2 辻村茜

 俺達が通っていた学校はいわゆる不良高校だった。それなりに古くて、伝統もあったらしいが、今じゃ見る影もない。女子校なことぐらいは、昔から変わっていないらしいが。煙草、恐喝、掏摸。実際ここに居るのは、他人に褒められるようなことなんて何一つ持ってないし、そんなことどうだっていいような奴らばっかりだ。

 まだ春だってのに、汚い落書きだらけの廊下を、俺は歩いていく。ひびが入った窓にふと目をやると、薄く小さい何かが、何枚か、ガラスの外で真っ直ぐに落ちていった。花びらだった。俺は呆れて、溜息をついた。花びらは、次から次へと落ちてくる。真っ逆さまに。上の連中が、また暇な遊びしてやがる。こういうのはどこに行っても変わらねえ。もっと面白いことをやってみろよ、なんて思いながら角を曲がって、三階への階段に足を掛けた。

 この階段を辿っていけば、最後には屋上に続く扉がある。この学校は屋上が開放されていた。学校も俺達を放置してる、そういう証明。自分で選んだとはいえ、全部が茶番そのものみたいなここの空気の中で、それだけは悪くないことだった。ここに来て一週間。大分遅れた話だろうが、俺も屋上は見てみたかった。今までそうしなかったのは、周りの奴らを観察し、見極めていたからだ。

 俺は真っ直ぐ階段を上がり、最上階の四階に着く。四階には三年の教室があるから、つまり実質三年の場所で、俺みたいな入ったばかりの一年はもちろん、二年ですら許可がなきゃ立ち入れないと聞く。まあ、俺は立ち入るけど。屋上への階段は、今上がってきた階段の向かいにある。視力の良い俺でも、廊下は暗くて見づらい。光が入ってこなかった。これくらいならまあ、運が悪くない限り三年に見つかりはしないだろう。

 そこまで考えた自分に気付いて、嫌になる。結局のところ、俺も三年を恐れているのか。他の連中みたいに。序列だの立場だの、こんなくだらねえ縛りが嫌で、この学校に来たはずだってのに。

 振り払うように、向かいの階段へと駆け抜けた。好きなだけ、足音を立てるように。

 一歩ずつ、階段を踏む。狭くて暗い。ほんの数段で、扉が見えた。閉じている。施錠してあるかどうかの判別はつかない。だが、少なくとも立ち入り禁止のテープなんかは無かった。

 扉には、無数の落書きが書かれていた。今まで見たものとは比べ物にならない数だった。元は灰色か緑の扉だったかもしれないが、真っ黒だった。何の言葉が書かれているかなんて、読めやしない。その時、俺は階段の途中で立ち止まっていた。怖気付いた訳じゃない、訳じゃないが――少し、考えて目を伏せた。

 目の前の扉が、キーンと鳴った。反射的に構える。足元に白が広がって、扉がゆっくり開く。俺は睨みながら、顔を上げた。ひどく眩しい。それを、人影が遮った。重い足音。俺はより深く構えた。屋上から出てきた、もう誰か来ていたのか。そのことは考えていなかった、まだ八時前だ。一年か二年か、三年か。とにかく出くわした以上、退く気はない。俺は見上げて、顔を確かめようとした。顔つきはよく見えない。だが、そいつの口が僅かに動いたと思った、その瞬間だった。

「……また一年か」

 そいつは俺と擦れ違った。真横で囁くような低い掠れ声を追って振り向いた時には、その人影はもう階段を下りきっていた。大きな背中、白光と反対の真っ黒い長髪が、ふわっと視界から消える。俺のことなんか、全く見ていなかった。

「ちっ」

 無性に苛立って舌打ちした。階段の残りの段を上り切って、また閉じかけた扉の縁を掴む。鍵はかかっていない。それを壁にぶつかるくらいに開け放って、踏み出した。

 そして、外――屋上へ出た。

 柵。白い柵。それが、真っ先に視界に入った。

 次に目に入ったのは、誰かの後ろ姿だった。その胸元で、白い柵を両手が握りしめていた。

 柵の隙間を貫くような、遠くまで伸びる街の建物の群れ。何かが、ばさっと、鳴る。燃えかすみたいな風が、吹いた。

 薄青の空と。下げ髪とセーラーとスカートの、黒が揺れる。八メートルくらいの、距離。そしてあいつは振り向く。

 それが、俺が初めて見た時の夏目だった。


 そいつは、俺を見て、それから笑った。その細めた目に、一瞬、なぜか動けなくなる。そしてそいつはすうっと息を吸い込んで、口を開いた。

「綺麗だね」

 発せられた、ガキみたいな声で我に返った。一度瞬きをした後には、目の前に居るのが、ただの地味な奴に見えた。得物を持っている様子もない。リボンの白色が、そいつが俺と同じ一年だということを示していた。拍子抜けして、息を吐く。

「……何が!」

 俺はそう応じた。急に、こんな脈絡の無いことを叫ぶ奴だ。俺の相手じゃないだろう。打算的に見たとしても、仲良くしておく必要なんてない。それでも、反応せざるを得なかった。苛々するから。俺より先にこの場所を取っていた一年を目の当たりにして、それにさっき出て行った奴に見下ろされて。そういえばあいつ、何で居なくなったんだ。とにかく、まずはこいつが誰かを確かめてから。

 目の前の奴は、柵に背を預けて薄笑いを浮かべたまま、少しも表情を変えない。こっちに来いと言われてるみたいで、気に食わない。入口前で突っ立ってるのもだせえし、そんなんじゃここまで来た意味もない。俺は柵の方へ歩いていった。

 俺が近くまで来ると、奴はもう一度後ろを向いて、手すりを握った。そして、柵の外の真下を覗き込むようにしながら言った。

「まっさかさまな色だから、好きなんだ」

 俺は僅かに下を見た。覗き込むまでもなく、玄関前は桜の花が満開だった。

「ああ、まあ」

 一応返事はした。思った通り、仲良くなれそうもない。花なんかどうだっていいだろうが。勘違いもいいとこだ。第一、人に話しかけたいなら最初から分かるように言え。

「僕は夏目。よろしく」

 奴はそう言った後で、身体を起こして俺を見た。その名前は、学校内ではまだ聞いたことのない響きだった。

 奴の方が僅かに背が高いらしく、それだけでもこっちが若干見上げなくちゃいけなくなる。たいして背を伸ばす努力もしてこなかった、むしろそんな無駄な努力の意味なんて信じてなかったし今も信じていない。だから、背丈くらいいい加減気にしちゃいないつもりだったが、今日はそんなことにさえもやたら苛々した。それも全部、さっきの長髪の奴のせいだろうか。

 夏目と名乗るそいつは、また向き直って、外の景色に目をやっていた。だから俺はやることを決めた。

「ふーん、俺は……」

 言いながら目の前のお下げの頭を右手で掴んで、柵に叩き付けた。頭か柵か、割れるような鈍い音を立てた。数秒、押し付け続けると、そいつの身体の力が抜けてきた感触がした。俺は右手で背中のセーラーの襟を掴み直して、少し震える身体を屋上の内側に向かって投げつけた。そいつは転がるように横に倒れた。

 やっぱり重い。右手には、髪の毛が数本絡まっていた。それを払い落とす。なんでもない痺れのようなものが、ひどく心地良かった。

 怠い息を吸って吐いた。白い柵に背を預けると、錆で鼻がつんとした。横の手すりには、少し黒っぽい血がついていた。

「ったく、何なんだよ、どいつもこいつも」

 下を見遣ると、柵越しにさっきのピンク色の、花びらの塊があった。よく見るとその辺の柵にはマジックで何か書かれていたが、字が汚くて読めない。それなりに敷地が広いからか、こんなくだらない場所でも、数十本ありそうな桜は、確かに大きくてご立派だった。全く似合ってねえことに。

 俺は顔を上げた。何もない空を見ると、早々に気が滅入る。冷たくもない風で、ポケットに煙草が入っていたことを思い出して手を掛けた。その時だった。

「楽しかった?」

 その声ははっきりと聞こえた。ガキみてえに、空気を割る声。そして明らかに、目の前で倒れている奴からの物だった。

 奴は俺を見ていた。

 全く目を逸らさないまま、ゆっくり、起き上がる。

 その何でもない動きに、俺は動けなかった。

「ははははっ」

 そいつが笑っていたからだ。

「あははははは! いつか、またやれたらいいね!」

 そいつは立ち上がって近づいてくる。そして一瞬、屈み込む。

「――僕の趣味は、先に手を出すことだ」

 右腕を振りかざす、満開の笑顔。

 ――。

 理解するより先に、頭の中で、ごぅっという音が聞こえた。視界を横切る袖、傾く屋上、柵、鈍痛、青空が過ぎって、真っ黒になる。


 目の前がやたら白い。天井があった。

「目は覚めたか」

 近くで声がする。寝ていたのか、俺は。

「……っ」

 ばっと飛び起きる。膝に上着がかかっていた。俺の上着だ。それからすぐに、左頬の痛みに気付く。

 傍に立っていたのは、屋上に居たあいつじゃなかった。だが見覚えがある、確か同じ教室の奴だ。名前は覚えていない。

「石川だ」

 石川は巻いた明るい茶髪を高く左右に結んでいて、その上なぜか前髪から後頭部にかけてのトサカ頭。改造済みの制服。ガタイも良い、見るからに頑丈そうな奴だった。

「ださいな、貴様」

 石川が言った。反論のしようもなく、押し黙る。俺は目を伏せた。頭がはっきりしてくる。ここは保健室か。

「かかってこないのか。こういう時は恥を隠すため所構わず暴力に訴える者も多いのだがな」

 石川は頭をうんうんと頷く。古臭い口調が、割と甘い声に合っていない。俺だって今すぐてめえの間抜けな頭をベッドの骨組みに叩き付けてやりたいが、石川の言葉通り、そんなのはダサい話だ。それに今、てめえを叩いたところでどうにもならない。俺も甘い、とは少し思う。やりたいならごちゃごちゃ考えずに身体で動けばいいんだ。

「安い挑発じゃねえか……。で、どういう理屈で俺がここに居て、てめえがそれを見てるんだよ」

「まず貴様が名乗れ。話はそれからだ」

 こいつ、妙に姿勢が良い。開いた窓の前で腕組みをしているが、目を合わせる気もないらしい。俺は渋々名前を言う。分かったような顔して、てめえも名前覚えてなかったのかよ。

「ちっ。辻村だよ」

「俺様が屋上へ行った折に、気絶した貴様と、別の生徒を見かけた。俺様はその生徒の要請を受け、貴様をここまで運んだ」

 わざわざ説明してから、石川は襟に手を突っ込んで、蛍光色の何かを取り出した。時計らしい。

「今は十一時五十五分か。つまり貴様は三時間以上伸びていたことになるな。ははは」

 無駄に嫌味ったらしいが、放っておく。あいつ――夏目、か。思い出してみる。頭に浮かんだのは、透き通った二つの目の、無表情の顔だった。違う、おかしい。あいつはずっと笑っていたはずなのに。

「その生徒は夏目と名乗っていた。それが正しければ、二組の成海夏目という者に違いない。貴様がやられた相手はそれか」

 石川はそう続けた。返事はしない。俺は痛い方の頬をつねってみた。たぶん赤くなっている。あれは平手だった。脳天まで届く、一撃で落ちるような平手。少なくとも馬鹿力はあるらしい。正直、見誤っていたんだろう。あまりにも自然だったから。だが迷わず、動けさえすれば。そこまで考えてふと気付いた。

「石川、てめえここにずっと居たのか」

 一応聞いておく。間抜けの顔を長時間見られてたとは思いたくねえが。石川は心底嫌そうな顔をした。

「そんな訳があるか。空き時間を見て来たまでだ」

「あっそ」

 俺はかかっていた上着を羽織り直した。寝台を出ると、露骨に金属音がした。

 もう居眠りは十分だ。腹は決めた。もう一度、あいつを殴る。今度は勝つ。勝って、力で、叩き潰して。俺が今日、失ったものを取り戻す。俺自身を証明するために。

 履きっぱなしだった靴を、左足だけ脱ぐ。それを手に持って石川の方を見た。たまたまかいつものことなのか知らないが、保健室の教員は不在らしい。石川は出ていこうとしていた。その背中に俺は問いを投げた。

「なあ、俺のこと他の奴にばらすか」

「勘違いするな。俺様は雑魚に用はない」

 石川が言い終わる前に、屈み込む。左腕で上履きを投げつけると同時に、右脚を振り上げた。振り向きかけた石川の顔の横を、上履きは抜ける。十分狙い通りだ。俺は蹴る。一瞬傾く身体の、右脇腹を狙って。その俺の右足を、石川は右手で掴んだ。靴裏ごと、俺の蹴りは止まる。

「あまり俺様を舐めるな……っ」

 言う間に石川の表情が変わる。右足を掴まれたまま、俺は飛び上がるように裸足の左足を振り上げた。身体が宙に浮き、頭から落ちる一瞬の痺れ。だが左足だけは石狩の頭に向かっていた。そして爪先は確かに皮膚にめり込んだ。不快な感触を残して。

 右足から手が離れて、俺は落ちながら床に手をつく。着地して顔を上げる。石川の頬には赤い線が走っていた。見下ろしながら俺を睨み付けている。俺も石川を睨み返した。

 五秒経った。石川は背を向けたかと思うと、保健室の外に落ちた俺の上履きを拾った。それからそれを後ろ手で俺の方に投げつけた。上履きは俺の膝に当たった。そして今度こそ何も言わずに、石川は出て行った。ついでに、わざわざ保健室の扉を閉めていった。

 その時、鈍い鐘の音が聞こえた。

 起き上がり、俺は振り返る。石川が居なくなった後の保健室には、誰も何もなかった。窓の外のグラウンドも同じだった。だから無駄に眩しい。地べたに空気の抜けたボールが潰れている。そこには、今も花びらが落ちていく。落ちた花びらは、水溜りに溜まって腐る。


 十二時を過ぎていた。そのせいか何人かがそこに居た。だが探すまでもなく、あいつはすぐに見つかった。

「あれ、もう遊ぶの」

「……遊びじゃねえよ」

 屋上で、夏目は柵の上に座っていた。片手で手すり、もう片手で水色の何かを持っている。ソーダアイスだった。二年三年もいんのに、呑気なことだ。おまけに屋上で。こっちはてめえを探しに来たけど、本当にまだ居るとは思わなかった。

「食べる」

 そう言ってとぼけたような顔で、俺にアイスを突き付けてくる。食べかけだろ。棒が半分以上見えている。だがそこには、切っ先を向けられているような圧力があった。

「それハズレだろうが」

 俺がそう返すと、夏目は少し笑った。

「じゃ、僕がこれ、捨てるまで待ってて」

 俺は睨む。こいつの言いなりになんてなりたくなかったが、柵から引きずり降ろさない限り、まともに相手にできないのは分かっていた。万が一転落死なんてことになったら、俺自身が手に負えなくなる。

 背後から視線が刺さる気がする。たぶん気のせいだ。ろくに構えも取らずに、あいつをただ待つ。俺が朝にぶつけさせた額は、少し傷になっているようだった。

「よし。お待たせ」

「おい」

 やっとアイスを食べきったらしい夏目を、遮って言った。

「俺は、一組の辻村だ。成海」

 これは義理だ。その上で叩く。

 夏目の表情が僅かに変わる。口元は笑ったままだったが、……俺にはよく分からない顔だ。石川の言った通り、二組の成海夏目、これは当たりだったらしい。

「僕は、夏目でいいよ」

 声はあくまで、はしゃいだ子供そのものの。

 同時に、目の前に棒が飛ぶ。俺はかがんで避けた。アイスの木の棒が、どこかに落ちる音がした。ゆるい動きなのに夏目がいつ、あれを投げたのか分からなかった。次に蹴りが来る、腕を上げてそれを止めた。重い。しかも狙いは、俺の赤い左頬――さっき平手を受けたのと同じ場所。俺はちょうどその足を両手で掴んで、夏目の身体ごと放り投げた。ひどい音がした。倒れた背中に、俺はとびかかった。

「てめえ、結構クズだな」

 俺は言った。夏目の手のすぐ近くに、さっきの棒が転がっていた。俺はそれを取り上げた。当然、何も書かれていなかった。ハズレだ。


 結果から言うと、俺は負けた。俺が殴っていたはずだったのに。立っていたのは、あいつの方で。両腕の骨が痛い。背中もだ。折れる寸前かもしれない。どうしてそうなったのかもよく分からない。吹っ飛ばされたのか、気でも失ったのか、気が付いたら倒れていた。柵に背を預ける形でへたり込んでいる。

 夏目は目の前で、屈んで俺に視線を合わせた。そして重ねた両手を掲げたかと思うと、何かを俺に頭からぶっかけた。髪の毛に柔らかくくっ付くいくつもの、好きじゃない感覚だった。

「……おい」

「起きたね、辻村さん」

 馴れ馴れしく呼ぶなよ。口に出すのも億劫だった。痛む手で髪を掻き回すと、落ちてきたのは花びらだった。しおれてベタベタした、ピンクというより汚れた白の、桜の花びら。

「くだらねえ」

 下を向いて吐き捨てる。まとわりついた花びらを払って、立ち上がった。立ち上がれた。汚れたコンクリートの床。身体が重い。

 一日に二回も負けた。俺の無様さを、誰が見ていたのかも分からない。今は屋上を抜け出したかった。それでも、これは逃げ出す訳じゃない。逃げるなら、俺は俺を許さない。夏目の態度も許せない。だからこれは違う。まだ立てる。俺はまだ、負けてねえ。

 出口に向かう俺の背後で、夏目は言った。

「あなたは負ける。この場所に居る限り、何回やっても、たぶん僕は負けない」

 ガキみたいな声には、温度が無かったが、俺は振り向かなかった。

「そんなの分かんねえだろうが」

「じゃあ、その時は、放課後に」

 その言葉を聞いたのを最後に俺は屋上を出た。扉を後ろ手に閉めると、光が消えた。息苦しかった。それに僅かに安心した自分に気付いて、やるせなく暗闇を睨む。

 次の鐘が鳴るまでには、十五分以上あった。


 腕力、速さ、タフさ、勝負勘、運――あいつの圧倒的な刃が、何で構成されていたのか。武器一つ持たない、格闘の型なんて何もないのに、言葉通り、あいつは負けなかった。それがあいつの強さなんだと納得するには、しばらくの時間と、暴力が必要だった。それさえただ、納得したというだけだった。夏目の正体が、俺には見えなかった。

 次の日も、その次の日も、放課後の屋上に、あいつは居た。いつだって同じ笑顔だった。喧嘩を売って、売られて、買って、俺は殴って、蹴って、締めて、押して、固めて、投げた。数秒、数分、数十分。それでも、証明することはできなかった。俺の方は疲労が溜まる一方なのに、どれだけ考えても、身体を鍛え直しても、強くなっていっているのは、あいつの方なような気がした。だが端から手を抜いているようにも見えない。ただ、勝ったと思った瞬間に、負けている。

 三日目は、頭から水をかけられた。誰のものとも知れないペットボトルの中身が空になった。無味無臭、無温。桜は全部散っていた。

 四日目は、夏目を監視した。

 朝早く屋上に来てみたが、誰も居なかった。上から正門を見下ろしても、それらしい人影は見当たらないまま、一応の鐘が二回鳴って、屋上を後にした。一年二組の引き戸が開きっぱなしになっていたから覗いて、やっと夏目を見つけた。真ん中の後ろの方で顔を伏せて寝ていた。俺の教室と同じように、机は散乱していて人数も少なかった。先公のおっさんの声は教室の外にもかろうじて聞こえるが、意味の分かる言葉にまではなっていなかった。気付いたらまた鐘が鳴った。昼になった。夏目が出てきた。屋上に行くのか、とうっかり眺めていたら、目が合った。失敗した。これじゃ不意打ちもできねえ。俺は目を逸らして、追いかけてくる様子もないから、なんとなく、階段に行った。

 階段に行ったら、一年のよく見ない顔が五、六人たむろしていた。同じ教室の、石川派なんてのを名乗る奴も居たかもしれない。とりあえず一番上の段まで上がろうとそいつらをまたいで行ったら、足をかけられた。よお雑魚、石川くんの背後には山井さんがついてるぜ、まあお前は入れてやんねえけどな、そもそも石川くんなら成海なんて楽勝だろ、てかいい加減諦めろよとか言ってくるから、瞬殺した。雑魚だ。

 ポケットに入った昼飯を取り出してアルミホイルを剥がした。酸の味がする不味い飯だった。

 それも転がった奴らを見下ろして、うるさい息継ぎを聞きながらじゃ当然だ。石川に似て古臭え、くだらない連中だ。それは置いておくとしても、端から屋上には誰かしら居て俺と夏目のことは見られてる、石川も何か考えてる、話が広まるのは避けられねえ。雑魚が、いい加減諦めろよ、と誰のかも分からない声が聞こえた気がした。幻聴だ。夏目こそ、よくもまあ毎日毎日待ち構えてやがる。

 昼飯の後にまた二組を見ると、同じ席で夏目は何かプリントをやっていた。分かんねえ奴だ。ただ、幽霊とかでなく、本当にあいつが居た。それに安心して、少しがっかりした。

 五日目は、雨が降っていた。夏目は柵の上に座って、傘を差していた。ただのビニール傘だ。

「雨だからって傘を使う奴には見えなかったな」

 俺は傘を持ってきていなかった。雨具もない。夏目は傘を閉じて、肩に担いだ。俺は身構えた。

「うん。あげる」

 笑いながら夏目は柵から中に飛び降りた。傘を投げつけてくるかと思ったが、違った。振り上げて、床に叩き付けた。雨音に消されながら傘の骨がいびつな音を立てた。それを俺の方まで蹴飛ばした。俺は拾った。開いて見ると、泥のついたビニールが切れて、全部の骨が折れ曲がっていた。ついでに、柄が折れた。鋭い銀色が見えた。投げ捨てて、走り出した俺は夏目に向かった。

 六日目は、昨日の雨も全部乾いていた。

 もしかしたらあいつには、痛覚が無いのかもしれない。世の中にはそういう奴も居るらしい。本人が言ったわけじゃないが、どんな暴力を加えても加えられても、あいつは少しも痛がらなかった。あいつの、既に形の崩れてきた制服と、いくつかの細かい傷を見て思った。

 夏目は特別な武器を持たなかった。それは、俺も同じだった。物心ついた時から、この拳と、頭と、足が俺の得物だった。そのことが俺の証明になっていたのかは分からない。それで勝てない奴が居たら。同じ武器で、同じ条件でも、勝てないなら。俺の土俵を捨てること、負けること、俺はどっちを取り返してえのか。

 今も、夏目の武器は夏目だけ、何も持たずに、昨日と同じ少しの笑顔で。

「お願いしたいことがあるんだ。あなたが負けたら、僕と一緒に、行ってくれないかな」

 夏目は俺を床に押し付けながら言う。その内容は、許せねえことだったが、予想できる範囲だった。

「負けねえし……それは、てめえに下れってことか。このくだらねえ喧嘩をやめてか」

「あなたがそう思うなら、僕は構わないよ」

 相変わらず、肩を掴む掌が重い。俺は押さえつけられた両手を思いっきり振り回した。両足もだ。頭は動かさない。こいつの頭が無駄に固いのはもう分かってる。夏目は膝で俺の片足を止めた。その一瞬の隙を狙って、俺は腹に拳を食らわす。効かない。芯を外した。次だ。片方の足で、靴を飛ばす。高く上がる、このままこいつの背中目がけて落ちろ。だが夏目は掴んだ。それも読み通りだ。僅かに身体が浮き上がる間に、横っ面目がけて腕を振った。袖に仕込んだのは、右に鋏。刃先は鼻を掠めて、弾かれた。夏目は靴を振り下ろす。左には。

 ――俺の刃が、夏目の手に当たる。深く、刺さる。肉の感触があった。そこから、目を離せない。夏目は俺の靴を持ったままだ。昨日捨てられた傘の、折れた柄の先が、夏目の手の甲を抉っていた。

 銀の柄を伝う赤いものが、ぽたぽたとコンクリートに落ちる。

 夏目を見る。夏目は、笑ったままだった。身体を押さえつける重さも、変わらない。

 俺はそれ以上その折れた傘の柄を掴んでいられなかった。手が離れると、壊れた傘は落ちた。乱雑に尖った切っ先は、どろりとした血液にまとわりつかれている。

「もういいよ」

 夏目は言った。それから俺の靴で、俺の顔を横に叩いた。最初の平手と同じ場所。痛くはなかった。汚くて臭いだけで、力なんて入っていない打撃だった。ちらっと見ると、夏目の手の甲の出血は、あの抉った感覚よりもずっと少なかった。夏目はそれから、目線をあの粗末な銀色に向けて、空笑いするような息をついた。

「いらない。僕には、これで十分だ」

 夏目が押さえつけるのを止めても、俺は動けなかった。夏目は胸から何かを取り出した。

「……」

 俺に見せたのは、木の棒だった。当然のように何も書かれていない、ソーダアイスのハズレ。そんなもので、誤魔化すなよ。遊びじゃねえ、遊びじゃねえんだ。こんなのは、たとえどんなにくだらなくて、馬鹿みたいに見えたって。

「……それじゃ仕方ねえんだよ」

 目の前の黒いおさげの向こうにある天道はあんなに眩しいのに、なぜか身体が冷えていく。あっさりハズレは仕舞われた。俺がやっと立ち上がると、夏目も立ち上がった。

 一メートルくらいの距離で、向かい合う。

 夏目は、立ち尽くすように立っている。

 俺は殴った。夏目は避けなかった。夏目の顔面が少し潰れた。のけぞりもしない。それだけだった。ろくに、効いていない。

 こいつでも、顔殴ったらちゃんと不細工になるんだな。

 分かったことは、それだけだった。

 俺は負けた。俺が負けた。もう負けたんだ。

「あと、もう一つだけお願いしてもいいかな。あなたの名前を教えて」

 少し目を伏せながら、そんなことを聞く。後出しかよ。

「前に言ったろ。二度は言わねえ」

「そうじゃなくて」

 頭を掻く俺を、透明な二つの目が見つめた。ああ、前も見た。笑っているのかいないのか。どうしようもない顔だ。

「茜だ。辻村、茜」

「うん。茜、ありがとう」

 答えた瞬間に、夏目はいつもの笑顔になって、ガキみたいな声ではしゃぐ。俺の三文字を呼んで、その場でくるっと一回回った。薄めた血が、滲むような空の下で。


 七日目の放課後、屋上に夏目は居なかった。

「あいつは来てねえぜ。それより、そっちから下見てみろ」

 そう聞き覚えのない声のする方を向くと、そこに居たのは四人の塊だった。こっちの方はもう見ていない。揃って携帯電話か何かを見ていた。全員二年だろう、見覚えはないが、目に入っていなかっただけか。

 一応言われた所を見下ろしてみると、当たり前のように桜のピンク色はもう無かったが、黒い塊が、固まって湧いていた。ざっと二十人くらいか。顔に見覚えがある奴も居る。ほとんどが一年だった。

 何が言いてえんだ。もう一度振り返ったが、柵で囲まれた屋上の隅に居るそいつは、既に何も話す気がないようだった。とにかく、ここに居ても意味はねえってことか。

 階段まで戻ると、物が壊れるような音がして、背後で勝手に扉が閉じた。思わず振り返る。扉はただの扉で、何も変わっていなかった。この学校の中は、暗い。だが今日は、普通じゃなかった。鉄の鎖のようなものが、扉の取っ手から天井まで、何重にもかかっているように見えた。じんじんと冷たく。それなのに、ないはずの隙間から、光が溢れて見えた。これは全部、弱い奴の気のせいだ。

 一度頭を殴って、幻覚を振り切った。俺は階段を駆け下りて、一階の廊下に出た。連中が集まってたのはこのあたりか。人影は無いが、何かの準備室の前が騒がしい。丁度窓があった。閉じたままだったが、外の人だかりが見えた。

 窓際に一人立っている。見間違えるはずもない。何度も見てきた背中。夏目だった。丁度袋小路になった場所で、大勢と向き合い、追い詰められたような形になっている。私刑か。そんなもの、夏目の相手になるはずがない。

 昨日、俺は負けた。だが、夏目の「お願い」に従うつもりもない。壁に身を隠して、様子を観察する。

「石川さんは居ないの」

「あんた位、うちらで十分だし」

「そうなんだ。ねえ、ここに居る皆、石川さんの友達?」

「うん。石川ちゃんの仲間だよ。もしかして、ビビっちゃったかな」

「仲間、なんだ。本当に?」

「そうだよ。ニヤニヤしてんじゃねえっ」

 鈍い音がした。殴られたようだった。何人居るか知らないが、ほとんどが石川の取り巻きなのは間違いないらしい。

「石川さんが来ないなら、僕は帰るよ」

 淡々と夏目は喋っている。石川に呼ばれでもしたのか。石川はあからさまに上を狙っていたから、十分あり得ることだ。どうやら着々と味方を増やしていることも。まあそんなことはどうでもいい。夏目が全くやり返していない。先手を打つのが趣味だと言っていたあいつが。よく数えれば二十人は居るようだが、どれだけの数が相手だろうと、夏目の後ろは窓と壁だ。あの狭い場所、二人や三人、順番に潰せる。前に俺が階段で叩きのめした程度の連中なら。俺は、夏目ならやれる、と思っていた。

 私刑は嫌いだ。強さも何も証明できない、群れただけの連中が吠える。誰の下だ誰派だ、くだらない縄張り探し。夏目は動かない。ただ殴られ、蹴られて、壁に背を向けている。こんな時でも、背中。やり返せよ、全員潰しちまえ――そこで気付く。俺は夏目に期待していた。

 これじゃ俺もあいつらと同じだ。これ以上自分が許せなくなるのか。俺自身の苛立ちを、夏目なんかに賭けた自分を。

「あああああっ!」

 俺は吼えた。目の前には、消火器と書かれた、ガムテープの貼られた赤い箱。使えないようにしてるのか、ただの悪戯かは知らない。俺は夢中でそれを開く。開いた中には、目的の物があった。

 もちろん消火器だ。取り出したそれを向き直った窓に叩き付けた。一発で砕ける、破壊の音と。尖った破片と、土の上で光る破片と。腕に走る衝撃と、皮膚を刺す痛みと。吹き出す風と、外の連中の顔と。振り向く夏目の目と。五、六発で、両方の窓ガラスのほとんどが吹き飛んだ。

 怒りで、俺は叫ぶ。そう、怒りが、消火器を振り上げる。

「茜」

 その時、真っ直ぐな声が脳を突き抜けた。夏目だ。

「その消火器、使って」

「は、使えって」

 ようやく何か言ったことがそれか。しゃがみこんだのか、夏目は見えない。だがふと、俺の視界は晴れる。感情が急に冷えていくように。目の前に居る黒い塊が、叫んで向かってくる。

 引き金を引くように、俺は強く消火器を握った。

 白い煙がまき散る。飛び出してきた夏目の傍で、黒だか白だか分からない影が倒れていく。俺は引き続けた。

 何が起きていたのか分からない。消火器が出切れたころ、俺に目を向けた夏目にはっとする。身体中についた白い粉と、ところどころ切れた制服と皮膚。

「怖いね」

 ガキみたいな声で呟いたそれだけの言葉は、あいつらに向けてか、俺に向けてか。それだけの言葉を残して、夏目は白くなった背を向ける。俺は言葉が出なかった。

 まだ煙が晴れ切っていない。悪い視界に、排気音のようなものが近づいてくる。

「な――夏目、単車!」

 異常な速度で夏目を目がけて突っこんでくる。袋小路にはっきりする影。

 現れたのは石川だった。メットの下、はっきりと分かる。見えない視線が一点を貫いて。その右腕が、振りぬかれるのが見えた。

 俺はその場に伏せた。頭上を抜けたものが、床に転がる。そして唐突に、エンジン音が止んだ。

 起き上がって外を覗くと、煙の消えた両の壁際に、大勢の生徒がのされていた。血こそ大して流れていないが、桜のような粉を身体中につけた有様で項垂れていた。背を向けたままの夏目の足元で、単車が横倒しになっている。よく見ると、その下に石川は居た。その手は、車のキーを握りしめていた。

「……っこ、の、死神っ」

 荒い息継ぎ。意識はあった。

「てめえ、何したんだ」

「バイクを足で止めたんだ……でも、僕の目の前に来た時には、もう石川さんは急ブレーキをかけてた。エンジンも切れてた」

 夏目はそう答えた。分かるくらいに息が荒い。俺は背後の廊下に転がったものを見た。ガラスの破片の中にある黒い柄。十二センチほどの銀色。ナイフだった。拾い上げて、ナイフは僅かに震えた。とりあえず胸元に仕舞った。

 一瞬、夏目を名前で呼んでしまったことに気付くと、急にどうでもよくなった。夏目の「お願い」だって、拒絶することに拘ったってもうどうしようもないだろうと、自分自身に無意味な言い訳をして。

 窓を縁を掴んで開けて、石川の居る外へ出た。

「石川、てめえさ……いかにも正々堂々とって風に……恰好つけてた癖にさ、そりゃ、無いだろ」

 俺は石川の上の単車を起こす。重いが、どうにか立った。単車のことは詳しくないから、これが大丈夫かどうかは分からない。メットが外れている。石川は横になったまま、どこか打ったのかまだ動けないようだった。いつものトサカ頭でなく巻いただけの茶髪が顔にかかって、ただ、俺を睨み付けている。頬にはほんの微かに、この間つけた線が残っていた。

 俺はナイフを取り出して眺めた。刃には、俺の顔が映っている。揺れる、それはそれはひどい顔だった。

「返すぜ、これ」

 掲げられたナイフを見て、石川の顔が少し引きつる。

「馬鹿貴様止めろ、このクズが、クズが」

 石川が叫んで手を伸ばす。もう遅い。俺は振り下ろし、突き刺す。単車のシートの、ど真ん中に。ウレタンがぶすっと、音を立てた。

 その間、夏目は何も言わなかった。

「ねえ、石川さん」

 小さく呟く。

「僕に用があったんだろう。それは、何だったの」

 呪うような目を単車に向けていた石川は、一瞬分からないような顔をしてから、その目を夏目に向けた。

「貴様ら全員、死神だ! 凶暴な欲望を平然と人に向ける! 人の上に立ち支配することしか考えていない貴様らは――」

「――それがここの、糞みたいなルールだよ」

 その声がした途端、石川の開いた口が止まった。低い、掠れた声。

 袋小路の入り口に、そいつは立っていた。

 翻る黒い上着。真っ黒の長髪、伸びた背中、大きな肩、真っ黒な目。立ったそこから全く動かずに、何も見ていないように眺めている。天道があるはずのその後ろからは、とてつもなく黒い影が覆っていくようだった。

 圧迫感で、動けない。

「山井さん、……申し訳ありません」

 視界の端で、石川がふらふらと立ち上がる。それに、そいつは答えない。

「この失敗は、俺様が必ず――」

「勝手にしろ。私にはどうでもいいことだ」

 抑揚のない言葉。石川は絶句していた。

「次に桜が咲くまでに、どこへでも、行けばいい」

 それで俺はやっと思い出した。最初に屋上に行った時だ。階段に居た、あいつだと。

 重く静かな足音を立てて、そいつは踵を返す。

「あの、あなたは、誰ですか」

 全くいつも通りのガキみたいな声が、後ろから投げつけられた。そいつは振り返らないまま、言った。

「山井シズク」

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