コーラルピンクな境界線


 神様、どうか——。

 お友達が欲しいです。




   *

   *

   *




「ちーゆ」


 眼前で優しく紡がれる。心なしか、鼻にかかったような音色。私を呼ぶ、彼女の声。

 そこは一面の真っ暗闇だった。それもそのはず。瞼にありったけの力を込めて視界を塞いでいるのは、他ならぬ私自身なのだから。


「目、つぶるの早すぎ」


「だって……」


 数多は、聞き分けのない子どもを相手にするように呟いた。

 見えなくても、すぐ側に感じる。彼女の体温を、呼吸を。身体の境界線が溶けて無くなって、少しだけ早くなった心の音が、私のそれと同期する。

 その感覚だけで、あまり容積が大きくない私の胸は、いっぱいになってしまう。

 シャープな鼻先が、私の団子鼻をなぞるように突ついてくる。けれど、肝心な部分は絶対に触れ合わせない。まるで焦らすのを楽しんでいるかのようだ。


 ——もう何度目だろう。こうして数多に叱られるのは。


 不意に、左頬にひんやりとした感触。真冬の、しかも夕暮れ時の空気に晒されていた手のひらが、私を包み込む。かなり前に暖房は切られてしまっていたから、室内は身震いするくらい冷えていた。


「ちゃんと見てて。じゃないと止めちゃうよ。わたしだっていつも緊張してるんだから」


「うん」


 私は溜めていた息を漏らすと、薄く片方の瞼を上げた。そこには、数多の陶然と細められた瞳がある。また目を伏せてしまいそうになるけれど、息を詰めて堪えた。


 深呼吸、よし。心の準備——、よし。


 数多はわざわざ一旦顔を離して待っていた。そして、今度はさっきの倍は時間を掛けて近づいてくる。

 その濡らしたように艶やかな唇に、目を奪われてしまう。抑えめのコーラルピンクは、私とお揃いだ。数多が私らしいと言い、私が数多らしいと言った色。

 ——あと、秘め事をするにも都合が良い。


 数多のうなじに手を伸ばすと、髪がこぼれて頬にかかってくる。立ちこめる花の香りは、数多の使っているシャンプーか、それとも彼女本人のものか。

 ——温もりが触れる。


 最初の頃はお互い緊張してしまって、触れ合わせるだけでも大変だった。特に私は。完全に挙動不審だったと思う。今でもそのドキドキは変わらない。けど、少しは落ち着いて見つめ返せるようになった、はず。

 私の下唇を優しく甘噛みする数多。今日は随分際どいところを攻めてくる。少しだけハラハラしながらも、あらがえない。しかし不意に——、その唇がさらに下へと滑り落ちていきそうな感触を覚えて、にわかに慌てる。


「なんちゃって」


 身じろぎする私に、意地悪っぽい数多の声が降ってくる。絡めていた指が固くなったのを察したのかもしれない。コーラルピンクの境界線の手前、たぶんぎりぎりのところで、彼女の唇は離れていた。

 背中がふつふつと沸いて、頭皮が汗ばんでいる。ついでに、目頭がひどく熱い。


 たぶん私は安堵している。——はずなのだけど、意外とそうでもないような、微妙な気持ちで呟く。


「チャレンジャーだよね、数多」


「ちゆが嫌じゃなきゃ、いつでも越えちゃうんだけど」


「それは——、ノーコメント……」


 依然として、数多は視界の九十パーセントくらいを占領していた。


「まぁ、何かあったらわたしも困るだろうし、今は我慢するよ。——だから、おかわりね」


 今度は反応する間もくれなかった。束の間だけ開いていた隙間が埋められて、これで数多が百パーセント。再び、胸の芯を溶かすような心地良さに酔いしれる。


 密室にいるのは、一人掛けのソファーに崩れるようにもたれかかった私と、それに覆い被さる数多の、二人きり。

 ここは図書室の奥、第二資料室。主に古い資料などを保管するために設けられているその小部屋に、立ち入る生徒は殆どいない。文芸部員で図書委員という立場をフル活用して手に入れた、私の小さな楽園だ。

 そして、数多は夏の終わり頃から居着くことになったもう一人の住人。


 学び舎の一角で何してるんだと、若干後ろめたい気分にならなくもない。

 でも、私達はこの場所で何となく結ばれた。最初に口火を切ったのは数多。

 外の世界にこの関係を持ち出さない。それ以来どちらとはなく決まったルールを守り続けている。

 この部屋に数多がやってきたその日から、肌身離さずポーチに入れて持ち歩いていたリップスティック。今ではもう、二割くらいの長さ。この冬できっと使い切ってしまう。


 そして冬が明けたら——、この小部屋ともお別れなのだ。

 だから、せめて今だけは。蕩けるように甘い時間をもうちょっとだけ————。


「ちゆ」


 その呼び名は、何度も鼓膜をくすぐる。千夜野と友希——苗字と名前の一文字目を繋げて、数多が付けたニックネームだ。


 ——千の夜を野に座して、ただ友をこいねがう。


 彼女に会うまでは、友達とは求めるだけで手の届かない存在だった。一人ぼっちなのが当然なんだと、ずっと諦めかけていた。


   *

   *

   *


「ちゆ、って呼んでいい? 千夜野さんのこと」


「は、はい」


 油彩のキャンバスに木炭を走らせながらそう訊ねてきた友枝数多に、少なからず面食らう。そんな風に呼ばれるのは初めてだった。


「わたしのことは数多でいいよ」


「え、ええと……、数多さん」


「いや、呼び捨てで。みんなにそう呼ばせてるからさ」


「数多……」


「くるしゅうない」


 ——ああ、これは悪い人だ。


 友枝数多は同じ女子高に通うクラスメイト。それ以外に適切な表現が浮かばなかった。話したことも殆どない。むしろ自分とは違うタイプの子だと敬遠していた節さえある。

 こうして美術の授業でペアになったのも、先週彼女が風邪で休んだせいで、一人あぶれた私と組むことになっただけの話である。


 そもそも、私が仲良しと言える子はクラス中を見渡してもいないのだ。地方から転校してきて早半年。生来引っ込み思案な私は、未だに周りと馴染むことができずにいた。他人のペースに合わせるのは苦手だし、楽しそうにお話しする女子の輪には眩しすぎて入っていけなかった。


 そんな私に対して、数多は屈託なく会話を振ってくる。


「お昼、食堂で一緒に食べよう。他にも何人か一緒だけど、いいよね」


「あ、でも私——」


「お弁当あるんでしょ。知ってる。でも、ウチの食堂は購買から持ち込んでもオーケーだし。お弁当だって大丈夫だよ」


 それは初耳だ。てっきり持ち込み禁止だと思い込んでいた。それ以前に、食堂を使うという発想がなかったのだけど。


「それならまぁ、——行ってみます」


「よかった。断られたらどうしようかと思った」


 胸をなで下ろす数多。私はそれを大袈裟だなぁと思いながら見ていた。


   *


 数多の誘いで、彼女やその友達と初めてカラオケに行った。

 その帰り、電車組が改札をくぐる背中を眺めつつ、私は密かにテンパっていた。


 ——え、ええと。なんて言って見送ったらいいんだろう……。


 引越しの前日、向こうの友達に「また会おうね」と言ったきり、別れの挨拶なんてしたことがない。


「ちゆ」


 迷いのない声が、指をくわえて堂々巡りをしていた私に降り注ぐ。それから手首が掴まれて、真上に振り上げられ、そのまま上空で忙しなく左右に振られる。


「それじゃ、また明日! 学校でねー」


 私も重ねて、「また明日!」と叫ぶ。

 改札の向こうから手を振り返してくる彼女達も、口々に「またー」と黄色い花を咲かせる。


「ユッちゃんも、帰ったらグループ招待するから!」


「うん!」


 久しぶりの友達っぽいやり取り。その生々しさが信じられなくて、さっきから手を振りながら、何度も目を擦っている。長い間遠ざかっていた。遠ざかり過ぎていて、いつの間にか願うだけが当たり前になっていた。——ともだち。

 目一杯に開いた手のひらは、数多と私の間を行ったり来たり。地面で揺れ動くシルエットは、二人で一つのメトロノームのようだ。繫がった部分から広がる温かかさが、鼓動に乗って身体中に染み渡る。


「さて、これから大変だよ」


「な、なにが?」


「千人作らなきゃ、友達。ちゆの名前に負けないようにね」


 ちゆ——千友。千人の友達。数多が見つけてくれた視点は、私の世界を百八十度変える。


「友達といるときのちゆの表情、すごく良いんだから。もっとみんなに知ってもらわなきゃ、もったいないよ」


   *


 それからというもの、数多は私を同行させることが多くなった。

 実際、彼女の交友関係はかなり広かった。同級生、バレー部員、時には一見繋がりのなさそうな先輩や後輩まで。

 彼女に誘われるまま、お昼を一緒したり、放課後や週末に遊び回った。カラオケ、ボーリング、ウィンドウショッピング。中には本好きの子もいて、好きな作家の話とかで盛り上がるのは楽しかった。

 バレー部の試合は必ず応援に行った。二年生エースである数多は、上級生にも引けを取らない活躍をしていた。その勇姿を二階の応援席からじゃなく、もっと近くで見たくなって、勢い任せにバレー部のマネージャーにまでなった。

 季節が一つ過ぎる頃には、友達がたくさんできていた。もちろん千人とは言わないけど。図書室の奥の部屋で独り読書にふける毎日が嘘みたいに、携帯のアドレス帳が埋まっている。


 そして、友達の中でも数多は特別だと、そう意識する気持ちも当たり前のように芽生えていた。


   *

   *

   *


 最初から、彼女は察していたのかもしれない。私が友達を希っていることを。


 でも、私達は友達以上を欲しくなってしまった。

 境界線を越えたその先の関係は何と言って表せばいいんだろう。境界線をもう一度跨ぎ直して、何事もなかったように元の友達に戻ることは、できないんだろうか。

 時間の流れも、私達の関係も。一方通行の矢印みたいに、前に進むだけで戻ることは許されない。沢山の矢印が交わって、また離れていく。私の矢印は偶然にも数多と交わってしまった。でも、道幅が細すぎた。どんなにつま先立ちをしたって、並んで渡れないくらい。

 ううん。二人で転げ落ちる勇気が、私にはなかっただけだ。


 ——私は数多の友達になりたい。


 そう囁き返す。


   *


 私は身を起こそうとする数多の腰に腕を回す。

 数多は仏頂面だ。


「もういっかい」


「離れるって言ったの、そっちだよ」


 素っ気ない声が振ってくる。


「——うん。友達でも、こうするくらい普通だよ」


 数多が私に寄りかかる。


「あーあ、めんどくさい」


 ——めんどうくさいなぁ。


 その言葉は、パーカーを着た彼女の両腕に包まれた私の耳朶を、やんわりと打った。


 数多が立ち上がり、乱れたシャツとパーカーを直す。

 私は彼女に手を振る。


「また明日、学校でね」


「そうね、また明日」


 数多が出て行った扉を見つめて、リップスティックを強く握りしめる。

 何年かしたらまた、この部屋で小さな芽を育む子達がやってくるのだろうか。だとしたら、一つだけ助言をしてあげたいと思う。




 外は怖いけど、その関係にきちんと名前をつけてあげて。

 そうすれば、こんなに切なくならずにいられる、かもしれないから。




   ***おしまい***

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