5 三田のどか
廊下の窓を開けて、正門前を見ていた。新しく入ってきたばかりの一年生を眺めるのは、実際のところそこまで面白くないんだけど、黄色いのと桃色がぽかぽかして、なんだか平和で、ちょっと笑えた。
春になった。あたし達は二年生になった。
ここは三階だから、見晴らしもいい。隣に居る辻ちゃんの、ごく短い前髪が風にそよいでいる。辻ちゃんは、視力がいいらしいから、この景色ももっとよく見えてるんだろうな。あたしはあまり良くないから、少し羨ましい。
「なんかさー、羨ましいよなあ、元気一杯で」
そう軽口と辻ちゃんの肩を叩いて間に割り込んできたのは案の定、佐嶋だった。おっさんみたいなこと言うなよ。
「もう佐嶋ちゃん、いきなり脅かさないでってば」
あたしは文句を言った。いつものことだ。佐嶋はもちろん、少しも悪びれてない。だるそうに身体を伸ばす。割り込んできたくせに、少しも遠慮しない。
「で、面白そうな一年居た?」
「ドレッド頭のとか」
「あー、俺もアレ、やりたくなったことあるなー」
黙っていた辻ちゃんが急に口を挟んで、それに佐嶋が応じた。あたしが言うのもなんだけど、なんか辻ちゃんは明るくなったな、と思う。前は冗談なんて言わなかった。そう思いながら、あたしはつい、ドレッドの佐嶋を想像する。うん、今のでいいや。自称「逆プリン」とかいう、変な髪型だけど、佐嶋にはよく似合ってる。
「ところでさ、見ろよ」
じゃーん、とか言って佐嶋が何か取り出した。あたしと辻ちゃんが顔を寄せて見てみると、曲がった針金のようだった。
「何これ」
佐嶋はやれやれみたいな素振りをして、
「三田はピッキングも知らんのか」
なんて、微妙にひそひそ声で言ってくる。
「いや知ってるし」
返したものの、悔しいことに、意味は忘れた。
「俺は器用なので道具自作してみました。それでこれさえあればなあ」
そう言うと無駄に楽しそうな佐嶋は、あたしと辻ちゃんの肩を寄せて、一番小さい声で続けた。これなら、屋上の扉も開けられるぜ、って。
佐嶋、そんなこと考えてたんだ。てか結局ピ……って何?
目の前の辻ちゃんの顔をちらっと覗くと、いつも通りの目つきの悪いのを斜め下にやっていて、たぶん喜んでない方みたいだった。表情を読むのは苦手だ。
「今は封鎖されちまってるけど、やっぱ階段に居座ってるとさ、出たくなっちまうじゃん?」
佐嶋が言った。佐嶋の顔ならあたしにも分かる。桃色のサングラス越しでも分かる。浮かれてるのと寂しそうなのと。佐嶋は顔が良いんだから、サングラスで隠す必要なんて無いのに。
これまで出入り自由だった屋上が封鎖されたのは、そこで事件が起きたからだった。卒業式直後の、三年生の飛び降り自殺。それもあの、屋上で戦った、なんだか格好良かった人で。卒業式の日、あたしはバイトで学校に居なかったけど、辻ちゃんと成ちゃんは居たらしい。成ちゃんなんか、飛び降りるところを見たって聞いた。想像は、したくない。ぞっとする。正直気にはなるけど、佐嶋みたいに聞けるほど仲が良くもないんだ。佐嶋はそんなこと聞かないだろうけど。でも確かに、こんな怖い学校で、今までそういう事件が起こらない方がおかしかったのかもしれない。
そういう訳で、二年になってからは、今みたいに廊下とか、空き教室とか、外のベンチやグラウンドとか、階段とかで駄弁っていることが多くて、まだ慣れてはいなかったけど、それはそれで楽しかった。だからあたしは、佐嶋がまた屋上に行きたいなんて言ったことに、なんだかもやもやした。
その日の放課後、佐嶋と成ちゃんと辻ちゃんとあたしは、例の屋上の前まで行った。もちろん扉を開けて、屋上に出るためだ。
前に見た通り、扉の前には新しく置かれた立ち入り禁止の看板と、張られたロープが置いてあった。扉が落書きで真っ黒なのだけは、変わっていなかった。そこで立ち止まって深呼吸をしていると、辻ちゃんが一歩出て、あっさりロープを踏み越えて、看板をどかして、取っ手を掴んだ。
「おい辻村、待て」
「開かねえ」
少し捻ってからそう、やっぱりな、と言って、元の場所に戻った。確認しただけみたいだった。
「全く、先走んなって」
例の針金を取り出して今度は佐嶋が進み出る。それから、鍵穴に向かってガチャガチャやり始めた。皆で覗き込んでみても、何をしているのか分からない。
「ちょ、あんま見んなよ」
……ぎこちないことはあたしでも分かったけど。
「佐嶋、わざわざこのためにピッキング覚えたのか」
辻ちゃんの言葉に明らかに慌てて、うるせえ前から知ってたし、と言う。ただそれが本当かどうかは置いておいて、
「……お、開いた!」
器用と言うだけあって、成功したらしい。
開いた扉の外は何も変わっていなかった。最初に成ちゃんと、佐嶋が入った。次に辻ちゃんが、段差に足をかけた。そこで、振り向いて最後のあたしを少し見下ろした。
「どうした、三田」
「べ、別に」
正直、怖いなと思った。ていうか皆平然と入ってるけど、怖くないの。あの屋上だよ。人が死んでるのに。だけどそんなこと言える空気じゃなくて、意を決してあたしも踏み出した。
瞑った目を開けたら、そこには青空があった。窓から見る空、通学路の商店街で見る空、バイトで見る空と同じ、何も怖くない青空だった。綺麗すぎるくらいだった。
屋上は、何も変わっていなかった。コンクリートに、白い柵。高くあるままの給水塔。ただ、水の匂いと、錆の匂いと、花の匂いが、風に揺れていた。
あっという間に夏になった。夏は暑くて苦手だった。放課後は特に。
「暑ちいなー」
お日様が特に眩しくて痛い。今日は十人とちょっとを四人で相手にした。今は全員、屋上のコンクリートに寝転がっている。見るだけで熱そうだ。
あたしだってこう見えて中学生の時は剣道をやっていた。もうやめちゃったけど。誕生日に父ちゃんになけなしのお金で買ってもらった木刀が、今では全く喧嘩の武器になってしまって。あちこち傷ついて。剣道の神様が泣いている。
「全員やったか?」
汗をぬぐって深呼吸したあたしの傍で、佐嶋は指を高々と空に突き上げる。佐嶋はそういうのが好きだ。辻ちゃんは呼吸を整えている。成ちゃんは座り込んで、倒れてる子達を眺めていた。炎天下で、どうしても気持ち悪い。鞄から水筒を出して水を飲んだ。
「久々に暴れたぜ……」
楽しそうだな、佐嶋ちゃん。三年生も卒業して、今の二年生もあまり関わってこないし、確かにこんな喧嘩は久しぶりだった。
「疲れた」
辻ちゃんのぼやき。あたしもだ。とは思いつつ、
「久しぶりすぎて鈍ってるんでしょ」
なんて口を叩いてしまう。
「お前もな。あーあ、早く一年育たねえかな」
佐嶋ちゃん、そんなに好戦的だったっけ。
「アイス食べたいな」
そういう佐嶋のも辻ちゃんのも全部、成ちゃんからしたら関係ないんだろうな。でも、ソーダアイスはたぶん今、全部売り切れてるよ。お腹たまんないし、あたしはそんなに好きじゃないけど、なぜか皆ソーダアイスが好きみたいだから。それに今日は暑いし。
「てめえで買って来いよ」
辻ちゃんが突っ込んだ。
去年の冬、少しだけ意味の分からない嫌がらせを受けた時期があった。
『言いたいことがあるなら、はっきり言えっ……!』
あたしは叫んだ。叫んで、あの人達にコーラを混ぜた水をぶっかけた。バケツで。今から思えば、同じことをやり返してどうするって話。辻ちゃんの前で啖呵切って恰好付けてたのが恥ずかしい。余計に恨みを買っのか、先輩まで呼ばれて、グラウンドでひどい目に合った。
『来いや!』
何時になく頑張っていた。不思議と、視界がはっきりしていた。カルビ海ちゃん……と彫ってもらった木刀を握って、息を整えて、あの時のあたしはいつもよりも、力が出た気がした。
結局、辻ちゃんにも成ちゃんにも迷惑はかけずに済んだみたいで、安心する。佐嶋は知らない、勝手にしろ。辻ちゃんは何も言ってない。だけど佐嶋は来た。余計なお世話だ。せっかく、自分で何とかしようと思ってたのに。友達に助けてもらうなんてダサいこと、今はもう武勇伝で忘れてそうだから、そこはあいつの良いところだけど。
大げさに籠を運びながら体育館から出てきた佐嶋は言った。
『あー先輩方、ちょうど十一人居るじゃないですか! これでサッカーできますねっ』
いやあんたが持ってるの、テニスボールだから。だけど返事を聞く間もなく、佐嶋は無茶苦茶にボールを投げつけ始めた。当たっているかは怪しかったけど、とにかく凄い音で投げ続けていた。あの人達も佐嶋を狙って、蹴って、投げ返していたけど、お構いなしに籠の中身が無くなるまで佐嶋はテニスボールをぶつけ続けた。最後には籠を転がし落として。隙を見て、あたしが木刀で止めをさしていった。
全部終わって皆居なくなったあと、二人でボールを拾い集めた。籠の中にある程度片付くまでに二回くらい、鐘が鳴った。
結局何がきっかけだったのかは分からないけど、あたしは多分、佐嶋と同じ三組だという、倉本さんがやっていたんじゃないかと思う。嫌がらせがあった少し前、まだ三年の例の先輩を倒す前、その子に話しかけられたことがあったからだ。
可愛くて、知らない子だった。三組だということ以外は名前も教えてくれなくて、成ちゃん……成海さん達に関わらない方がいいよ、ってだけ言われた。急にあたしにそんなことを言ってくる意味が分からなかったけど、なんとなく、それ佐嶋に言ってみたら、って返した。そうしたら、あたしあいつ嫌い、って言い残してその子は立ち去ってしまった。
なんとなく気になって、後で佐嶋に聞いてみたら、その子が倉本さんというらしいことが分かった。でもそれだけだ。実際にその子が何かするのを見たわけじゃないし、何もされていない。だからたぶん、ただの性格の悪い勘違いなんだと思う。佐嶋に黙ってたのはそのこともほんの少しだけあったけど、佐嶋の方は本当に何も無かったみたいだから。
それに結局、とっくの昔に終わったことだ。
あの日みたいな感覚は、それからはもう無かった。何も変わらないな、あたしは。やっぱり不良なんて柄じゃないんだろう。朝に家を出て、学校に来てだらだらして、適当に喋って、終わったらバイトに行って、終わったら家に帰って、ガタの来つつあるテレビでお笑い番組でも見ながら、父ちゃんと店の残飯を食べて、傷んだ髪を気にしながら風呂に入って寝て、起きて着替えて。それであたしは、十分だった。
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