人狼サマーラブ


「や、やだ……っ! 来ないで!!」


 恐怖に染まった叫びは、青い闇に沈む湖畔の木々にこだまする。左足が無意識に後ずさり、小さな枝を踏む音がぱきっと鳴り響く。しかし、目の前の相手との距離は広がらない。背中は既に、鬱蒼と小枝の張り出した茂みに埋もれていた。


「嫌、だれか、たすけて——」


 巨大な斧を持った男が迫ってくる。ゆっくり時間を掛けて、焦らすように。その顔を見ていられずに背けた瞳の中で、斧が振り上げられていく。

 もはや呻く言葉すら失ったわたしの頭の上に、無慈悲な斧が振り下ろされて——、


 ——パンっと軽い破裂音がした。


「はい、三宅さんが食われましたー」


「えーん、早いよぉ……」


 茂みから抜け出たわたしは、短い草の上に膝から崩折れる。素足にサンダルだから少し痛かったけど、そんなの気にも留められないほど残念だった。

 視線の先には、手を打ち合わせた姿勢のまま、わたしに労うような笑顔を向ける猿渡さん。その後ろには六人の男女が横一列に並んでいる。みんな歳の近い大学生だ。


「うっせーよ、ネ子」


 猿渡さんより手前、わたしの頭上から文句が降ってくる。

 我らが演劇サークル特製のハリボテ斧を提げた犬飼が、半眼で見下ろしていた。


「なによ、ツヨキチのくせに」


 噛み付き返すわたしの鼻先に、開いた手のひらが差し出される。ふっくらして、少し冷たい手。


「ネ子は演技派よね、ホント」


 わたしを助け起こしながら、くすくすと囁くように笑う根津はやっぱり可愛い。


「やっぱ、アンタにやられたのが一番納得いかないわ。その斧貸せ、頭叩き割ってやる!」


「いちいち発言がこええっての! こっち来んな」


 斧を庇うように一歩下がって、ドン引く犬飼強吉。口の減らないむかつくヤツだ。


「うぅ……。ねずぅぅ」


「よしよし。私らもすぐに行くから。寂しいかもだけど、テントで待ってなね〜」


 根津に泣きつくと頭を撫でられる。胸の奥をくすぐるような根津の愛撫は気持ち良くて、——ちょっとだけお腹の辺りがちくりとする。


「お菓子とか食べてていいから〜」


 手を振る根津に見送られて、みんなの輪から少し離れたテントに向かった。


   *


「人狼ゲームやろうよ」


 そう言い出したのは誰だっけか。

 たまたま同じ日、同じ湖畔にキャンプに来ていた大学生グループ同士、意気投合してそういうことになった。


「はいはい! あたし、ルール知ってる」


 そう言った猿渡さんをゲーム・マスターというのに据えて、簡単なルール説明の後、残った十人はそれぞれカードを配られた。

 わたしの手元に来たのは《狩人》のカード。これを使って、華麗に根津を守ってやろうと思ってたのに——。


 慣れない言葉のぶつけ合いに戸惑いつつも、初日の裁判を生き延びた。しかし、その日の夜に人狼に狙われてしまったのだ。

 ゲーム開始の合図として、猿渡さんがおどろおどろしい声で紡いだ一言が思い出される。


 ——夜は狼の時間、せいぜい喰われぬよう気を付けて過ごしなされ。


   *


 月明かりに照らされた闇の中。黒い湖面を背景として、オレンジ色の四角錐が鮮やかに浮かび上がっている。脱落者用の控え室となった、わたし達のテント。

 近くの草むらから、鈴を鳴らすような音が響いてくる。森の木々を抜けて吹いてくる涼風が、ゲームや寸劇で火照った身体に心地良い。湖畔の夜は静謐だけど、耳を澄ましてみると案外賑やかなのだった。

 そんな夜景を背に、ビニールの垂れ幕をくぐる。


「ちぇ、脱落しましたーっと。——あれ?」


 呟いて中を見渡しても、誰もいない。

 ぶら下がった電灯の明かりが、テント内のオレンジ色をより鮮やかに染め上げている。ビニールシートの床の上には、パーティー開けされたポテチの袋。中身はまだいっぱい残っていた。


「大上くん? 椎名くん?」


 最初の夜に人狼にぺろりんこされた大上くん。その後の裁判で吊るし上げられた椎名くん。先に脱落した二人はどこに行ったのだろう。テントに入っていく後ろ姿は、確かに見たのだけど。


 ——あの湖畔、出るらしいよ?

 不意に思い出す。キャンプに来る前に友達が語っていた噂。

 心細さに駆られて、テントの側面に付いたビニールの丸い窓を覗き込む。猿渡さんを中心に半円を組んだみんなが、緊張した雰囲気で会話していた。まだ裁判タイムは続いているみたいだ。


 ——次は誰かな。話しやすい子が来てくれますように。あと、犬飼は論外。


 そんなことを思っていたせいか。ぼんやりと眺めていた視線が、その一点に張り付いた。

 背中から冷や水を浴びたように感情が跳ね、端から凍りついていく。どんどん狭くなる視界。二人の姿だけが切り取られたように鮮明に浮かび上がる。これ以上何かを考え出す前に、慌てて窓から顔を引き剥がして背を向けた。


 ——見なきゃ良かった。


 奥歯が疼く。

 見たくなかった。わたしと同じサークルの根津と犬飼、二人が手を繋いでいるところなんて。

 端に除けてあったタオルケットに包まり、膝を抱えて肩を抱く。外は蒸し暑いはずなのに、なぜか寒くて仕方なかった。


 そのとき——。

 パサッと音がして、誰かがテントの中に入ってくる。


「三宅さん」


「——椎名くん?」


 柔らかい声がわたしの頭の上に降る。


「寒いの?」


 わたしは被ったタオルケットから顔を出して、首を横に振った。

 そこに居たのはやっぱり、このキャンプで知り合った椎名くんだった。


「元気ないね、三宅さん」


 わたしの側に腰掛けた椎名くんが話しかけてくる。

 椎名くんとは夕飯の時に向かいの席になって、少しお話をした。静かな人だった。肌が白くて、素っ気なくて、言葉も少なくて。でも柔らかい。声も男の子にしては高かった。そして、カレーを頬張りながら語ったわたしのつまらない話を、楽しそうに聞いてくれたのだった。


「僕じゃ頼りないかもしれないけど。良ければ話してみてくれないかな」


「————うん。面白い話じゃないよ」


 好きな人がいた。その人に告白したけど振られた。それでも忘れられなくて、側にいるのが辛い。

 所々の詳細をぼかしつつ、そんな内容のことを話した。


「友達でいてほしいって、頼んだのはわたしなのにね」


 椎名くんは時折相づちを打ったりして、ちゃんと聞いてくれた。幼子を見守るように優しく、深く。


「その好きな人って、根津さん?」


「え!? どうして——」


「気が付くといつも彼女を見てるから、何となく分かった。三宅さんは無意識なのかもしれないけど」


「そ、そうなんだ……」


 ほぼ初対面の椎名くんにまで筒抜けだったなんて恥ずかしい。根津もさぞかし居心地が悪かったに違いない。


 ——ごめん、ねず。


「簡単に元気になって、なんて言わないよ。でも、少しだけこっちを見て欲しいんだ」


 グレーのシャツの半袖から伸びた腕。白くて繊細で、まるで女の子みたいだと思っていた。でも、肩に触れたその手は意外と力強くて。不覚にも胸が高鳴る。


「三宅さんが悲しいと、僕も辛い」


 鎮痛さを滲ませるように伏せられた椎名くんの瞼が目の前にある。羨ましいほど長いまつ毛。


「——かお、近いよ」


「僕じゃ嫌?」


 ずるさを隠そうともしない問いかけ。紡がれた微風が頬をくすぐる。

 椎名くんって、こんな子だったのか……。


「あの、わたし……」


「ん?」


 小首を傾げる椎名くんは色っぽい。女の子と見紛うほど。でも——。


「わたし、お、女の子が好き、だから……。その、ごめんなさい」


 その羞恥に染まった告白は、青い闇に沈む湖畔の木々には届かない。大好きな根津にも。ただ、テントの中に空しく落ちるだけだ。


「ふうん。じゃあ、僕が女の子だったら良いの?」


「え、えぇ……!?」


 右手が無意識に後ずさり、ビニールシート越しに、小さな枝を踏む音がぱきっと鳴り響く。しかし、目の前の相手との距離は広がらない。背中は既に、斜めに張り出したテントの壁にぴったりとくっ付いていた。


「簡単だよ、そんなこと。——どうなの?」


「えっと————」


「答えて、音子」


 わたしの名前を甘く囁き、椎名くんが迫ってくる。ゆっくり時間を掛けて、焦らすように。その顔を見ていられずに背けた瞳の中で、形の良い耳に掛かった黒髪がさらりと落ちる。

 もはや呻く言葉すら失ったわたしの唇に、慈しむような唇が重なって——、


「どっかーん!!!」


 ——パンっと、テントの入り口が跳ね上がる音がした。


「やっほ。椎名と、——三宅さん。あれ、二人だけー?」


 飛び込んできたのは、元気印のイノちゃん。椎名くんと同じく、このキャンプで出会った子だ。

 こ、腰抜けた……。


「おや。三宅さん、大丈夫?」


「うん、だいじょーぶ——」


 横目に眺めた椎名くんは、わたしの隣に座り、文庫本に目を落としていた。さっきまでの妖艶さが嘘のよう。まるで最初からそうしていたように。ひっそりと静かにそこに居た。




 ゲームが終了しても、大上くんは戻ってこなかった。

 テントの周りに集まった十人の大学生が口々に、森の方に向かって大上くんの名前を呼ぶ。


「さすがにやばいんじゃね?」


 そう言い出した犬飼に続いて、隣に居る根津も「そうだね」と同調する。テントに戻ってくるなり、わたしの顔色を見た根津は、タオルケットの上から労るように背中を撫でてくれた。


「捜してみよう。とりあえず男共で」


 犬飼がそう提案した。この場にいる男の子は、——大上くんを抜いて四人。椎名くんと視線が合ってしまったけど、意味ありげな微笑をわたしに送ってから、彼もゆっくりと立ち上がった。

 そのとき、茂みをがさがさとかき分けるような音が響く。

 みんなが注目した先。向こうから歩いてくるがっしりした長身は、間違いようもない。大上くんだった。


「ただいまー」


「大上!! お前今までどこにいたんだよ!」


 一番仲の良さげな馬嶋くんが、大上くんに詰め寄った。根津とわたし以外の八人で、大上くんを囲うように集まる。


「はは、わりーわりー。ちょっとそこらでウンコしてたわ」


「なんだよ! 心配かけさせやがって!!」


「すまんって。紙切れちまってさー。仕方ないから柔らかそうな葉っぱをむしって、頑張ってたわけよ」


「きったねぇ……」


 犬飼が彼の手を眺めながら呟く。今回だけはわたしも同意見だ。


「うっはっは、問題ねーって。キレッキレだったから」


「大上くん、下品……」


 ウチの部の入鹿ちゃんからの、蔑むような一言。言葉の切れは入鹿ちゃんの方が上のようだ。


「そりゃないよー、ユウちゃん」


「ぎゃーっ! 寄るな寄るなっ」


 両手を前に突き出した大上くんが、彼を囲う八人に対して、無造作に近づいていく。大上くんが足を踏み出す度、近くに居る子が後ずさっていった。


「下品なオオカミだね、ホント」


 傍らに居る根津が、くすっと吹き出す。

 大上くんが暴れる輪の中で、椎名くんも笑っていた。


 翌朝。既に日差しは強くて、蒸し暑い。夜とは打って変わって、サンバカーニバルのように虫達が騒いでいる。

 椎名くん達のグループも、わたし達のサークルも、キャンプの日程は今日までだ。お互いに手伝いつつ、テントを始めとした荷物を撤収する。

 最寄りの駅までみんなで揃って歩いてきた。ここで解散だ。

 久しぶりの街の音に、帰ってきたんだと実感する。その反面、数日間を共に過ごした仲間達とのお別れだと思うと、しんみりしてしまう。駅の壁の辺りで団子になって、わたし達は別れを惜しむ。


「よっしゃ、今度この面子で合コンしようぜ〜!」


「いいね!!」


 大上くんが提案し、イノちゃんが同調する。昨夜一番暴れてたくせに、一番最初に眠っていたらしい元気印の二人だ。


「んじゃ、都合良さげな日に連絡するわー」


 なし崩し的にリーダーポジションにいる犬飼が、大上くんとアドレスを交換する。

 一通り連絡先交換を済ませた後、大上くん達のグループと別れた。とりあえずわたしも、猿渡さんとイノちゃんの番号をもらっておいた。椎名くんはわたしに軽く手を振ると、そのまま背中を向けて、振り向かずに行ってしまう。


 ——椎名くんの番号、聞けなかったな。


 わたしは女の子が好き。恋をする相手はいつも女の子だった。でも、あの瞬間はかなり——、ドキドキした。


「ネ子、何かイイコトあった?」


「ん、どうかなー。それより、ねずー。帰り喫茶店寄ってこーよ」


「はいはい」


 根津は本当に優しくて、可愛い。昨晩も眠れるまでわたしの髪を撫でてくれた。なかなか眠れなかった理由、その半分が椎名くんのせいだとは、なんだか後ろめたくて言えなかった。むしろ言った方が、根津は安心するかもしれないけど。自分の未練がましさに頭がくらくらしてくる。

 ——いつか、根津に向かって紹介する日が来るのかな。わたしの彼女か、彼氏を。


「俺も混ぜろよー」


 ツヨキチが割り込んでくる。よりにもよって、根津とわたしの間に。コイツはいつかぶん殴ってやりたい。そして、根津を不幸にするようなことがあれば、すぐにでも張り倒す。むしろそうなったらわたしにもチャンスが巡ってくるかもしれない。

 わたしの心の針は、まだ根津を向いている。そんな不安定な恋心と、もうしばらく付き合っていく必要がありそうだった。


 ——それにしても、あの夜の椎名くんは狼だったのかな。


 ——夜は狼の時間、せいぜい喰われぬよう気を付けて過ごしなされ。


 ——なんちゃって。


「どうかした?」


「なにもー! さ、ツヨキチは置いといて。行こうよ、ねず!」


 都会の日差しが降り注ぐ交差点を、根津と一緒に走り抜ける。

 基本は蒸し暑くてダルい、けれどもたまに吹き抜ける涼風が心地良くて、この季節が永遠に続いてほしいと思ってしまう。

 わたし達の夏休みは、まだまだ終わらない。




   ***おしまい***

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