アボットの槍

@shibachu

本編

息子へ

 お前が生まれた時のことを、今でも鮮明に思い出す。あの、喜びと驚きと悲しみと憐れみと……色々な感情がごちゃ混ぜになって激しく心を揺さぶった日を、生涯忘れることはできない。

 一九九三年九月五日、助産婦さんに抱えられたお前の姿を初めて見た時、父さんはひどく狼狽した。仕方ないだろう。やっと生まれてきた大事な我が子に、片方の手が欠けていたのだから。

 この子はちゃんと生きていけるだろうか。人並みの幸せを手にすることが出来るだろうか。一晩中悩んだよ。どうして我が子にこんな仕打ちをするのか、神様を恨んだりもした。

 神様は本当にいるのかな。もしいるんだとしたら、翌朝の朝刊が神様のくれた答えだったのかもしれない。

 何度か話したことはあるけれど、もう一度、あの日感じたことを書かせて欲しい。


 スポーツ面を大々的に飾っていたのは、ニューヨークヤンキースのジム・アボットがノーヒットノーランを達成したというニュースだった。

 大リーグでノーヒットノーランというのは凄いことだが、当時の日本のマスコミがわざわざ大きく取り挙げることはない。それがどうして大きなニュースになったかというと、彼が特別な人間だからだ。

 お前も知っての通り──そしてお前と同じく、アボットには生まれつき右手首から先がない。そんな彼が、途方もない偉業をやり遂げたんだ。

 父さんはその記事から目が離せずにいた。新聞に穴が空かなかったのが不思議なくらいだ。アボットのことは知っていた──どころか、彼が投げるところを生で見たことがある。お前が生まれる五年前、県営球場で日米大学野球があったんだ。向こうの先発ピッチャーが彼だった。先天性右手欠損なんて言葉、その時初めて耳にしたよ。まさか自分の息子が同じ障害を抱えて生まれて来るなんて想像できなかった。

 同じ年に開かれたソウル五輪では、野球競技で日本が決勝戦まで勝ち進んだ。プロ野球選手の出場が禁止されていた時代だ。とはいえ、その年の代表チームは錚々たるメンバーだった。野茂英雄、潮崎哲也、古田敦也、野村謙二郎……、後にプロ野球界で大活躍する顔ぶれが揃い踏みした、黄金世代と言われたチーム。決勝の舞台で日本の前に立ちはだかったのが、アボットを擁するアメリカ代表チームだ。日本は敗れて銀メダルに終わった。彼の気迫溢れるピッチングは日本でも話題になったよ。

 新聞を読むまで彼のことは忘れかけていた。それが、あのタイミングで──お前が生まれ、どうやって育てればいいのか途方に暮れたときに、彼自身の存在をありありと思い出させてくれた。天啓と言う他にない。


 If they can do it, I can do it too.

 ──誰かに出来るなら、自分だって出来る。


 記事に紹介されていた、彼の言葉だ。父さんは感銘し、共感し、勇気づけられた。アボットの両親が彼をあれほど逞しく育てることが出来たのだから、自分たちもお前を育て上げることが出来るに違いない。そう信じることが出来た。

 実際にお前は逞しく育ってくれた。片手のハンデなんか全く感じさせないほど心身健やかに、勉学に励み、大学を出て就職し、一人で生活する力を身につけた。それどころか、パラ五輪の代表選手として日の丸を背負うことを期待されている。

 お前はそれに見合うだけの努力をやってきたと、父さんが保証する。高校に入って野球を辞めてしまった時、正直少し寂しく感じた。だけど、お前はすぐに別の道を見つけて進み出した。

 父さんが両手を使っても持ち上げることが出来ない重さのバーベルを、お前は片手で支えて持ち上げてみせる。本当に凄いことだ。そんなお前が投げる槍は、誰が投げるよりも遠くまで飛んでいく。

 そうした超人的なことが出来るようになるまでにどれほどの努力を重ねてきたか、ずっと見せてもらった。父さんと母さんにとって、お前は今やジム・アボット以上のヒーローだ。

 私たちの元に生まれてきてくれてありがとう。


 本当なら今頃お前を応援していたはずだけど、一年延びてとても残念だ。例のコロナ騒動で色々と大変だとは思うけど、身体には気をつけて。来年こそはお前の応援が出来ますように。

 そして、ジム・アボットが我が家にもたらしたように、お前もどこかの誰かに勇気と希望を与える存在になってください。

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