝉がうるさい。蝉がうるさい。

「都合の悪いことは、また無視かよ」

 夏目は動かない。そんなことに、腹は立たなくなっていた。可哀想だとは思わない。夏目は頭が空っぽだからだ。そんなことに、付き合う俺も俺だ。

「アイス買ってくるわ」

 俺は教室を出た。引き戸の音が吸い込まれて消えた。

 電気がついていないから廊下が暗い。ある気配を感じて、俺は立ち止まった。

「石川」

 ちょうど一メートルくらいの距離で、そいつは立ち止まった。暗くても、体格のせいですぐに分かる。何があったか知らないが、石川は一年の頃よりずっと、横に広がっていた。目の前に居るのは石川で、その後ろに、十人以上居る。石川のすぐ後ろに居る奴は、ナイフをくるくる回している。

「辻村、成海夏目もここまでだ。俺様が成敗する」

 甘くて重々しい声が懐かしい。石川はバットを担いでいた。すぐ目の前まで近づいて、見下ろしてくる。背丈も横幅も、お前には全く敵わねえよ。瞳孔が閉じていて、口が半開きだった。ガムでも噛んでいるのか、うるさい。その空気は、全く真剣だった。

 石川は今でも、何かも分からない頂点を狙っている。

「早く行けよ」

 俺は少し笑った。全部失ってから、身体を鍛えて、派閥を作り直して、手下を自力で集めて。派閥だの一年三年だのは、嫌いだった。だが今はそれすらも、綺麗に見えてしまいそうだった。

「お前がこんなに子分作ってたとはな。夏目も喜ぶぜ」

 叩いてやった軽口を、石川は鼻で笑った。俺ももう一度笑い返して、集団の横を通り過ぎた。後ろで手下の奴が、「あのコバンザメが」とか言うのが聞こえた。

 頭をかいた。ついでにゲーセンでも行くか、と思った。暇潰しには丁度いい。どうせここに居ても何も無い。


 UFOキャッチャーになぜか目が止まった。一度だけ、俺はそれをやった。何気なく当たった。白いうさぎのぬいぐるみだった。UFOキャッチャーは、狭い箱だった。それが校舎に見えた。意味の分からない手で掴まえて、引っ張りあげる。そうじゃなきゃ、捨てる。

 画面の中で、何回も負けた。夕方になった頃、ゲーセンを出た。売店でソーダのアイスを買ってから、学校に戻った。空から足元までを赤く染める影。黒い校舎。音がしない。匂いがしない。この光景を見るのは、たぶん今日が最後だと思った。

 三○二までの廊下を歩いていた。窓の外は湿った青色だ。溜息をついた時、目の前の気配に気付いて顔を上げた。それから呆然とした。

 佐嶋と三田だった。三田は佐嶋を肩で支えて立っていた。両方とも傷だらけだった。俯いた佐嶋の顔は陰になっていた。三田は半目が開いてない尖った目で、息を吐いていた。

 来る可能性を考えなかった訳じゃない。だけど、学校に来ない三田を、俺は本当は呼ばなかった。

「お前ら何で」

 ごめん、と口だけを動かして三田が言った。佐嶋も口を開いた。

「三田は、俺が、誘った。俺は行った。行かなきゃ、駄目だ、って、俺が思った、からだ」

 佐嶋の声は見た目より落ち着いていたが、明るさは少しもなかった。

「けど、もう、終わってたんだな……本当、に」

 もっと分かるように言え、佐嶋。終わってたって、何がだ。

 佐嶋は俺を見て、何か可笑しそうに笑った。眼鏡の透明なレンズ越しの目は、焦点が合わないまま。

「辻村、お前、さ、髪、伸びたよな」

 確かにしばらく切っていなかった。もう、肩につくくらいまである。だが今、そんな話に何の意味がある。

 三田が片手で、肩にかけていた鞄を俺に差し出してきた。

「これ、開けて」

 中に入っていたのは、ぬいぐるみだった。今日、俺がゲーセンで取ってきたのと同じうさぎの、柄違いが二つあった。

「ゲーセンで、佐嶋ちゃんが取ってきてくれてさ……でも意外と下手でさ、二つしかとれなくて。辻ちゃんだったら、白かな、なんて思ってた」

 黒いのと、黄色と茶色のトラ模様。

「でも、辻ちゃんが良ければ……預かっておいて欲しいんだ」

 三田の表情は、何の嫌味もなくただ、泣き出す寸前のような微笑だった。

 俺は黙ったまま、アイスの入った袋に、それを入れた。鞄を三田に返す。そして、三○二の方へ歩き出した。

「じゃあな、辻村。……頑張れよ」

 佐嶋の声が、後ろから小さく聞こえた。


 俺は三〇二の引き戸を開けた。

 カーテンが揺れている。赤とオレンジと黄色を突き上げる、青色を映して。机も椅子も、ほとんど倒れていた。一枚外れたカーテンが、なんかの塊になって床に落ちていた。教室には俺以外に五人いて、四人は床で大して面白くもない恰好で寝ていた。石川は帰ったのか、居なかった。他には、木刀とか、ナイフとか、バットとか、ヌンチャクなんかが転がっていた。落ちているこれらの内の二つは、よく知っていた。

 窓側の壁に背中をつけて、夏目は体育座りで蹲っていた。 夏目を見下ろしたことなんて、ほとんどなかった。顔を伏せた夏目の前髪は、くっつけた膝にかかっていた。

 舌打ちをした。こいつは俺と居る時は大体上の空だが、今は死んでいると誤解しそうなくらいだった。火をつけて煙草を噛んだ。

「いつまで寝たふりしてんだ。買ってきたぞ、アイス」

 無反応。この有様じゃ、仕方がない。帰ろうかと思った。もういいだろ。いつもならたぶんそうしていた。だが、ちらつく佐嶋達の顔が、俺を押しとどめる。

「おい」

 俺は夏目に近寄って屈みこんだ。その時、僅かに夏目が顔を背けた。背けるのを、見た。

 心臓が震えて、すぐに、胸糞悪くなる。

 俺は廊下側の壁に戻って、取り出した煙草を銜えた。ライターの赤い火を凝視した。

 八メートル。それが俺と夏目に必要な距離だった。

 見たくなかった。夏目が拒絶するところなんか。こいつのこんな弱さなんか。

 先に手を出すのが趣味なんて言ってたけど、それが嘘なことはとっくに分かっていた。あいつは、誰が相手だろうと、一発もらわなきゃ気に食わない奴だった。始めっからそうだった。誰よりもあいつは、暴力に飢えている。

「……逃げてんじゃねえよ」

 吐いて捨てた俺の言葉は、俺にさえ誰に向けたものか分からなかった。

 血の匂いがする。俺は煙草を投げ捨てて、思いっ切り踏みつぶした。袋からソーダアイスを取り出して、ガリガリと一気に食った。割って投げ捨てたハズレが、ゆるく回りながら、冷たい床に落ちていった。

 俺は出て行った。それからずっと、屋上には行かなかった。

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