無意識なペン先


 あなたがペンを走らせる姿を、ずっとずっと見つめてきた。

 いつだって全力のあなた。その真剣な眼差しを遠くから眺めていれば、わたしは幸せだった。


   *


 扇風機の回る音だけが空気を揺らしていた。

 そんな八畳間に事務的な声が響く。落ち着いた感じの女性の声。


「ネーム、確かに受け取りました。これで編集部と掛け合ってみますので、細かい話はまた後日にでも」


「よろしくお願いします」


「はい、お疲れ様でした。それと今月発売した新刊、置いていきますね」


 そう言って女性が鞄から出したのは、大判の漫画の単行本。表紙に描かれた背中合わせの男女には見覚えがある。

 表紙と同じ桜色をした帯には、『新進気鋭の少女漫画家・橘きあ、待望の最新作!』という白抜きの文字が、でかでかと書かれていた。


「あ、ありがとうございます! そーいえば発売日過ぎてましたねぇ、すっかり忘れてました。しばらく家出てなかったんで……」


 担当の女性から差し出された本を受け取ると、当人のきあは乾いた笑いを浮かべて、ぼさぼさの黒髪を掻く。さっきから欠伸ばかりしていた。


「また寝てないんですか……。他のお仕事もあるのでしょうけれど、無理してはダメですよ」


「あはは……。さすがに今日は寝ますよ」


「ふふ、そうしてください。それでは、私はそろそろお暇しますね」


「——あ、そこまで送ります」


 きあと担当の女性、二つの足音が遠ざかっていく。玄関からバタンと音がして、部屋の中は再び扇風機の静かな騒音に支配された。


 わたしは膝を抱え、色褪せた木製の床に座る。同じ材質の壁に背中を預けて、ぼんやりと地平線の彼方を眺めていると、仲睦まじく笑い合うカップルが見えた。ここ最近よく見かける。というか、先程見たばかりだった。

 どこからか、女の子達のひそひそ話が聞こえてくる。


「——ねぇ、マキ。聞いた?」


「あの二人、最初から付き合ってるらしいよ?」


「えー、いいなぁ! 私なんて結ばれるのに二年もかかったのに」


「でさ、大人向けなんだって」


「それウケる。なら確実に拗れるわねー」


「うんうん」


 噂話に盛り上がる二人の友人に、マキは曖昧に頷く。


「でも、やっぱり主役って感じする。マキもそうだけど、何かオーラがあるっていうか——」


 マキというのは先月完結した漫画のヒロインの名前だ。


「だよねー。アタシらみたいな友人ズには羨ましい限りよ……」


「やめてよぉ、もう私だって過去の人だし。それに知ってるんだから。今度キミ達のスピンオフ、描いてもらえるんでしょ?」


「さすが元生徒会長! 情報が早いわ。でね、聞いてよー——」


 きゃっきゃっと甲高い声で笑い合っているのは、マキとその友達二人組で間違いないだろう。きあが描き上げた性格そのままに、陽気な会話が交わされ続ける。時折、別の場所からもささめきが届いてくるけれど、マキ達の声には特に現実的な響きがあった。

 その理由は、彼女達が登場する作品がアニメになったから。


 そのとき、バタンと。

 玄関が開き、閉じる音。それに続いてフローリングを裸足で歩く音が近づいてくる。

 八畳間に戻ったきあは机の前を通り過ぎ、そのままベッドに倒れ込む。二日間洗っていない黒髪と、くたくたになったガーゼのカーディガンがはためいて。それが布団の上に落ちる頃には、彼女も深い眠りの中に落ちていた。

 タオルケットも掛けず、ベッドの上で子どものように身を丸めた姿は、とても人気漫画家とは思えない。

 ——マキやわたし達の生みの親。

 原稿用紙や雑誌、ペンやインクが壁を作るように散乱した机の上から、彼女のあどけない寝顔をいつまでも眺め続けた。


   *

   *

   *


 わたしには名前も設定もない。与えられなかったから。

 そのことを寂しいと感じるときもあるけれど、それ以上に嬉しいと思っている。だからこそ、あなたに色々な服を着せてもらえたし、ここにいる誰よりも自由に想いを紡ぐことができたのだから。


 わたしは、きあが初めて描いた女の子。友達と漫画を描くようになって、プロになってからも、彼女が無意識に描き続けてきた、名も無き少女A——。


   *

   *

   *


 真夜中に目覚めたきあはシャワーを浴び、新聞紙の上に乗せた片手鍋から直接うどんを啜ってから、机に向かった。

 かなり行き詰まっている。さっきからぴくりとも動かないペン先を見るまでもなく、それが分かった。

 だって、彼女が描くのを楽しんでいるときは、薄い唇を三日月のようにして笑うから。頬の小さなえくぼ。そこにできた陰を見上げるのが、わたしは好きなのだ。

 でも、近頃はそんな顔をすることが少なくなった。原稿に向かっているときも、一人でネットサーフィンしているときも、いつだって口許はへの字に引き結ばれている。

 八枚目の原稿を破り捨てたとき、机の上で着信音が鳴り響いた。


「——天音?」


 携帯を取ったきあの顔が綻ぶ。


「久しぶり、元気してた!? ——あたしは、まぁまぁかな……」


 中学時代からの友人との近況報告に、めちゃくちゃな生活をしている彼女は気まずそうな表情で笑う。普段よりもちょっとだけトーンの高い声で。


「合同誌? うん、——って再来月?」


 きあは壁に掛けた月めくりのカレンダーに目を移す。いくぶん艶を取り戻した長い髪をかきあげ、露出した耳に薄紅色の携帯を当てた横顔が、落胆に染まる。


「あぁー、ゴメン。その頃あたし死んでると思う。〆切三つ抱えてるんだわ……」


 申し訳なさの中に潜む、身を切るような悲痛の響きを、十年以上も共にしてきたわたしが聞き逃すわけなかった。


「——あはは……、そだね。また今度頼むよー。あたしもさ、久しぶりに二人で合作したいと思ってたの」


 優しい音色の籠った、『二人で』。天音にも伝わっていて欲しいと願う反面、きあとわたしだけの秘密で結ばれた絆を誰にも渡したくないと思ってしまう。例え、そう思っているのがわたし一人だとしても。


「プロアマなんて関係ないよ。天音と描きたいんだってば。——ん、ありがと。また今度、お茶でもしよっ」


 最後まで明るい調子で締めくくって、きあは携帯を置く。その姿に胸が張り裂けそうになる。空元気だと分かってしまうから。

 友人との電話の後、ペンも握らずに机の染みを眺めていた彼女の口が、ぽつりと——。


 ——天音と、ずっと自由に描いていられたらいいのに……。


 その呟きは扇風機の雑音にかき消された。誰にも分かってもらえない、人前で口にすることすらできない、わたしだけが理解している願望。きあは子どもの頃から使っている勉強机に顔を伏せ、背中を震わせる。

 窓もカーテンも閉め切った八畳間は、彼女の押し殺した嗚咽に沈んでいった。


 やがて、泣き腫らした目許を擦りながら顔を上げたきあは、机の端に積まれたコピー用紙を一枚、目の前に広げる。

 片手でさらさらと。何でもないことのように。きあが、わたしを描き出す。


「アンタを見てると落ち着くわ。昔から手を動かすとこればっかり」


 いつもの顔に、いつもの立ち姿。今日は白く長い質素なドレスを纏って、彼女の前に立つ。


「——これからもよろしく、『亜子』」


 自分の言葉に驚いて、一瞬だけ目を見開いたきあ。


「何言ってんだろ、あたし……」


 気持ちを切り替えるように原稿に向かった彼女を、わたしは正面から見つめる。


 ——ええ、もちろん。


 声なき声に、空気は震えてくれない。だから、きあの耳に届くことは一生ないのだ。

 そんなこと、とっくの昔から分かっている。諦めている。それでも——、この瞬間に少しだけ報われたと思った。亜子。初めて聞いた自分の名前。

 視界が水中に沈んだように滲んで、温かい水が頬を通り過ぎていく。きあの大事な原稿用紙を濡らしてしまわないか、それだけが心配だった。


   *


 ありがとう、きあ——紀亜子。わたしの最愛のひと。

 紙の上から見上げることしかできないわたしだけれど。あなたが幸せになるのを見届けたいと、心から願ってる。

 あなたがペンを置くその日まで——。




   ***おしまい***

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