3 辻村茜

 それから俺は、夏目に付き合うようになった。

 あの騒ぎで、石川が停学になった。教室で、三週間だと言う噂を聞いた。この学校は、放置が当然だと思っていた。俺も夏目も、なぜか知らないが無処分だった。夏目に私刑を仕掛けた連中もだ。要するに、石川に全部押し付けたということだった。元々ろくに人の居ない教室。その真ん中に空いた石川の机。石川は負けた。三年の後ろ盾も消えた。だから石川についていた奴らも、石川が戻ってくる頃には消えているだろう。ただ、あの時夏目についた白い石灰は、まだ消えきれずに残っていた。

 俺は学校の中に居た。屋上には行きやすくなった。それから少し広くなった。

 俺は筋トレをして、夏目の背中を監視して、たまに誰かと喧嘩をする。

 夏目は、たまに誰かと喧嘩をして、それからずっと外の街を見ている。狭い街だ。海も見えない。俺は夏目と目線が合わない。最後の鐘が鳴ってから、日が暮れるまで。

 学校の門を出て少ししたところに、自販機があった。五月半ばの放課後、俺はそこにコーラを買いに行った。微妙な暑さでもうろくする頭で、なんかいつもより高えな、と思いながら、十円玉をジャラジャラして、ボタンを押した。その時、押した指の上に、ぐっと誰かの指が触れた。もうろくした心臓が一回震えた。がこんと間が抜けた音がした。横を向くと、そこに居たのはうちの生徒だった。一年の知らない奴だが、二階で何度かこの頭を見たことがあった。てっぺんが黒くて毛先が金色になっている、肩くらいまでのパーマの髪。それに、ピンクのレンズのグラサン。そのせいで表情が見えないが、口元はだらしない。

「触ってんじゃねえよ」

 俺は指を跳ね除けたが、完全に遅れたタイミングだった。

「ははっ、悪い悪い。お前もパシリか?」

 そいつは笑って、屈んで自販機に手を突っ込んだ。俺は迷わずそいつを蹴った。渾身の力を込めて。

「何堂々とパクってんだ。あとパシリじゃねえ」

 俺の蹴りでそいつは大げさに二、三回転がって、道路の真ん中でようやく止まった。だが頭を掻いて、すぐ立ち上がって脇腹を撫でながら戻ってくる。俺は自販機からコーラを取ろうとして、掻きまわしてみて無いことに気付いた。

 案の定、コーラはたらたら寄ってくるそいつの右手に下がっていた。

「痛ってえ! マジになんなや。冗談に決まってんだろうか」

「てめえの事情なんか知るか」

「あー、悪かった悪かった、すいませんね。俺は一の三の佐嶋萌々。お前、アレだろ? えー、っと、一組の辻村茜!」

「……そうだけど」

 なんで知ってる。夏目はともかく、そんな有名になった覚えはない。いいからコーラを返せ。

「ところで、成海ってのは居ないのか?」

 俺の不審をよそに、全く軽い、何も考えてないような口調で、佐嶋とかいう奴は、平然とそう続けた。

「なんでそこでそいつの名前が出てくる」

「え、あー。最近結構有名だろ、成海夏目。それにお前がいつも一緒に居るの見たことあるし。いや、俺は成海のことは知らねえけどさ」

 どうせ、俺が夏目に迎合してるとでも思われているんだろう。癪だが当然だった。言葉で否定する気はない。それはいつか……三年間のうちに、俺が夏目の上に立って示す、それだけだ。

「別に、別に俺はあいつ派でもねえし友達でもねえ。一緒にすんな。あと、そのコーラは俺のだ。出せ」

 そう言うと、佐嶋は笑い出した。腹を抱えている。ひゃははと汚い。震えながら突き出してきたコーラを掠め取った。中身は問題なさそうだったが、赤い缶はへこんで汚れている。

「へえっ、そうなのか。大丈夫だ。俺もパシリじゃねえから。……あ、売り切れになってるじゃねえか……金出すから、そのコーラ譲ってくんない」

 急に我に返ったように馬鹿笑いを止めて、自販機を見て、それからグラサン越しに俺を見て言った。石川ほどじゃないが、俺より結構背が高いから、居心地が悪い。厚い財布を取り出し始めたのを、俺は手で跳ね除けた。

「誰が譲るか」

「んじゃコーラはいいから、成海の居場所教えて」

「だから知らねえって言ってんだろ、馴れ馴れしいなてめえ。何がしたいんだよ」

「別にい」

 夏目に用があるのか。喧嘩か。同じ一年の石川が負けたばかりだ。だが考えているうちに、佐嶋は翻り、まあいーや、と言いながらあっさり立ち去ろうとする。

「あ、おい」

 向かう先は正門だ。学校に戻るらしい。まだ話は終わってない。ポケットにコーラを仕舞い、追いかけて肩を掴んだ。

「いやいーよ、言ってみただけだし」

「夏目に用があんだろ、ならついて来いよ」

「……マジで? ありがてえな」

 背中をバンバン叩かれた。

「佐嶋ちゃんっ」

 そこに、柱から人影が駆け寄ってきた。

「ちょっと佐嶋ちゃんさー、のんびりしすぎ……って、その子誰。てか誰」

 佐嶋に近づこうとして俺が目に入ったのか、僅かに硬直して立ち止まった。金髪のポニーテールに、今時見ないくらいのガングロ。それになぜか指定のダサいジャージを着ているのが、今一つ噛み合っていなかった。

 横に居る当の佐嶋は、全く能天気に返事をした。

「辻村だって、一組の。面白い奴だぜ。なっ、辻村」

「勝手に話進めんな」

 あと、俺の方を見るな。

「あそーですか。辻ちゃんね。あたしは三田だよ。三田のどか。四組。佐嶋ちゃんの知り合いだから」

 意外と低い声は大分早口だ。近寄ることもなく、引きつった笑顔で手を振ってくる。

「辻村も、成海の知り合いらしくてさ。で、会わせてくれるらしいぜ!」

 多分笑っているんだろう佐嶋に視線をやった三田は、口を真一文字にして、それから溜息をついた。

「あんた、本気だったんだ……ってか結局何も買ってきてないじゃん馬鹿! あたしが買ってくるから、後で利子つけて返して」

 急に佐嶋にびっと指を指してから、わざわざ俺と佐嶋の間を抜けて三田は走り去っていった。抜ける時だけ瞬間移動みたいに妙に早かった。

「悪い、なんか今日の三田イラついてるけど、いつもはもっと気楽な奴だから気にすんなよ」

 佐嶋が気を使ったように言うが、今名前聞いただけの知りもしない奴の機嫌なんて元々興味無い。そもそもてめえも十分お気楽だし、そもそもてめえはうぜえ。

 俺は黙って玄関まで歩いた。中に入り、靴を脱ぐ。そう言えば上履きのままだった。底を床に擦り付けてから、履き直した。次に入ってきた佐嶋がふーと息をつく。

 背後でバアンと扉が開いた。

「がっ」

 扉が当たったのか、振り向くと佐嶋がよろけていた。荒い息をしながら三田が立っていた。恨みがましい目つきで、胸にペットボトルを抱えている。冷たそうだ。佐嶋が指で数えている。

「あれ、いちにー、四本も買ってきたのかよ」

「後で五百円出せ……はい」

 そう言いながら一本を俺に押し付けてきた。オレンジジュースだった。俺が取ると、次に佐嶋に渡した。それからもう一本を乱暴に開けて飲んだ。あと一本残っている。

 まさか、夏目のとか言うんじゃねえだろうな、気持ち悪い。ただ、俺がコーラを持っていたことは言わないでおいてやる。佐嶋もサンキューと言ったきり何も言わない。そっちはまあ忘れているだけだろう。

 夏目はまだ屋上に居るだろう。むしろ俺を上から見ていてもおかしくない。考えすぎだ、と思い直して俺は足早に屋上を目指した。階段の後ろに居る佐嶋と三田からは、へーと珍しがるような声が聞こえた。

 扉を開けて出ると、やっぱり夏目の背中が見えた。柵に腰を下ろしている。小さく真っ黒な影。夕焼けで真っ黒なその背中を見ると、いつも、蹴り飛ばしたくなる。落ちろってな!

「夏目」

 衝動を抑えるように息を吸い込んでから、俺は呼んだ。夏目は鉄棒の後転みたいに回って着地し、俺達に向き直った。

「どうしたの」

 夏目は駆け寄ってくる。

「こいつらがてめえに用あると言って」

「成海夏目さんだよな! 俺は佐嶋萌々ってんだけど、ちなみに向こうは三田のどかってんだけど、それで用ってのは」

 佐嶋は俺が言い切る前に駆け寄っていた。夏目の足が止まった。一瞬凍り付いたように見えた夏目の顔は、それなりに高さがある佐嶋に遮られて、よく見えなくなった。佐嶋は夏目の両手を握りしめながら、まくし立てる。

 夏目は何も言わずに、そんな佐嶋を見ていた。俺の思った通り、何もしなかった。前の石川の時と同じだ。あーあ、と呟きながら三田が俺の横に立つ。違うのは、こいつらに敵意を感じねえことだった。

「……そういう訳で、この通り! お友達になりませんか! お願いします」

 佐嶋はぱんっと手を叩いて黙った。あ、話を聞いていなかった。友達、ね。俺は位置を変えて夏目を覗く。

「うん、じゃあやろうか」

 いつもと変わらないガキみたいな声でそれだけ言った。それから、いかにも喧嘩を始めるという風に構えた。夏目は単にやりたいだけなんだろう。それはともかく、敵意が見えなくても、どんな裏があるかも分からねえ。それなら、下手な邪魔をされる前に折っておけばいい。

「うー、やっぱ、そうなるよねえ。あたしはパスで! 佐嶋ちゃんの方が強いし」

 三田が即座に口を挟んだ。佐嶋の方は、なぜか腰が引けている。

「三田こら、無茶振りすんなって」

「やれよ」

 無性に言いたくなったから、俺も言った。観念したのか、佐嶋はピンクのグラサンを外して、それから左の腕を出す。気持ち悪い言い方だが、細い目の中には、確かに綺麗な光が揺らいでいた。佐嶋は手を伸ばしたまま、真っ直ぐに夏目を見ながら、口を開いた。

「えーと……腕相撲にしませんか」

「いいよ。やろう」

「いいの?」

 あっさり夏目は認めた。拍子抜けする。夏目が右手を出して、佐嶋の手を握る。

「空中でやるんだ」

 三田が呆れたように言った。俺は夏目の横顔を見る。いつも見た笑い顔で、そうだ、あの、どうしようもない顔に似ていた。血みたいな赤い空のせいだ。固めた拳が疼くのは。もう片方の掌でそれを隠した。

 夏目が勝った。俺からしたら、当然のように。

「二分二十秒」

 時計のタイマーか何かを手にして三田が言った。夏目は自分の右手を見ている。佐嶋は腕を押さえて痛がっているが、身体はしっかり立っていた。

「降参しました! あんた腕強いな」

 うん大丈夫、そうでもないよと、夏目は下を向いたまま、嚙み合わない返事をした。

「やっぱりあれは、無理か」

 佐嶋は不安げに薄笑いを浮かべた。

「ううん。そうじゃないんだ……萌々と、のどか、だね。茜の友達なの?」

「ただ絡まれただけだ」

 顔を上げた夏目の言葉を、俺は真っ先に否定した。

「おい辻村、成海は俺に聞いてきたんだろ。俺は一度話した奴はみんな友達だと思ってるよ」

「やめなよ、嘘つき。辻ちゃんにだって迷惑じゃん。……あのさ、これあげる、から」

 佐嶋の口出しに割って入った三田は、赤ジャージのポケットから出した例の缶を、夏目に差し出した。無言になった夏目は、黙ったままそれに手を伸ばした。そして飲んだ。空になるまで。佐嶋まで缶を手にぶら下げて、何か無言になっていた。

「……なあ夏目、なんで、あんな茶番で」

 俺の質問に夏目は答えなかった。柵の向こうの狭い街に背を向けて、夏目は真っ直ぐに何かを見ている。表情は分からない。夏目の手の中で、スチール缶が潰れる音がした。そして真っ直ぐに見続けたまま、言う。

「萌々も、のどかも、茜も、やりたいことをやればいい。僕は、僕のやりたいことをやる」

 

 それから、俺達は四人で居るようになった。

 すぐ近くで蹲っている退屈が、こっちを見ていたからなのか。

『俺達、また屋上に顔出すから。別に構わねえよな』

 あの日、俺にそう言い捨てていった言葉を、残念ながら佐嶋は守り続けていた。三田も同じだ。なんで成海や俺とつるんでまで佐嶋に付きまとってるのか聞いたところで、佐嶋ちゃんの友達だから、としか答えない。俺にはそんな立派なものには見えなかった。石川の手下とそう変わらねえように見えた。そういう俺自身も、あいつらを追い払ったりはしなかった。

 結局、降りかかる火を払い続けて、火を点けに行って、また何もない空気を吸うだけの繰り返し。気付いた時には、一年に夏目の敵は居なくなっていた。二年の頭も潰した。街の向こうで、校舎の狭い空の下で。屋上という檻の中で俺達は一番、近くに居た。

 そんなことは関係ないように、夏目は飛ぶ。無敵の刃で飛ぶ。触れられないような純粋さで、俺達自身の、希望を壊して。


 あれから無意味に過ぎた、十一月の終わりかけ。俺達はまだ一年で、それも終わりが見えていた。

 雨上がりのその日もまた、いつも通り、屋上で昼飯を食っていた。

 柵にもたれかかって立っている佐嶋は、焼きそばパンを食っている。胡坐をかいて地べたに座る三田は、一切れの卵焼きと米と梅干しの入った弁当箱を広げている。体育座りの俺は、アルミホイルを剥がして、不味い飯を食っている。柵に胸と腕を預ける夏目は、アイスを齧っていた。

 眼下の街に背を向ける俺達の中で、夏目だけは外を見ていた。結局、佐嶋の、三田の、成海の、俺の、やりたいことが何なのかなんて知らない。

「最近喧嘩売ってくる奴増えてねえか?」

 無言の中で佐嶋が振る。

「人気あるってことじゃん。成ちゃんの」

 三田がすぐさま返す。

「そもそも増えてねえし、気のせいだ」

 俺は指摘する。

「僕は楽しかったよ」

 夏目が呟く。

 柵の外を見る夏目はいつも一人だった。同じコンクリートの上に立っていても。そうしている夏目を見ると、初めっから、俺達は四人なんかじゃなく、一人が四つあるだけだということを思い出す。広がる住宅街といつだって大差ない空のくせに、いつまでたっても夏目は見続ける。本当は何も見ていないんじゃないかと思うほど。

「佐嶋ちゃんさ、黒髪で天パのくりっとした感じの子、三組にいるっけ」

「ん、いたような気がするけど。あ、そうだ、倉本だ。それがどうかしたか」

「あ、そうその人。まあ別にどうってこともないけど」

「そういや最近全然話してねえな」

 佐嶋と三田は口に物を入れたまま、間の抜けた調子で二人で何か喋っていた。

 それを横目に見て溜息をついた時、服の上に、横から何かが落ちてきた。例の木の棒だった。汚い。絶対にベタベタしている。米についたらどうしてくれる気だ、夏目。

「ハズレだったよ」

 見下ろして夏目が言う。

「おーなんだ、アイスかー。ちょっと貸せよ」

 佐嶋がさっと奪って見る。

「確かにハズレだな。だったら、こうしよう」

「くじ? まだそんなの気にしてんの佐嶋ちゃん」

 三田の口出しをよそに、佐嶋は鞄の中を探し始めた。取り出したのは油性ペンだった。何に使うかはすぐ予想できた。俺も考えたことがあったから。

「うわ滲んで上手く書けねえ」

 当たり前だ。だが取りあえず書き切ったらしい。

「やるなら洗って乾かしてからやればよかったじゃん。どうせ意味ないだろうけど」

「とにかく、これでアタリだぜ、成海」

 そう言いつつ、佐嶋がそれを返してきたのは夏目じゃなく、俺の方だった。

 アタリ、か。読めねえよ。せいぜい、アマリだ。

 それをつまんで、背後に投げた。地上に落ちるだろう。よいしょっと言って、横で夏目が降りてくる。俺はふと振り返った。見下ろしてもちゃちで眩しい街。今、ここには俺達しか居ない。

 その時だった。

「僕は今、山井さんとやりたい」

 夏目が、はっきり、そう言った。

「えっ」

「はっ」

 ほとんど同時に、佐嶋と三田が声を上げる。仲が良いな。

「山井って、あの山井先輩か? 三年の?」

「うん。山井シズクさん」

 念を押すように夏目は頷いた。三田はわざとらしく息を吐き、佐嶋は慌てていた。石川がかつて従っていた三年。あいつは三年の頭だった。今こそ何故か解散したらしいが、三年と二年のほとんどを纏めていたと聞く。

「いや……いくらお前でも、あの人は相当強いって聞くぞ」

「いいんじゃねえの?」

 俺は言う。夏目の顔を見る気がしなくて顔を背けたまま。どのみち別に俺が何を言おうが、夏目はやるだけだ。

「ちょっと辻ちゃん」

「分かった」

 三田を遮って夏目の声がした。笑っているのが想像ついた。

「まっ、そだな! これくらいでビビるとかねえし。俺らの分も残しとけよ!」

 佐嶋は相変わらず調子がいい。

「じゃああんたがやりなよっ」

 三田も笑っていた。片付け始めた弁当箱の蓋には、みたのどか、という油性の文字が、辛うじて見える。視線を移した先の灰色の壁に、俺は思い出したことがあって、俺は夏目に目を遣った。

「夏目お前さ、あの件の前に山井に会ったことが――」

 言いかけて止まる。夏目の視線は上にあった。真っ直ぐに。

 給水塔。

 刹那、黒く長い影がその上を過ぎったように見えた。そしてふっと消えた。

 人だ。人が落ちてくる。

 片目の鋭い眼光が俺達を突き刺した、一瞬。

 コンクリートに足裏と、鉄パイプのぶつかる重い音。駆け出した夏目を、降り立った足が蹴飛ばした。小さい身体が転がって、向こうの柵まで飛ばされる。

「んなっ!」

 誰かが叫ぶ間に、影のようなそいつは既に夏目の目の前に居た。身長以上もあるほどの、鉄パイプを肩に突き付けて。

 俺達は追いかけた。大きな背中。当然のように山井だった。

「山井、さん」

 柵に押し付けられながら夏目が口を開いた。それに続く、声のない言葉は――。鈍色の鉄パイプが更に食い込む。それを握る山井は、全く動かずに見下ろしていた。黒い長髪、黒い特攻服、高い背丈。真っ黒で感情が見えない目、黒い煙の幻影。

「まじかよ」

 佐嶋が漏らす。三田は息を飲む。

 夏目はただ、見据えている。山井が首を鳴らした。

「丁度退屈しかけてたし、まあ、いいかと思ってよ……」

 俺達を一瞥する。

「その喧嘩買ってやるよ。全員まとめてぶっ潰すから安心しろ」

 その言葉に、目を伏せた夏目の口元が笑った。それを見た途端俺はほとんど反射的に山井の後ろに回っていた。手を伸ばす。両腕で首を締めようとして。

「っ……」

 腕は届いた。だが絞められても山井は微動だにしない。かからなかったか手ごたえがないわけじゃないけど思ったより軽い――痛い。

 瞬きした時には、身体が崩れ落ちていた。

「馬鹿、お前じゃタッパが足りねえだろうが!」

 佐嶋の声。はっとして手を見る。体勢を崩されたのは山井の左の肘。それだけじゃない。俺の右手の甲には血が滲んでいた。もう一方の手で手を覆う。大丈夫かと三田が近づく。寄るな。抉れた痛み。いつ付けられた。顔を上げる。夏目は大きく踏み込んだ。食い込んでいた鉄パイプからくぐり抜けられたのか。次に山井がパイプを振り下ろした。そうだ、あの鉄パイプの持ち手で俺は手を潰されたんだ。速かった。その先端で、夏目の胸が突かれる。 

 夏目は転ぶ。呼吸がうまくない。鉄の棒が落ちる音。山井が屈みながら腕を突き出す。夏目は避けた。ギリギリだったがそれからすぐに、山井の頬に拳を食らわせた。

 山井が僅かにふらついた、そう思った時夏目の頭が地面に叩きつけられていた。六回くらいだ。それから夏目の頭を持ち上げて膝で顎を蹴った。夏目は柵に頭を預けて動かなくなった。前髪で顔がよく見えない。

 こんな簡単にやられるかよ。こんなもんじゃねえはずだろうが。 

 だが俺も動けなかった。打ちどころが悪かったか。みっともなくコンクリートに這いつくばっていた。山井は伸びた夏目に背を向けた。一瞬空のほうを見た。

「痛ってえな」

 真っ直ぐ伸びた姿勢。低く掠れた呟きの後に、微かな舌打ちが聞こえた。

 横で、佐嶋と三田が立ち上がった。戦う気だ。山井はそれに向き直った。

「お前らは、見てるだけか」

 鼻で笑い返す佐嶋は、震えが隠せていなかった。

「へへっ、上等っすよ、先輩」

「お前らから来ていいぞ」

 山井の表情は変わらない。ただ、つまらなそうにしていた。

 あいつの喧嘩に加わる理由なんてなかった。それなのになんで今日に限って夏目より先に手を出した。挙句一個もいいところなんてなかったんだ。手が痺れてる。ぬるぬるする。いつもの臭いが気持ち悪いと思った。なんで。熱くなっちまったのか。やりてえ、潰してえって思ったのか、俺が。そんな勘違い、とっくに止めたんだろうが。山井は俺より全然強かった。夏目だけがおかしいんだ。

 その時、あの消火器の日のことが頭を過ぎった。石川の顔だった。歪んだ顔。憎しみと、少しの絶望の顔。

 ……違う。俺は勝つんだ。

「山井、よぉ……」 

 俺は呼びかけた。山井にも聞こえたはずだ。俺は起き上がろうとした。一瞬痛みが走るが、大丈夫だ。立てる。さっきのは幻聴だ。弱い、俺の。だが今は、立たない。

「あんたは警戒してる」

 三田が真面目に睨みつけながら木刀を構える。佐嶋も構えながらいつものようにグラサンの奥で冷や汗をかいている。それでもあいつらが喧嘩する時の興奮した空気だった。

 俺は確信していた。

「夏目に不意を衝かれないか」

 山井のハズレだ。どこを警戒しようが、夏目には関係ねえ。

「……山井さんの真似、しますっ」

 ガキっぽい声。佐嶋達の間を、夏目が走り抜ける。鉄パイプを握って。俺は脱ぎ捨てておいた右足の靴を左手で投げつけた。下手糞な方向に靴が飛んだ。山井は動かない。夏目を見ている。夏目は屈み込んで拳を構える。その腕を振りかぶって、山井の腹を抉ろうとする夏目の拳を、山井の右手が阻んだ。

 夏目の手に、持っていたはずの鉄パイプは無い。馬鹿なのは、何するか分かんねえのは、夏目の方だ。

 山井の頭上から降ってきた鉄パイプが、山井の頭をぶっ叩いた。

 走り出した直後に夏目は鉄パイプを振り捨てていた。ただ、上へ。

 山井は刹那、何か考えるような表情を浮かべてから、転げ落ちた鉄パイプの上に、崩れ落ちるようにふわっと倒れた。そして動かなくなった。山井の後頭部を見下ろしてから、夏目は地面に腰を下ろした。息を吐いて、切れそうな声で呟いた。

「山井さん、得物、捨ててくれてよかったです」

 山井は答えない。眠ったように目を閉じていた。気絶したのか。それから夏目は、顔を上げて俺達を見た。頭の方からだらだらと流れる血で汚れた顔だった。

「ううっ、あたし達、弱いなあ」

 疲れ果てたように三田が言った。実際、俺達はほとんど何もしなかった。あー、と返事に困ったように佐嶋が呻る。

「けど成海、今日からお前が最強だな!」

 そして佐嶋は向き直って笑った。

「ありがとう、萌々、のどか。……茜」

 だが夏目はそう言って、あっさり血だらけの頭を下げた。全くいつもの、夏目の調子だった。

「いや、そういうのはいいから。……けど」

 佐嶋が言いかけた時、唐突に風が吹いて、屋上にあった熱気を持って行った。床に転がった山井と、体育座りになった夏目と、突っ立っていた三田と、文句ありげに首を傾げる佐嶋と、やっと片っ方裸足で立ち上がった俺がいた。

「あーあ、倒しちまったのか……」

 何もしていない俺には関係のないことだが、ここまで来させたのは、あまりにも単純で簡単な道で、それは夏目だからだと確信していた。そして夏目は辿り着いたこの場所に、きっと何も感じていないんだろうと思った。

 俺はふと、給水塔を見上げた。そこにはもう誰も居ない。あの上に立つ成海を想像して、似合わねえと思った。そして成海を倒した後、そこに立つ俺を想像した。馬鹿馬鹿しくなって、まだ痺れの取れない手で自分の額を殴った。


 冬が来た。雪は無いが、凍った空気と風が、俺を校舎に押しこめようとする。だがそれでも大体は、教室より少しはましと言えるような、白い柵の、屋上に出た。檻みたいだと思った。山井に勝ってから、ほとんど何も起こらなかった。冷たくなって葉の色が変わって落ちて腐って光が増えていつの間にか消えて暗くなって冷たくなって。

 日常だった。殴り合うのも駄弁るのも身体を鍛えるのも夏目がアイスを食べるのも街を見てるのもそれを俺が離れて見てるのも。

 人を殺す夢を何度も見ていた。夏目だったり、佐嶋や石川だったり、全然関係ない奴だったり、山井だったりもする。殺し方は決まっていた。俺は引き金を引く。散弾銃で顔面を吹っ飛ばして、真っ白な地面に、背中から倒れるのを見ている。

 別に殺したい訳じゃない。ただ俺に何か、もっと確かな刃があれば。もっと確実な生を確かめられるのか。

 そんな風に。俺はずっと、見ていた。

 

 便所で三田に出くわした。開いた小窓に寄せた、いつも通りのジャージの後ろ姿は、冷たそうな棘を放っていた。授業の途中だからか、俺と三田以外には誰も居ないようだった。三田の色の落ちかけた金髪は濡れていた。ジャージも全体が水を吸ったように黒ずんでいた。

 入ってきた俺に気付いたのか、三田は振り向いた。

「あれ、辻ちゃんじゃん」

 嫌そうな薄ら笑いを浮かべている。俺は答えずに小窓まで向かった。三田を半分押しのけるようにして風を浴びる。ここは臭えからな。三田には目を向けずに、外を眺めて息を吐いた。だが隣に居る三田は余計に湿っぽくて、埃臭かった。ここから動く気もないらしい。俺は煙草を一本取りだして銜えた。ライターで火を点けた。

「何か言われるのを待ってるような奴には、俺は何も喋る気はねえ」

 煙を吐いて、俺はそう呟いた。それに三田が震えたのが分かった。

「……いや、喋ってんじゃん」

 だがすぐに返事が飛んできた。思ったより落ち着いているようだった。

「あたし、あの人達に何かした覚えないんだけどなあ! 今日は替えのジャージも持ってきてないし」

 三田はそう言って、はーあ、と大きな溜息をついた。そのジャージへの拘りは何なんだ。肌色も髪にも、三田は気を遣っているように見えたが、服装はいつも適当だった。

「あの人達って何だ」

「別に、辻ちゃんとかには関係ないんだけどさ。単に同じクラスの人ってだけだから」

 三田は四組だったか。知ってる奴は、ほとんどいねえな。

「にしても低レベルすぎるだろ、天井の隙間からバケツで水かけてくるとか。しかも雑巾の絞り汁とか。洗濯で取れんの、この臭い。弁償してよね」

 急に三田の口から湧いて出る悪態に、俺は思わず身を引いた。予想はついていたが、分かった、もう寄るな。臭いが移る。

「……いくら辻ちゃんでも、傷つくよ」

 三田が呆れ顔を向けた。よく見たらベタベタしていた。

「そりゃそうだろ」

「血は全然平気なくせにさ。煙草、一本貸して」

「……意外だな」

 俺は煙草の一本を寄越した。手も臭そうだから、指で挟んだ先端に俺が点火してやった。

「佐嶋ちゃんは健康志向だから吸わないけどね。あ、これは佐嶋ちゃんに言うなよ」

 そう言いながら口に銜えた瞬間、三田はむせた。窓の外に煙草が転げ落ちるのを他所に、何度か咳を繰り返す。結局吸えてねえじゃねえか。煙草一本、無駄にしてしまった。

「もう、馬鹿みたいだなっ。教室戻ろ」

 口を拭った三田は窓から離れて、踵を返した。

「それ、よくあることなのか」

「無いよ。この学校来てからは無かった。あ、このことも佐嶋ちゃんには黙ってて。辻ちゃんは言わないとは思うけどさ」

「心当たりは」

「だから無いって。違う組の知らない人も居るし」

「やり返すのか」

「どうしますかねえ。成ちゃんとか辻ちゃんとかと違って、荒っぽい真似は苦手だし。……でも、あんた達に迷惑はかけないつもりだから」

 俺は煙草を捨てて、窓に背を預けた。向き直った三田は欠伸をしてから、身体を伸ばした。前から思っちゃいたが、他の連中に負けないくらい、当たりの強い奴だ。誰だ、こいつが気楽だとか言ったのは。

「だったら何でここに来たんだよ、てめえは」

「そんなの、勉強できなかったからに決まってんじゃん」

 そう答えて三田は今度こそ出て行った。

 その後、三田がどうしたかは知らない。ただ数日経って、俺は何となく、佐嶋の居る三組を見に行った。始業前の朝で、人は少なかったが、佐嶋は居た。前の隅の方で、頬杖をついていた。

「早いんだな」

「おうー、やっぱ早寝早起きが基本ってもんよぉ」

 俺がその背後に立つと、佐嶋は身体を起こして椅子の背もたれに背中を預けた。緩やかな髪の毛が揺れた。言葉の割に声は間延びして、欠伸を一つかいていた。サングラスはずり落ちそうになっていた。その間抜けな口に指を突っ込みたくなる。汚いからやらないけど。机の上には、白い駒のようなものが並べられていた。山積みになって、ある程度の規則があるように見える。机の中から覗く、小型のラジオ。

「あ、これゲームな。同じ柄のを端から抜いてくんだよ。辻村やる?」

「やらねえけど」

「成海は? むしろあいつ、ちゃんと授業とか受けてんの」

 また夏目の話か。

「少なくともてめえに気にされる筋合いはねえよ」

 俺の知っている限りでは、夏目はずっと学校に居て、さぼっていたような覚えは無かった。そういう学校らしいものが、案外夏目は好きなように見えた。

 佐嶋は駒を指で摘みながら笑った。

「ふーん。言っとくけど俺は一応それなりに真面目だよ、一応な。で、用って?」

 俺は言いよどんだ。別に用があって来た訳じゃ無かった。佐嶋が不審気に俺を見る。

「……辻村、窓の外見てみろよ」

 言われた通りに俺は近くの窓を開けた。立ち上がった佐嶋が縁に飛びついた。下を眺めると、土ばかりのグラウンドに一人の人影があった。二階だから良く分かる。

「三田が走ってるだろ」

 確かに三田だった。結んだ金髪に、ガングロ。下はいつものジャージ、上はTシャツ。薄くて細い影が、規則正しく動いていた。

「あいつ、時々ああやって走ってんだよ。何でか知らねえけどな。けど、あれじゃダメだな。前屈みすぎだ。もっと背筋伸ばさねえと、もたねえ」

 佐嶋は横でぼやいていた。どうしてそれを今、俺に言うんだ。

「要はもっと、上手いやり方があるってことよ」 

 先々を考えればな、という言葉の後に、溜息が聞こえた。こいつは数日前の三田の件を知っているのか知らねえのか。三田はこんな奴をなぜか馬鹿正直に友達だと思っているらしいが、佐嶋の方はそれを利用しているだけか。

「まあ、そこが何か、放っておけねえんだなあ」

 俺は黙っていた。

 下で立ち止まった三田が、水飲み場の方に歩いて行く。それを目で追った時だった。水道の近くの、体育館の出口から、ぞろぞろと人が出てきた。そいつらが、あっという間に三田を取り囲む。水をかけたって奴らだけではなさそうだった。それなら、何かの報復か。

「おい、何だあれ」

 指をさして言うや否や、佐嶋は上着を抱えて出ていこうとした。俺は呼び止めた。

「佐嶋、別に気にするほどじゃねえと思うぜ」

「は? お前、何か知ってんのか」

「さあ。けど、てめえには関わってほしくなさそうだったよ、あいつ」

 そう、むかつきも込めて嘲笑ってやった。

「……心当たりが無えわけじゃないんだけどな」

 佐嶋はぼそっと呟いて、教室の後ろの方に目をやった。それからすぐに顔を背けて机に手をつき、口を開いた。佐嶋が目線を向けた席のあたりには、数人が固まっていた。その中心にいた天パの生徒と一瞬目が合った。妙に媚びたような、しかも不満げな目だった。

「それなら、成海はどこだ。成海を呼んでくる」

「利用しようとしてんじゃねえよ。まあ、夏目は別に気にしねえだろうけど」

 それに、佐嶋は唾を飲み込むようにしてから、背を向けた。そして上着を羽織る。

「……三田がどう思ってようが、俺は助ける。三田は、ダチだから」

「そう思ってるのはてめえだけだろ」

 勝手な時だけ。こいつは良い顔をする。誰に対しても。

「てめえは、信用できねえ」

 そう心の底から出た俺の声は、冷え切っていた。それに佐嶋が一瞬だけ寄越した視線は、俺を睨みつけていた。

「俺のことが信用できなくても、辻村、お前には関係ないんだろ! ならそれで良いじゃねえか!」

 半ギレのように言い残して、佐嶋は走って教室を出て行った。

 俺は窓の方に向き直って、三田を探した。探し当てた光景に少し目を見張った。三田の周りには、何人かが倒れていた。三田は細長い棒、たぶん木刀を両手に構えて、肩で息をしていた。水道を背後に、しっかりと立っている。そこには遠目でも分かるくらいに、微かな殺気があった。三田を囲んでいた連中で残っていた数人は、僅かに遠巻きになっていた。

 俺は脈を感じる胸を押さえつけた。いつもの何気なく喧嘩に混じっていた時の三田とは、明らかに違った。

 やるんだな、三田。

 そうだ、戦え。力で、証明しろ。言いたいことがあるなら、ただお前自身が、ぶっ壊して示しやがれ。

 だがそこに、さらに五、六人ほどが入ってきた。三田の、後がないような叫び声が耳に届いた。多分二年も混じってるんだろう、どっかの一年に泣きつかれたのかは知らないが、本当に、どこでそんな敵を作ってるんだ。バケツの時は、三田を起点に俺達を潰す気かと考えないでもなかったが、今更それは無いと思った。これは本当に、三田の問題なんだろう。ただ分かるのは、三田が同類の馬鹿で、不器用だということだった。

 木刀を握り締めて、叫びながら三田は駆け抜けた。足を挫かれたのか、その身体がぐらついた。その隙に、背の高い奴がバットを振りかざす。

 その時鈍い音がして、そいつは尻餅をついていた三田の目の前で倒れた。地面に転がったのは、小さなボール。体育館の中から、飛んできたのか。

 その後に出てきたのは、黒と金の頭。佐嶋だった。後ろ手に、大きな籠を引っ張っていた。その籠の中には大量のボールが入っている。黄ばんで汚れた、テニスボールだった。

 全く、馬鹿だ。

 教室の時計を見やると、鐘が鳴る数分前だった。俺は窓を閉めて、軽く佐嶋の机の脚を蹴った。幾つか白い駒が床に落ちたが、知ったことか。さっきの後ろの席の方から妙な視線を感じる気がしたが、無視して教室を出た。

 一組に戻ると、ど真ん中に座った石川が、机に立てた雑誌の影でナイフを研いでいた。俺は自分の机に適当な落書きをしてから寝た。風が流れ込んでいた。

 後から聞いた話じゃ、グラウンドの連中は、あの後佐嶋と三田で全員片付けたらしい。雑巾の絞り汁をかけた連中とはもう関わってないよと、ある日の屋上で三田は笑った。佐嶋はちょくちょく、全球ストライクでやってやっただ何だとその時の武勇伝を漏らしては、三田に突っ込まれていた。俺は単に無視した。夏目も、何も言わなかった。


 夏目は最強だ。あいつの持っている刃はただ、暴力だ。それだけが、最強に見えた。

 俺はいつだって、あいつの背中ばかり見ていた。

 最強だということ。成海夏目だということ。佐嶋と三田の間くらいの背丈で、俺と同学年で、一年二組だってこと。それから――ぼさぼさに下げた黒髪と、ださいセーラー服が、あいつにはいつだって、馬鹿みたいに似合っていたこと。夏目のことで分かっていたのは、それくらいだった。


 春がまた来る前に、ここに居た奴らの一部は消えて、どこかに行く。冬は終わろうとしていた。

 ただ屋上に、夏目が居た。

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