4 山井シズク
「山井先輩、僕のこと覚えてますか」
「……誰が忘れるかよ」
最後に煙の空でも見に行こうと思ったら、そこに辿り着く前に、成海夏目に出くわしてしまった。今日に限ってわざわざ一年階を通った時点で、自作自演と言われても仕方ないんだろうが。その廊下は、いつもより少し綺麗になっていた。あれ以降、成海夏目とは会わなかった。会わないようにしていなかったと言えば嘘になる。
今日、卒業式が終わった。イエローの陽ざしが床に映る。首に巻いたマフラーは、正直暑すぎた。少しの距離を保って、成海はふてぶてしく言った。
「今日で、お別れですね」
「どうも。成海」
「はい」
「……面を貸せ」
こいつの先輩なんて呼び方は、らしくなくて白々しい。少し笑えた。成海も少し俯いて、薄い笑みを浮かべた。
「それは、あの場所ででも、いいですか」
成海の示した場所は、屋上――ではなく、屋上に続く扉の前の階段だった。私と成海は並んで座った。ひどい絵面だと思う。この暗さが丁度良いくらいだ。
「僕はずっと、もう一度先輩とお話がしたかったです」
成海はそう言った。冗談を言っているようには聞こえなかったが、嘘くさい。
「勝ったのはお前だろ。何を話すって言うんだ」
「勝ちましたよ」
成海はそうお下げの頭を掻いた。薄々気付いていたが、成海は他人を苛立たせる。こいつ自身を含め、こいつの周りで暴力が絶えないのは、こいつに原因の一部があるんだろう。私もそうだったからだ。この学校には元々気性の荒い人間ばかりが集まっているのは事実だ。だがそれだけではなかった。そしてほとんどの人間が、その衝動を他人ではなく自分の意志だと思っている。
それも、この箱の中から直に出る私には、もうどうでもいいことだ。
私は成海を観察した。恰好も普通。背丈も普通。あどけない中学生のような、至って地味な高校生だ。どこからあんな躊躇の無い暴力が振るわれるのか、私には分からない。
成海は私の視線に少しはにかんで続けた。
「そうじゃなくて、ここで初めて見たんです。あんな、真っ直ぐな目をした人を」
「誰の話だ」
「山井先輩です」
全く何を言っているのか分からない。
「そんな目は誰もしてねえ。気のせいだろ、それより分からねえな、お前の考えてることは……」
今頃は、一、二年が群れて窓から三年の様子を眺めているはずだ。去年も一昨年もそうだった。たいして面白いはずもないが、どうしてこんな習慣ができたのだろうか。知り合いが居なくなると思うと、寂しくないこともなかったが。三年も同じだ。校舎の外、門の前、散り散りに群れているだろう。学校を出たくないのか、騒ぎたいのかは知らないが。
私が呆れながら振ると、成海は不思議そうに見た。
「人の考えてることが分かったらテレパシーじゃないですか」
「……」
挑発には乗らない。だが少し、こいつはぬけぬけと言いすぎる。そうだ、この目。透明に近い目。何も考えていないような、何も見ていないようなこの顔が怖かった。
「納得できねえってことだよ、お前の行動は。お前は何がしたいんだ。目的は何だ」
「そうですね、世界平和とか……」
「そうか、納得したよ」
そう、私はくだらない話を打ち切った。本当に納得した訳じゃない。ただ、夏目にそんな問いをすることに意味が無いと分かっただけだ。
心にもないような、他愛の無い夢で済む位が、この学校の中じゃ丁度良かった。その叶えようのない冗談の裏に、どれほどの現実があったとしても。
「それなら、山井さんの目的って何ですか」
先輩呼び、止めたのかよ。そのせいじゃないが、なぜか急に面白くなくなった。自分でも無表情になるのが分かった。後ろを振り返ると、閉じた扉は昔から変わらずに、適当な落書きで埋め尽くされていた。見下ろした十段もない階段が、急に暗すぎる、と思った。
「せいぜい楽しめよ。……私はただ、学校に居る間だけは、学校のことだけ考えようとしてただけだ」
だが実際、そう上手くはいかなかった。
「今日は外がよく見えますよ」
考えていた隙に不意を突かれた。思わず横の成海を見やったが、俯いていて、ちょうど陰になってよく見えない。だが、笑っていない。
「あの時、ずっと屋上に居たんですよね」
あの時。成海に負けた時だ。給水塔の上。高いところが、好きだった。心が空になった。だが、考えれば分かることだ。初めから給水塔の上に居なければ、そこから飛び降りるなんてできないだろう。だからどうして、今更そんなことを訊くのか。
「最初からずっと」
続けて、成海はそう言った。
初めて成海を見たのは、四月になったばかりの頃だったか。あの屋上で、私が外を眺めていた隣に、成海が立った。何かを話した訳ではない。ただ一言、真下へ身を乗り出しながら成海が言っただけだ。
『ピンク、好きですか』
私は答えずに立ち去った。単純に逃げた。
屋上は、力のある奴等の溜まり場だった。群れをなして、縄張りを誇示する。だが私が屋上に行くのは、単純に孤独になるためでしかなかった。そして孤独が好きだった。
「好きだったんですか?」
屋上のことなら、好きだよ。
「お前らのせいで面倒臭くなったけどな」
私は言い捨てた。もう屋上に意味は無い。全部こいつに負けてからだ。負けたからだ。何もかもがうまくいかなくなったのは。一番高い場所に居るための、孤独でいるための、力を失って。落書きとルールの中で、何か守りたかったものがあった。思い出せない。無くした。きっと今日、最後のそれを無くすんだろう。
ふと横を見ると、成海が妙に嬉しそうに笑っていた。気持ち悪い。私は立ち上がり、鞄を背負った。
「屋上、行かないんですか」
階段を下りる私に成海は投げかけた。
「お前は屋上が好きじゃないのか」
私がそう言い返して振り返ると、段差で私より高くなった成海はもう、無表情に見下ろしていた。答えはない。そのことになぜか腹が立たなかった。もう分かった。私がこいつに聞くことなんか、もう何もない。だから無言の成海に、返事だけを返した。
「ああ……私は、もういいよ」
屋上。……孤独、自由。そうだ。そんなことに、意味はもう無い。きっとこれが最後だと確信していた。今、屋上に行っても、給水塔に上っても、あの季節の間に見ていたものは、もう手に入らない気がした。だから私は笑った。
その時、眼下に続く階段が、どす黒くなった。永遠に続く螺旋のように。
ここを降りた先に、ある、自分を覆い込む、全部。
それを見た途端、私は身を翻していた。そうさせるのは恐怖なのかもしれない。それでもいい。
あれじゃない。行くべき場所は、あれなんかじゃ、絶対にない。行かなきゃいけない。最後に守れるものが、まだあるなら。
成海を無視して、汚い扉の取っ手を掴む。開いたそこから、ひどく強い風が吹いた。駆け出し、立ち止まる私の前には、死ぬほど見ていた、白い柵。変わらない、ヤニ臭い暴力の匂い。
背後で成海の気配がする。
「山井さ――」
「成海、私とやりたいって言ってくれて、嬉しかったよ」
私は前だけを見て、柵をよじ登った。両手を広げて、細いその上に立つ。後ろは空だ。ただ、空だ。ちっぽけな街はただ、遠い地上にあった。
「は、ははははは! ざまあみろ!」
怯えが口を突いて出ているのだろうか。だが確かな快楽があった。言葉は、勝手に溢れた。無意味なルール、頭の中をフラッシュしていく顔、石川、成海、無数の黒い顔。ああ可哀想だ、本当に可哀想だよ、お前ら、全員。
「お前らが! 変わっても! 私が! 変わらないでいてやるよ!」
そうだ。孤独が好きだった。本当に好きだった。それだけが自由になるための力だと信じて。
孤独に憧れていた。
身体が傾く。酔いが回るように、感覚が消えていく。駆け寄る成海の顔だけが、やけにはっきりと見えた。その目の中には、何もなかった。何の感情もなかった。落ちていく私の影の他には。
柵の前で、私を見たまま成海は動かない。動かなかった。
ああ、私が決めた。私が望んだんだ。私は、自由だ。
だけど、空が夢みたいに青い気がする。
最後にそう思った。
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