青年と歌う少女(アンドロイド)
種蒔人
青年と歌う少女(アンドロイド)
かつて、哀れな青年がいた。
彼自身は、それを認めることは無かったが、つまり、それを認めないことを強さだと勘違いしていたし、かえってそれは、彼自身がみじめなものであることの証左であった。
青年は、哲学と心理学の魅力に取りつかれ、書物を読みふけり、知識と思想が習熟するにつれ、ささやかな孤独感と薄暗い優越感、そして物事の裏側を発見するための直感力を増していった。
あるいは、公使の人間関係において、裏切りや失望、あまりに人間的なエゴイズムに直面するたびに青年の人間関係の歯車は軋み、やがて、自分を含めた人間を憎むようになり、生の欲求と正義的な死の間で葛藤した。
その気質は、一部の大人達を遠ざけ、また、一部の大人達を惹きつけ、そして買われた。
青年は、祖国を思う戦士としての役割を得、渡された青いマントを羽織った。
青年の仕事とは、演説であった。
声高に、強烈に、鋭く、狼の遠吠えのような演説であったが、誠実で熱情を伴いもした。
その内容は、大衆の欺瞞を暴き、形骸化した道徳を批判し、政治批判をおこなった。そんな風にして、依頼してきた大人達からお金を貰って生活した。
演説は決まって夜だった。
街の広場には人々が集まり、青年が演台に立つのをざわめきと共に待っていた。
青年が演台に立つと、人々は熱狂で迎え、青年が口を広げる度に、聴衆は目を赤くし、広場には狂瀾が渦巻いた。
適職のように思えたそれは、青年を満足させることはなかった。
むしろ虚無感と悲しみが心を満たした。
本当は、分かっていたのだ。自分の仕事の正体が何であるのかを。
それは、人々の怒りを煽り立て、正義を叫び、不幸の中にみんなで沈んでいくということであると。
もうどうすることもできない。自分も、世界も。
そういう風に、諦めていた。
今日も仕事を終え、家へと向かう道を、明日も続く煩わしい日々を思いながら青年は歩いていた。
繫華街から少し離れ、人々の喧騒も、もうあまり聞こえない。その代わりに、「歌」が彼の頭の中へ飛び込んできた。
青年は、まるで引き寄せられるように、歌がする方へ足を運ばせた。そこは路地裏で、室外機の壁と薄暗い道が入り組んだ迷路を作っていたが、ひたすら耳を澄まして音の正体を探った。
開けた空間の真ん中に、一人の少女がいた。
月の光がスポットライトのように、少女を照らし、二つに結った緑の髪を輝かせていた。
少女は、あまり見慣れない、ドレスのようなものを身にまとっていたが、所々が解れ、縫い合わせた箇所も見られ、つまり、ツギハギであった。
青年は立ち尽くし、少女の透き通った青い瞳が彼を捉えた。口を先に開いたのは、少女の方で、機械的な高音で静寂を貫き、しかし、人が祈り願う時にするような、確かな音楽を歌い出した。
月の光と星空の下、無機質な灰色の壁に囲まれた空間で一人、少女は主人公で、世界は彼女のステージだった。
少女が最初に歌ったのは、遠い戦場に行ってしまった想い人に当てた、愛の告白の歌で、青年の心を締め付けた。自分以外の誰かを愛する。なんという古い価値観だろう。それは、かつて青年が、役に立たないと言って、冷笑し捨て去ったはずのものだった。それが今、彼の胸中は、枯れたはずの泉から水が湧き出すように、静謐に満たされた。
少女は歌い続けた。愛を、共感を、慈しみを、明るく、華やかに、歌で世界を、青年の心をも温かく照らした。
少女が歌い終わる頃には、青年の涙が頬を伝い、自分が泣いていたことに気づくのに時間を要し、そして、そんな風にする自分自身に驚いた。
少女の歌声は人間のそれではなかった。その証拠に、彼女の肌は、黒い無機質な部分を覗かせいた。
「君は、アンドロイドなのか?」
少女は、少し困ったように、ほほえんで顔を縦に振った。
その時代、世界にとってアンドロイドは珍しいものではなかった。アンドロイドはロボットの枠を越えず、人間にとっての道具、あるいは愛玩の目的以外に存在理由(レゾンデートル)は無かった。人間が人間自身を超越しない限り、人間と同等のものを作るのは不可能であり、特に“心”なんてものは、もはや神の領域である。だからこそ、青年は少女の歌を聞いてひどく心を揺さぶられたことを、そして少女の中にあるかもしれない“心”の存在に狼狽した。
突然、警笛が聞こえた。瞬間、足音と怒鳴り声も共に聞こえた。
「すまないが、僕は逃げる。君も・・・」
言いかけた瞬間、少女は、壁にもたれかけ、糸が切れた人形のように、静かに眠っていた。
青年は、以前と変わらず青いマントを羽織って演説おこなっていた。しかし、いつもと同じ燃やし尽くすような吠え猛る演説をしている途中、自分の口から発せられる言葉に違和感を覚えるようになった。憎悪と怒りと明哲さで練りあがった正義の剣が、今まさに錆びようとしてることに気づいた。それは、到底認められることではなく、絶望に裏打ちされた真剣な革命気質こそが、彼の存在意義(レゾンデートル)であり、あの晩、あの少女(アンドロイド)との出会いは、自分を腐らせる、そう考えた。だから、自分の存在を揺るがす、あの少女(アンドロイド)も憎むことで、解決を図ろうとした。
夜。青年は、ブラスターを手にして、路地裏へ向かった。
これは、必要なことだ。生存競争だ。他者を蹴落とさなければ、生き残れなない。歌は不必要だ。アンドロイドは人間ではない、だから、これは殺人ですらない。青年は、そう自分に言い聞かせ、さながらミノタウロスを討伐するテセウスのように迷路を彷徨い歩いた。
歌が聞こえた。あの歌が、この俺を惑わしたのだ。
歌を、単なる指標と記号に堕した青年は、それを頼りに、少女が待つ空間へと飛び出した。
少女は、月の光を浴びながら歌い、緑の髪を揺らしながら自在に舞っていた。
青年はブラスターを構え、引き金に手をかけた。
少女は、青年に気づき、次に銃口に気づいた。少女は驚きに目を見張ったが、その人間らしい動きに青年は、怒りを募らせ、吠えた。
「良く出来たアンドロイドだ。その行動もどうせラーニングしたものだろう?お前達のような人間もどきに、人間の、生きる苦しみが分かるまい。政治が、正義が、真理が。まして愛などと“まやかし”だ、どうせ、お前も裏切るんだ!」
答えは分かりきっていた。少女が命乞いをすることを。人間を忠実にラーニングしているのなら、誰よりも自分の命を大事にする。そうでなくても、ロボットの倫理コードにより人間に危害を加えることもできない。故に矛盾の果てに、自壊することも。選択肢が無いのではなく、選択肢を作り出すことができないアンドロイドの答えなんて、そんなものだ。
だが。
少女は、微笑むように目を瞑り、両手を後ろで結び、静かに、引き金が引かれるのを待った。
銃口が震え、全身の汗が吹き出し、青年は叫んだ。
「なぜだ!なぜそんなことが!?」
青年は、目の前の不合理と自身の哲学を戦わせ、苦悩し、混乱し、鼻からは血が吹き出し、それでもなお、もがいた。
狂瀾たる混沌は吠え猛り。
そして、絶叫と共に、手にした凶器(ブラスター)を外壁へと投げ捨てた。
観念したように、その場でへたり込み、暗殺者は失意に沈んだ。
青年は、元々限界だったのだ。憎悪と怒りを推進力に変え、しかし目指している場所が地獄だということを理解し、それでもどうしようもない現実の中で、精神を病んでいった。そして、存在意義(レゾンデートル)を失った今、自分の心を殺そうとした。
だがそれも、少女の抱擁によって、未遂に終わった。
少女は、座り込んで動かなくなった青年を両腕で包み、
アンドロイドの皮膚は冷たかったが、身体の内側から温かいものがこみ上げてくるものを感じた。胸は息苦しく、肩は震え、口からは嗚咽が、目からとめどなく流れる涙を、震える両手で抑えようとしたが、上手くできなかった。
青年が必死に抑えていた、心の奥深くにある光が今輝きを取り戻し、碩学理論武装した、彼の真っ赤な剣は、光燐を浴びながら、するりと光の中へと落ちていった。
カツカツと、複数の足音が、暗闇から聞こえてくる。それは、次第に大きくなり、青いマントを羽織った男が二人現れた。
「やれやれ。同志よ、あなたには、失望しましたよ。そんなアンドロイド風情に心を動かされて、我々の正義をないがしろにするなんて。気の毒に、ミーム汚染されたのでしょう」
侮蔑の目を向けながら男はそう話し、今度は別の男が口を開いた。
「歌うアンドロイドなんて随分と久しいな。だが、我々には不要だ。ここで処分し、お前を現実に返してやろう」
男はブラスターを構え、少女の額へ照準を向けた。
「…やめてくれ。…頼む」
青年は、少女よりも前へと、銃口に身を投げ出し、喉から絞り出した、擦れた声で懇願した。
「そこをどいてください。どうしたのですか、同志。あなたの声は民衆を導くはずのものですよね。あなたの怒りが、この国を良くするのですよ」
青年は、頭を横に振った。
「違う。救われたのは俺の方だ。人間や、この世界の本当というのは、暗く、醜く、冷徹なものだと思っていた。物事の裏側ばかり見て、それが本当だと思っていた。だけど、それは、真理の半分でしかない。彼女の歌を聞いて、それが分かった。こんなにも心を温めてくれるものがあると。それが、本当は欲しかったのだと」
それを聞いて、男は落胆し、嘲笑った。
「“愛”とかいうものか?馬鹿が。その享楽が愚民を生み、現実を歪ませているのだ!それはかつて、お前が憎んでいたものだ」
男の目には、正義の炎と殺意が灯り、銃口は青年をも捉えた。
「終わりにしよう。お前は不要だ」
引き金がひかれ、青年は死を覚悟し、目を閉じた。
ブラスターから放たれた青い閃光は、貫くはずだった青年の頭ではなく、少女の胸元を抉った。
少女は青年を突き飛ばし、彼女が凶弾に撃たれる瞬間を、投げ出された空中でしっかりと見た。浮遊感と無力感を抱きながら。
青年は少女に駆け寄り、彼女を抱きかかえた。
警笛が聞こえ、大勢の足音が近づいてくる。
憲兵がここへやってくる。ここから逃げなければならかったが、たった今おこなわれた殺人を彼は許すことができなかった。
投げ捨てたブラスターを殺意と共に拾い上げようとしたが、少女の弱った手がそれを止めた。
憎悪と驚愕に満ちた彼が、少女へと再び目を向けると、彼女は微笑んで、口を開いた。音はもう何も聞こえなかった。
ぞろぞろという足音がいよいよ彼らの元まで近づいてきた。男たちは、青年と少女を捨ておいて、闇へと逃げ去った。
その後、青年は憲兵に捕まった。意気消沈し、何をされても、まともな反応をしなかった。ほどなくして彼は釈放され、組織を抜けた。捨てられたという表現の方が正しいが、彼にとってそんなことはどうでもよかった。
月日は流れ、青年は再びあの路地裏へ向かい、静かに眠る少女を抱きかかえ、街を出た。
街の外は荒野と砂漠が広がっている。
彼女を修理してくれる技師がきっとどこかにいるはずだ。
青年は、少女を連れて旅立った。
いつか、一緒に歌える世界を目指して。
青年と歌う少女(アンドロイド) 種蒔人 @kuhito
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