8 佐嶋萌々

 数週間後、辻村が教室に来た。窓際後ろの席の俺の前に立った。俺は無視して解きかけていた問題を進めるが、全く頭に入ってこない。

「佐嶋」

「あ?」

 仕方なく俺は顔を上げて返事をした。辻村は露骨に嫌そうな顔をしていた。

「いや、三田のことだけど」

「三田がなんだよ」

「知らねえの? 三田が全然学校に来てねえって。一週間もだ。何か聞いてねえのか」

 そんな心当たりはなかった。全く知らない。

「知らねえよ、もう関係ねえし……」

 そう言うのがやっとだった。辻村は呆れていた。

「まあ、てめえが出て行った時は、三田もかなりキレてたからな。『遊びは終わりとか、訳分かんない!』って」

 頭が混乱する。

「ところで、てめえの言う、未来って何だ」

 そう、投げかけられた言葉の温度の無さに、顔を上げた。辻村は俺を見下ろして、はっと嘲ったように笑った。そして答えを継ぐ間もなく、背を向けて教室を出て行った。俺は、一人で残された。

 どういうつもりだ。だけど、そのことを考えてる暇は無い。辻村は嘘はつかない。あの時の三田の顔を思い出す。あいつは相談しろ、って言った。だけど当然、あいつは何も言わなかったんだ。だからって、俺はもう、あいつらとは関係なかった。

「……んなわけねえよ」

 普段はろくに喋らねえくせに、もう来ねえって言って、三田と喧嘩したままの俺にだって平気で話しかけてくる。変に無神経な、辻村はそういう奴だった。

 どの道、勉強に集中はできない。

 廊下に出た。窓の外には、枯葉さえも何も残っていなかった。成海の食えない笑顔が、つまらなそうな辻村の顔が、なぜか頭に浮かんだ。

 それから外に出て、校舎裏の誰も居ないところに行って、携帯で三田に電話をかけた。単調なコール音が数回鳴った後で、伝言も流れずに、すぐに切れた。仕方なく、近くの公衆電話に駆け込んで、百円を入れて番号を押した。狭くて静かで、俺にはよく似合ってる。今度は繋がった。だけど、俺が何か言う前に、

『佐嶋ちゃんにはこれっぽっちも関係ないから。じゃあね』

 それだけで、ツーツーと切られた。

 そうだよな、関係ねえよな。そうだそうだ。冴えない未来のことでも考えておけ。

「マジで、どうしたんだ……あいつ」

 これが最善。三年にも満たない友情ごっこを捨てようが、先も見えずに山井みたいになるよりずっとましな選択。今はもうとっくに縁の切れたような奴等への友情のために、暴力沙汰に巻き込まれてこんな場所に来る羽目になった、そんな失敗はもう出来ない。そのはずだった。俺はどこで勘違いした。そして何でまた、こんな余計なことをしようとしてる。


 結果的に、その日のうちに三田に会うことになった。帰り道の、いつもの繁華街で。夕方。擦れ違う老若男女に紛れた、金色のポニーテールと赤リボン。

 三田だ。

 俺は振り向いて、それを目で探した。道の端を一人で歩いている。ガングロにスタジャンにプリーツスカートにルーズソックスの、バリバリのギャル。ジャージばかり着ていた三田とは全然違うけど、どう見ても本人だった。俺には気付いていなさそうだ。この繁華街で三田を見かけたことなんてなかった。俺が走って追いかけると、すぐに追いついた。

「三田」

 俺は呼ぶが、流石に気付いたはずの三田は無視して歩き続けている。あーもう。俺は三田の腕を掴む。それで三田は立ち止まった。

「関係ないでいいけど返事はしろよ」

「不審者に言う返事はありません」

 全く目を合わせずに言う。正直三田の方が正しいとは思う。俺達の友達はもう終わったことで、俺はなんで今更、偽善者ぶってこんなことをしているんだ。それでも俺が腕を離さないでいると、三田は諦めたのか、腕を掴まれたまま歩き出した。無言で人通りの減った所まで歩いていって、俺を路地裏に引っ張り込んだ。俺を挟んで壁に両手を押しつける。身動きがとれない。背丈は俺のほうがかなり高い。だから俺のほうが見下ろす形になって、あの雨の日みたいに、赤リボンと金髪の頭しか見えなかった。だから三田がどんな表情をしているのか、少しも分からなかった。埃被った臭いと一緒に、覚えのないオレンジの香水の香りがした。

「佐嶋ちゃんさ、何なの? 放っとけよ」

 三田にしてはドスのきいた声が響いたけど、全然怖くはない。

「お前、学校行ってねえんだってな。何でだ、理由あんだろ」

「こっちはあんたに教えなきゃいけない理由とかないんですけど」

「やましいことでもあんのか? いいから言えよ」

 そう言ってから俺は深呼吸をした。気を付けていないと、すぐ気分が嫌になってくる。

「ベタベタしないって言ったのそっちじゃん。何で今更近づいてくんの」

「……辻村が心配してた」

 俺が、とも、たぶん成海も、とも俺には言えない。三田が、ぐっとこらえる音がした。

「言えば、帰ってくれんの」

 そうだ、三田が白状しさえすれば俺だってもう、お前ともおさらばだ。辻村に伝えてそれで。沈黙が流れた。

「学校とかもう飽きたし。そんだけ。辻ちゃんにそう言っといて」

 そう言って三田は壁から手を離して、出て行こうとした。

「本当のこと、教えてくれ」

 俺は何を思ったのかそう、三田を呼び止めた。そうじゃないだろって、頭の中の自分が言う。けど、明らかな三田の嘘が、心臓を締め付けるんだ。

「本当だよ」

「頼む」

 三田は額を押さえて、躊躇っているようだった。

「じゃあ土下座しろや」

「土下座はしない」

「だったら帰れ」

 土下座はどうしてもしたくなかった。勝手かもしれないけど、そんなことに意味はない気がした。だから俺は地面にうつ伏せになった。あれ、これ土下座よりもひどいんじゃないか。土がざらざらするし、臭いし。だけど。

『分かるように言ってよ、ちゃんと相談して』

 言葉にしなきゃ伝わんねえことの方が、ここじゃずっと多いんだ。

「説明、してください!」

 俺は懇願した。馬鹿みたいな俺になのか、三田は溜息をついた。

「馬鹿。仕方ないな、もう。ずっと顔伏せてろ」

 三田はそう呟いて俺の頭の前でしゃがみこんだ。そして話し始めた。


「――そういうことだから。これからも学校にはほとんど来ないから」

 説明は早口だった。正直、事情はあまり呑み込めていなかった。けど、また嫌がらせとかがあったんじゃと思っていたのに比べたら、少しだけ安心してしまって、そんな自分の馬鹿さ加減に呆れた。どっちが深刻かなんて、分かりきってるのに。

「辻ちゃんにも好きに言いなよ。それからもうついて来んなよ」

「俺に手伝えることねえか」

 背を向けた三田に言った。

「はあ? いい加減そういう優しい俺様止めろって」

 それだけ返して、三田は振り返ることなく路地裏を立ち去った。

 そんなことは分かってる。分かってたけど、俺は本当に一貫性のないやつで、その時の都合しか考えないやつで、適当なことしか言わないやつで、俺様で、でも全部俺がそうしたいって思って、選んだことだった。走るのを止めたのだって、本当は走り続けることだってできたはずだったんだ。

 もう、他の何かのせいにはしねえ。

 俺は走って追いかけた。三田の背中に向かって叫んだ。

「三田! お、お前は一人じゃねえ! 俺がダチだからだ!」

 俺は三田も、辻村も、成海も、好きなんだ。あいつらは、俺の友達だ。俺が、そう思った。

 もう遠くを歩いていた三田がくるっと振り向いて突っ込んできたかと思うと、次の瞬間スニーカーの裏側と、顎への衝撃。身体が傾いて倒れそうになる。足を使ってるのなんてほとんど見たことがなかった三田の蹴りは、速かった。苛立ちを全部、ぶつけられたみたいに。三田が叫ぶ。

「信じらんないんですけど! 本当何なの、佐嶋。勝手なこと言わないでよ、都合良すぎでしょ」

 俺は口が開かなくなってずっと手で押さえていた。多分、鼻血が出ている。

「あんたは好きに学校行けるくせに! 遊ぶのやめるって言ったくせに! 自分でやるって決めたことぐらい、最後まで貫けよ! あたしだって……あたしだって、もうあんたのことなんか追いかけるのは、止めてやるんだから」

 物凄く息が荒い。大丈夫かと言いそうになって止めた。とてもじゃないがそんな剣幕じゃなかった。

「そんなに良いことしたいなら、商店街の方のゲーセンで、うさぎのぬいぐるみ、全種類取って来いよ……お前の有り金で。器用だし余裕だろ?」

 目を伏せながら、三田はそう小さな声で言った。そして、顔を上げて何も言えない俺を見て、少し口だけで笑ったようにして、言った。

「最後に聞いとく。何なんだよ、未来って。あんたの……佐嶋ちゃんの未来って、何?」

 俺は、こう答えるしかなかった。

「辻村にも、同じこと言われたけど、分かんねえよ……失敗ばっかで」

 俺には無いものだった。到底思い描けなくて、ただ、無いということが分かるだけのもの。無いから、欲しいんだ。

 三田は少し睨んで、鞄を背負い直して、無言でまた引き返していった。俺はずっと見ていることしかできなかった。

 夕焼けが真っ赤で金色なことも、ずっと忘れていた。ずっと外さずについていた、三田のずいぶん古くなった赤リボンが、脳裏に焼き付いていた。


 辻村には、もともと裕福じゃなかった三田ん家が苦しくなって、長く働かなくちゃいけないようになったこと、出席日数はどうにか間に合わせるつもりらしいということを言った。実際、聞いて俺が理解できたのもその程度だ。

 それ以来、三田とも成海とも、辻村とも顔を合わせていない。

「……大丈夫だ。三田も俺も、辻村も、成海も。大丈夫だ。絶対、大丈夫。大丈夫だ。あいつらはずっと強いんだ。俺達は、強い。だから全部、大丈夫だ」

 暗示をかけるように、俺はひとり言を繰り返す。振り切って行く。そう決めても、不安は振り切れずに残っていた。全部、間違っていたんじゃないか。言わなきゃいけないことが、まだあったんじゃないのか。俺は気付いた。一人になることが、今までの全部が思い出になってしまうことが、こんなに怖いんだと。

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