男だって抱きしめられたい

@yawaraka777

第1話

「じゃあ。元気でな。」「うん。そっちもね。じゃあね。」玄関の扉が静かに閉まる。と住んでいた香菜子が出て行った。浩一は、一人になった部屋で溜息を吐く。その声は、二人で住んでいた時よりも、良く響く気がした。

 二人が一緒に住み始めたのは、3年前の事である。付き合い初めてから1年で同棲を始めた。お互い一人暮らし同士であったが、一緒にいる時間が多くなり自然と同棲の話しになった。二人で部屋を探し、即決でこのアパートに決めた。3階建てで部屋数は各階3部屋ずつの鉄筋コンクリート造り、間取りは2DKである。二人は、2階の真ん中の部屋に住む事になった。日当たりの良い南向きのリビング、料理好きの香菜子の為に出窓付きの広いダイニングキッチン、物干し竿が二本平行に掛けられる幅のベランダ、そこからは、近くに住む子供達の遊び声が聞こえた。アパートの前には都心にも関わらず小さな畑と森が有り木々のざわめきが二人を歓迎していた。

 二人用のソファーを新しく購入し、カーテンは香菜子好みの柔らかいカスタードクリーム色、リビングのTV周りは浩一チョイスでシックな木目調のTV台を置いた。もう1部屋は趣味の部屋で、本棚には二人の好きな漫画、浩一のロードバイク、香菜子のスノーボードが置かれた。

 家事は、二人で自然に分担するようになった。料理が好きな香菜子がご飯を作り、綺麗好きな浩一が掃除を担当した。二人の生活費は、香菜子が管理して、浩一の自由に使えるお金は月の小遣い制となった。

 お互い初めての二人暮らし。一緒に生活すること自体が楽しかった。同じものを食べて、同じ布団で寝る。出かける時には「行ってらっしゃい」が、帰ったら「お帰り」があった。クリスマスのホームパーティーでは、香菜子がはしゃいでクリスマスツリーの飾り付けを行い、気合を入れてミートパイ、フライドチキン、ケーキ等を手作りした。初めての部屋での年越しは、年末特番『笑ってはいけない24時~』を観て、笑い転げていたら、いつの間にか年が明けてしまい慌てて新年のあいさつをして、キスをした。小さな全ての事が輝いていた。

 しかしいつの頃からか、香菜子の一方的な我が儘が増えた。自分は、友達と遊びに行くが、浩一が行くことを嫌がったり、家事は、ほぼ浩一任せになって、香菜子は部屋で横になっている始末。浩一が熱を出した時にも、香菜子は、何処に行くか告げずに出かけてしまい、看病は全くしなかった。そういった事を、ちょっとでも指摘しようものなら五月蝿そうに頭を押さえて直ぐに「頭が痛いから後にして。」と聞こうとはしなかった。その度に、浩一は、怒りを飲み込んだ。しかし、ある日浩一の知らない男と二人きりで、街を歩いているとこを人づてに聞いて一気に浩一の気持ちは冷めた。自分はこんなに尽くして我慢もしていたのに裏切られた気持ちが強かった。その日からの二人の雰囲気は部屋全体に冷たい針が敷き詰められているかの様でただ痛かった。結局、浩一から別れを切り出すことになった。

 浩一は、一人リビングで大の字になりまた大きな溜息を付いた。「また、一人か・・。」取り敢えず、何もする気が起きない浩一は、そのまま横になっていた。久しぶりの失恋、一人暮らしになった事に何とも言えない感情が胸を付いた。しかし、同時にホッとしている自分も居た。浩一自身、合わない二人で居ることに違和感を覚え、疲れていたのである。これからは、また自分のペースで生活できる!そう思うと浩一は、伸びをして勢いよく起き上がる。まずは、部屋を掃除しよう!片付けられない香菜子が、置いていった荷物の整理をする。無駄なものは徹底的に捨てる!争いが絶えなかった、この部屋を浄化しなければ!

それから霧吹きスプレーを買ってきて中に重曹水を入れて中も外も雑巾で磨き上げた。重曹水は、掃除に使えるだけではなく、人の想いを浄化する作用もあると誰かに聞いたのを思い出した。冷蔵庫の中には、消費期限の切れた調味料や乳製品、冷凍食品、萎びた野菜等が出てきて、レンジの中は、黒い焦げ付きがビッシリ蔓延っており「うえェ。」となりながら磨いていった。今まで、家事はしていたが、料理は香菜子に任せていて居ない日は惣菜で済ませていたので、まさかここまでとは・・・、とショックを受けていた。

 親友に別れたことを告げると「引っ越せ」と言われたが、浩一は引っ越しをする気は無かった。ここの土地が気に入って居るという事もあるが、引っ越せない理由があった。浩一は、1年前に仕事を辞めて夢である物書きを目指しバイト生活しているので、引っ越しをする余裕は無かった。

 浩一は、次の日も掃除を続けた。今度は、自分の物の整理いわゆる断捨離を敢行する。服から始まり、靴、漫画等要らなくなった物を一気に捨てるか、売っていった。中には、なんだこれ!?となるものが出てくる。謎の文字が入った木刀、明らかにジャケ買いして失敗したCD、浦安にある鼠の夢の国に行ってないのに何故か有る缶カン、模造刀、覚えのないお守り・・・。一気に処分していった。

その後は、重曹水で部屋を磨きに磨いた。ついでと言わんばかりに、普段行わないベランダや窓ガラス、サッシ、押し入れの中まで磨いた。とにかく部屋中磨いたのである。これには、一ヶ月近く掛かった。

 部屋が綺麗になっていく中で、浩一の中にも変化が出てきていた。今まで、この部屋に対して、さっさとここから出てやるという想いしか無かった。それが、徐々に愛着が湧いてきて、どうやったらより快適に過ごせるだろうか?と考えるようになっていた。バイトで疲れて帰った時にも部屋でホッと出来る安心感を覚えるまでになった。それは、まさしく香菜子との二人の部屋から一人の部屋つまり『自分の部屋』になったという事である。

それから浩一は、より一層バイトに執筆に毎日忙しくしていた。執筆は一人集中出来る部屋で行う。今の部屋はそれをする事ができる最適の場所になっていた。浩一にとって一人執筆する時間が何より大切であった。

そして日々は過ぎ、クリスマス、年明け、誕生日、バレンタインが来たが、どれも去年までとは違い一人部屋で過ごした。クリスマスの飾り付け、鏡餅、サプライズ、手作りチョコの匂い、そんなものは今の浩一には無縁であった。同じ事を繰り返す毎日。誰かの為に頑張っているわけでもなく、ただ自分の為に努力する日々。変化の無い孤独な日々、「また落選か・・。」結果が思うようについてこない毎日。このころ浩一は、『一体、独りで何の為にこんなに頑張っているんだろう?ある時には『ずっとこのままだったら?』という恐怖に襲われ眠れない冷たい夜を過ごす事もあった。その時には、ただひたすらに朝の光を待つしか無かった。

それでも、折れずに独り書き続てるのは、『自分で決めた事』だから、そして読んでくれた人の「面白い」って言ってくれた時の喜びが忘れられないからである。

『ピンポーン』「はーい。」バイトが休みのある日、チャイムが鳴る。『ピンポンピンポン』

「はいはい、今出ますよ。一体何・・・。」玄関を開けて、浩一は固まる。

「・・香菜子?」

「こんにちは。」

「あ、あぁ久しぶり・・。何で?」

目の前に居るのは、香菜子であった。大きな瞳、真っ直ぐな鼻筋、はっきりとした眉、薄桃色した唇、茶色がかったストレートヘア、正に香菜子が目の前に居る。この部屋から出て行ってから一度も逢って無い香菜子は変わって居なかった。強いて言えば、髪の色が少し明るくなったか。

 「ねえ、上がって良い?」固まっている、浩一に香菜子が声を掛ける。

 「あ、あぁどうぞ。」

 「やったー、お邪魔しま~す。」白いサンダルを脱ぎ、部屋に上がる香菜子。初めて来た部屋のように周りをキョロキョロとしてリビングまで歩いていく。

 「どうぞ。」

 「あっ、ありがとう。喉渇いてたんだ。」

 冷蔵庫にあるオレンジジュースを香菜子に出して、浩一もソファーに座る。またこの部屋に香菜子が居る。まじまじと見つめる。香菜子からほのかに漂う香りに浩一は僅かに胸の鼓動を早めた。久しぶりに香る香菜子の匂いに何ともいえない感覚に背中に汗をかいた。しかし同時に、香菜子の匂いが変わっている事に気付く。一緒に住んでいた時は、感じたことの無い香りであった。浩一は、改めて別れた事を突きつけられた感を受けて胸がギュッと痛んだ。

 「元気だったか?」

 「うん。元気だよ。そっちは?」

 「あぁ、元気でやってるよ。」

 「・・・・。」

 「・・・・。」浩一は、久しぶりの香菜子に何を話せば良いのか言葉が見つからず、沈黙の時が流れる。開いている窓からは、風が吹いてカーテンを揺らしている。その風が、外で遊んでいる子供の声も運んでくる。浩一の背中の汗はとめどなく流れていた。

 「そういえば、本書いてんだよね?」沈黙を破ったのは、香菜子であった。

 「えっ?書いてるけど・・?」

 「ちょっとさ、読ませてよ。良いでしょ!?」

 「い、良いけど・・?」言いながら浩一は、パソコンに向かい立ち上げる。

 「ほら、どうぞ。」浩一は、以前書き上げた作品のファイルを開いて香菜子に見せる。

 「ありがとう。どれどれ・・・。」香菜子は無邪気にパソコンに向かう。そして、真剣な表情で読み始める。香菜子のその表情に浩一は、違和感を覚える。

 4、50分経ったか、浩一は黙って読んでいる香菜子の邪魔をしないように静かに座って漫画を読んでいた。

 「ふ~ん。なるほどね。」香菜子が伸びをしながら、口を開く。そのまま浩一の方へ向く。

 「中々、面白いわね。良く書けている。主人公とその周りの人物像がしっかりしていて読みやすい。でも、ストーリー展開がちょっと弱いかなぁ。せっかくの魅力的なキャラクター達が生かしきれてない気がするかな。もっとどんでん返しを狙っても良いかもね。読む人がこの先どうなっちゃうの?続きが気になる~!って感じ。」聞いてもいないのに、香菜子はズラズラと感想を告げた。しかし、それが結構的確で浩一は、ほうっと感心してしまった。

 「・・つか、君誰?香菜子じゃないだろう?」

 「えっ!?香菜子だよ。何言ってんの!?」

 「いや、そんな筈はない。香菜子は俺が本を書いている事は、当たり前のように知っている。だってそもそも俺に書く事を勧めてくれたのは香菜子自身だから。それに香菜子は、一度あの話を読んでいる。俺が初めて書いた話し。それを香菜子は読みながら泣いていた。だから、君は香菜子じゃない。一体誰だ?双子の姉妹か?」

 「ありゃぁ。もう少し引っ張れると思ったけど、嵌められたのね。まさか読んでる話しだとは。そう如何にも私は、双子の妹の美菜子。カナ、うんと香菜子じゃないよ。ハジメマシテ。」

 「えっマジか!?カマかけたら当たった。妹が居るのはしっていたけど双子とは知らなかった・・。しかも一卵性とは。」

 「あぁ、カナは私を紹介する時に驚かせたかったら言ってないって言ってたよ。そっくりでしょ!?格好もカナに見えるようにしたんだ。」

 「そうなんだ。家族を紹介する気あったんだ・・。」

 「あったりまえでしょう!?じゃなかったら、あんな純粋なカナが男と住まないよ!真剣だったんだよ!」

 「ご、ごめん。」

 「私に謝んないでよ。謝るならカナにだよ。」

 「あぁ、そだね。」言いながら、浩一は『姉妹そろって勝手だな。女はいつも男にした事を棚に上げて自分の気持ちの美化と正当性を主張してくる。』と苦々しく思った。

 「んで、美菜子さんだっけ?何しに来たの?香菜子の振りして、俺を弄りに来たの?」

 「んなわけないじゃん。カナの振りをしたのは、どんな反応するか見たかっただけ。う~ん流石にやりすぎたかなごめんね。でもね、カナが貴方に本気だったのは、本当だよ。それは、分かって欲しい。」

 「はぁ。わざわざそれを伝えに来たの?香菜子の振りまでして。訳がわからん。」

 「分かんなくないよ。凄く大切なことだよ。私達にとっては。」

 「俺にとっては、今更なんだよ!やっと、忘れて前に進みだしたのに。何なんだよ!マジで勝手な姉妹だな。香菜子が俺にどんな事してたか知ってんの!?」浩一の想いが爆発する。

 「何も分かって無いのは、そっちの方だよ。カナの想い全然分かって無い!カナはね、あの時身体の具合が良くなかったの。」

 「だから、それが勝手だって言うんだよ!具合が悪かったら何したって良いっていうのかよ?家事もしねえし、俺が具合悪かった時にも看病せずにどこかに出掛けるし、挙句には、知らない男と歩いてたって言うじゃねえかよ。香菜子のしたことを正当化する為に来たのなら、意味もねえし、聴きたくないから、帰れよ。」浩一は、言いながら頭を抱え美菜子に背を向ける。

 「全く、カナは何でこんな男を・・。」美菜子は溜息混じりに呟く。

 「あのね。カナはもう居ないの。」

 「何っ?」浩一は、思わず美菜子の方へ向く。美菜子の大きな瞳が潤んでいる。

 「カナは、死んだの。」

 「はっ!?何を言って・・」浩一のその言葉を遮るように美菜子が発する。

 「嘘じゃない!嘘でもこんな事言えない。カナは、脳腫瘍だった。頭痛が酷くて、普通の生活するのもギリギリだった。家事が出来なくなったのも頭痛のせいだし、貴方が具合が悪かった日には検査しに行っていた。知らない男は、家のお父さんだよ、一緒に検査結果を聞きに行ったの。結果は、もう手遅れで・・。だから、貴方が思うような事じゃない!」言いながら、美菜子の頬を大粒の涙が伝う。

 「えっ・・・。」浩一は、それ以上言葉が出てこない。その時に今まで我が儘だと思っていた香菜子の態度が繋がっていく。

 「亡くなったのは、一ヶ月前・・。」

 「お、俺にはそんな事一言も・・。」

 「カナは・・・。カナはね、貴方には迷惑を掛けたくないって伝えなかった。」

 「な、何だよそれ!?そんなに俺が頼り無いのか!?何だよ迷惑って。」

 「違うっ!!診断された時には、もう余命が1年有るかどうかって告げられていた。手術しても助からないって。カナは自分の身体のせいで貴方に何もしてあげられないのが本当に辛いって言っていた。貴方を支えることがカナにとっての一番の幸せだったから・・。だからカナは、悩みに悩んで、貴方に告げずに離れようと決めた。貴方が苦しまなくて済むように。そうすれば貴方にとってカナは、ただの嫌な女だったで済むから・・。それでも・・それでも、自分から別れるって言えなかったのは、大好きな貴方の傍に少しでも居たかったからだよ。貴方に嫌われても。貴方に振られるその時まで・・。そのカナの想いが分かる!?」美菜子の涙は止まらない。

 「・・・。」浩一の目の前の景色が歪みハッキリ見えない。頭が心が、聞いた事実を処理出来なかった。ただ胸の痛みだけが突き上げるようにハッキリとしていた。

 「カナは、この事を貴方には伝えないで欲しいって言っていた。でも、カナはいつも貴方の話しばかりで最期の最期まで貴方を心配していた。『あの人は、強そうに見えても本当はとても繊細な人。独りで折れてないかな?』って。私は、そんなカナの想いをずっと傍で見てきたから、貴方に伝えなきゃ、伝えたいって思った。だって、カナの大事な想いを大好きだった貴方に私が伝えないと大好きな貴方にとってカナが嫌な女で終わっちゃうから。カナはそれでも良いって想ってたろうけど、私は、イヤなの!カナに怒られるかもしれないけど、勝手かもしれないけど・・。」そう言って泣き崩れる。

「・・・。」浩一は、眼の前で嗚咽を漏らしている美菜子の震える背中を触れる事も出来ずにただ眺めていた。

美菜子は、俯きながら急に浩一に手を伸ばす。その手には、封筒に入った手紙が握られていた。それに、恐る恐る手を伸ばすと、早く取れと言わんばかりに美菜子が更に手を伸ばす。それにつられて浩一は、手紙を受け取った。

 「それは、カナが貴方に一枚だけ書いた手紙。結局、出すのを止めたやつだけど・・。何が書いてあるかは、私にも分からない。」涙を拭いながら美菜子が伝える。

 「そう。」浩一は、受け取った手紙に重さを感じた。

 「それともう一つ。」言いながら、美菜子はまた手を伸ばす。その手にあるものを浩一は直ぐに受け取る。それは、美菜子の名刺だった。そこには、大手出版社の編集と書かれていた。

 「これ?」浩一が名刺を見ながら尋ねる。

 「私、編集の仕事してんの。本気で物書き目指すなら連絡してきて。力に成れると思う。」

 「えっ?」

 「でも勘違いしないで、貴方の為じゃない。カナの為だから。」

 「分かった。」

 「うん。じゃあ、帰ります。急にごめんね。伝えられて良かった。」美菜子は、スっと立ち上がり、玄関に向かう。

 「あっ。」見送ろうと浩一も玄関に向かうが、静かに扉が閉まった後だった。

 「・・・。」浩一は、閉まった玄関を見ながら立ち尽くした。

しばらくして、フラフラとリビングに戻り、ソファーにドカっと座る。

 「ふーーっ。」天井を仰ぎ大きく溜息を付く。胸の鼓動が治まらない。

『香菜子が死んだ・・。』その事が、飲み込めない。もう香菜子の事は吹っ切れた。前に進んでいた。はずだった。

浩一は、茫然と香菜子の手紙に手を伸ばす。そこには、香菜子の字で『浩一へ』と書かれていた。少し、丸文字っぽいが読みやすい香菜子の字だ。久しぶりに見た香菜子の字、自分に宛てた最期の文字。浩一は、封筒を震える手で開ける。

『浩一へ

お元気ですか?私は、元気です。何てね(笑)

私の夢は、浩一のお嫁さんになることでした。そして、浩一の夢が叶うように1番傍でサポートしたかった・・。

いつも、私に「世界中に俺の話を届けて、皆の心を元気にしたい!」と眼を輝かして夢を語る浩一の傍に居るのが幸せでした。

私は、浩一の書いたお話しが大好きです。浩一のお話しは、人の心に温かい光を灯す事ができます。どうかあきらめないで。絶対に浩一の話は世界中の人に届くから・・。ずっと、ずっと応援しています。                              香菜子より』

みるみる読んでいる文字がぼやけていく。持っている手紙の上にポタポタと大粒の雫が落ちる。浩一の眼からは、次々と涙が溢れては落ちる。今まで押さえ込んできた想いが一気に溢れる。胸の痛みが尋常じゃない。「あーーーーーーっ!!」胸を抑えながら叫びのような嗚咽を漏らし、そのまま床に崩れ落ちる。床に四つん這いに伏せて尚も叫びながら涙を流し続ける。

『俺は・・、俺は、何てバカなんだ!!自分の事しか考えていなかった。香菜子が独りで苦しんでいるのに何にも気付いてやれなかった・・。見えていなかった。分かってなかった・・。あんなに傍に居たのに・・。あんなに好きだったのに・・。香菜子の方がずっと俺を想っていてくれてた・・。本当にクソ馬鹿野郎だ俺は・・。ごめんな・・ごめん。辛かったよな?寂しかったよな?苦しかったよな?本当にごめん・・。俺なんか好きにならなければ良かったな?そしたらこんな想いさせずに済んだのに・・・。何で香菜子が死ななきゃならないんだ!?俺が代わりに死ねば良かったんだよ!香菜子が何したって言うんだよ!?なあ、神様何でだよ!?何で香菜子を連れてったんだよ!?』

 「何でだよっ!!?何で・・!?」浩一は、床を何度も叩き、自分の頭を掻き毟る。浩一にとってこんなに苦しい涙は初めてであった。気が狂いそうな程、痛い、苦しい。あまりの苦しさに浩一は、自分で自分をキツく抱きしめていた。あまりにキツく抱きしめたので爪が二の腕に食い込み血がシャツに滲んだが、それでも離さなかった。離せなかった。

どれくらい涙を流したであろう。窓の外は夕焼けに染まっている。浩一の顔は、涙と鼻水でグシャグシャになり、床も洪水のように濡れている。呼吸も乱れており、肩の動きが激しい。頭も痛みが激しい。その瞬間に香菜子の笑顔が浮かんだ。自分の作品を読み終わった後に向ける弾けるような笑顔。

そして浩一は、ある事に気付く。書く事が折れそうな時にも支えになっていたのが、この笑顔であった事を。一番初めに浩一の話を喜んでくれたのが香菜子であった。それが嬉しくて嬉しくて話を書く事を始めた。また香菜子に喜んで欲しくて書いたあの頃・・。それがいつしか自分の夢になっていた。香菜子だけじゃ無くて色んな人を喜ばせたい。浩一は、夢の原点を思い出した。香菜子に思い出させてもらった。

『もう俺に出来る事は、ひとつだけだ。香菜子にも届くような作品を創るしかない。』浩一は、一つの決心と供にようやく起き上がった。窓から入る夕日が金色に部屋を照らしていた。


 「だから、何度言ったら伝わんの?貴方の話しの展開だと読者を惹きつけられないって言ってんでしょ!?ヒロインの想いを誤解している主人公のせいで離れ離れになるのは良いけど、誤解だったという伏線が甘いの。ったくもう・・。本当に世話が焼ける。今どこに居んの?・・・家?そしたら、ちょっと待ってて。貴方に勉強になるもの持って行くから。」

 「はぁー。」浩一は、携帯電話を耳から離し溜息を吐く。美菜子に連絡を取って自分の作品を読んでもらうようになってからこっち、毎回こんな感じである。一度として、作品を褒めてもらった事が無い。浩一は、『俺、才能無いのかも・・。』と落ち込んでいた。

ピンポーンピンポンピンポン

 「はいはいはいはい。」美菜子が着いた証のチャイムだ。

 「はい、これ。」玄関を開けるなり、美菜子が渡してきたのは、海外ドラマ『24』のDVDであった。「えっ?」

 「えっ?じゃない。これを観てストーリー展開を学べって言ってんの。」

 「今更、これ観んの?しかも何で24?俺書いてんのラブストーリーなんだけど・・」

 「はい、うるさい。黙って観る。私も一緒に観るから。お邪魔しまーす。」と勝手に上がり込む。

そこから、二人で夜通し観た。観始めたら二人共続きが気になり止まらなくなった。全部観終わったのはすっかり夜が明けた頃で、眠い眼をこすって居る浩一に対し美菜子は、このままの熱量で書きなさいと無茶を言った。しかし浩一は従うしか無く、渋々パソコンに向かう。必死でキーボードを打っている浩一の横で美菜子はスースーと寝息を立てていた。そんな美菜子に少し呆れながらも浩一は、毛布をそっと美菜子に掛けた。

美菜子に原稿を出しては、滅多打ちなダメ出しを喰らい、直してまたダメを喰らう・・。浩一は、どこかでこんな毎日が楽しいとも思っていた。一人でひたすら書き続ける作業は、限りなく孤独であるが、今は、美菜子と一緒に作り上げている感じがしていた。この姿形は瓜二つで中身はまるで違う片割れの存在は、香菜子の贈り物のような気がしている。事実大手出版社で若いながら編集を任されている美菜子のダメ出しは、恐ろしく的確で確実に浩一の力に成っていた。

それから2度の独りクリスマスを越えた春のある日。

 「よしっと。」浩一は、重曹水で床を磨き上げた。すっかり物が無くなった部屋を最期に綺麗に掃除する。この部屋では、色々あった。香菜子との幸せの日々、すれ違いの辛い日々、別れた後の一人の日々、一人で努力した事、悲しんだこと、不安で眠れなかった事、美菜子との厳しく楽しい日々・・・全てこの部屋で起きた事で部屋は受け入れてくれた。浩一は、感謝の気持ちはもちろんであるが、今までの事が一気に思い出されて、何とも言えない気持ちになっていた。

雑巾を絞り、バケツを洗って、浩一は玄関に向かう。靴を履いたあと、部屋に向かって深々とお辞儀をする。浩一の眼に熱いものがこみ上げていた。

ピンポンピンポンピンポーン

 「はいはい、今出ますよ。」少し呆れた笑顔で玄関を開ける浩一。

 「遅いよ。先生!」勢い良く、美菜子が顔を出す。

 「あぁ、ごめん。最後だからきちんと掃除をしてた。」

 「また、得意の重曹水?笑」

 「うん。だって、この部屋では色々あったから、ちゃんとお礼がしたくてさ。」

 「そっか。でも、早く行こう先生!引っ越し前に、カナに報告しに行くんでしょ!?」

 「その先生って何か慣れないんだけど・・。」

 「だって、デビュー作がいきなり本屋大賞とっちゃうんだもん、立派な先生だよ。カナも喜ぶよ。」満面の笑みで美菜子が喜ぶ。

 「あっ・・。」その瞬間、香菜子のあの弾ける笑顔と重なった浩一は、声を上げる。

 「何っ?」

 「いや、何でも無い。」浩一の眼には微かに涙が浮かんでいたが、それを必死で隠した。

 「変なの。でも良かったの?引越しなんて?」

 「うん。香菜子と約束してたから、俺が売れたらもっと良い部屋に引っ越そうって。きっと香菜子も喜んでくれる。」

 「そっか・・。そうだね。」

 「さあ、行こうか。」言いながら浩一は、玄関を閉める。


 誰も居なくなった部屋には、春の日差しが注いでいる。そして外の子供達の声と二人の笑い声がこだましていた。

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