海藤家
「ねえ母さん」と理人(りひと)が言った。
「なに? 授業参観の話? 理科のわからないところ?」
スパゲティをゆでる時間の片手間にアイパッドで論文を読んでいた海藤ありさが答えた。彼女はもう30歳を過ぎていたが、長い美しい黒髪と利発そうな整った顔をしており、年齢を感じさせなかった。彼女には息子が一人だけいた。もう小学6年生だ。
「違うよ、宿題なんだけどさ、総合学習の時間で『自分史』ってのを書かなくちゃならないんだ。俺、ここK市の総合病院で生まれたんだろ? 何グラムだった? 俺が赤ちゃんの時の写真とかないの?」
「ああ、あるわよ」と彼女はこともなげに言った。
「母子手帳にもあるし、父さんが月に一回あなたの身長と体重をスプレッドシートにまとめていたはずだから、そのデータを使いなさい」
「いや、それはいいけど……もっと、写真とかさ」
「写真だってあるわよ」と彼女は本棚から一冊のアルバムを出して渡した。その中に幼い理人がベッドの横で500ミリペットボトルと一緒に写っている写真が大量にあった。
「これ、なんで毎回ペットポトルと一緒なの?」理人が怪訝な顔で聞いた。
「比較対象があったほうがいいでしょ?」
「ふうん」幼いころの理人は笑っても泣いてもいない。
「俺、どんな子だった?」とアルバムに目を落としながら理人は言った。
「0歳の時の平均データでなら、一日総睡眠時間は17.2時間、泣いた回数は一日28回……これは信用できないのよね、お父さんったら途中で記録しなくなったのよ……。あとは母さんの官能評価で言うと、あなたのかわいさは毎回5をたたき出していたわ」
「そうなんだ」理人は驚きもせず真顔で言った。
「ふつうに僕が可愛いっていえばいいじゃないか」理人がつぶやいた。
「物事は正確に言わなきゃ。私の主観データなんだから。でもおばあちゃんおじいちゃんたちもお父さんも可愛いって言ってたわ。だからn数は5以上ね」
「はいはい」理人はもうため息をつく気力もなかった。
「データ、お父さんにもらいなさいよ」
「わかったって」そう言いながらも、彼は父に何も言う気が無かった。
「そういえばさ」と理人が思い出したように言った。
「父さんと母さんって大学の研究室で会ったんだよね?」
「そうね、その頃は母さんまだ性ホルモン関連の勉強してたわ」
「へえ、学生結婚だったって本当?」
「そうよ。誰に聞いたの?」
「ばあちゃん」
「あ、そう」とありさはなんでもないように答えた。
「大変だった?」
「そうね、大変だったけど、お父さんはDC1だったからなんとかなったのよ。借金はたくさんしたけどね……」
「ふうん? それってすごいの?」
「すごいことよ」
「そっか。父さん凄いんだね」
「そうよ、すごいのよ。また何かわかんない事あったら聞きなさいよ」
「はいはい」と理人は言った。しかし母に質問をすると、1時間じゃ終わらないほどの講義を行ってくるので、今ではすっかり自分だけで調べる癖がついていた。彼は母のそのような面倒な性格に若干飽き飽きしていた。
「じゃあ、データまとまったら母さんに一度見せなさい」
「データって、ただの宿題だよ」
「それでもよ」
「わかったって」そう言い残して理人は自室にこもってしまった。
はあ、とありさはため息をつく。
まあ今のうちはきっと大丈夫ね、と彼女は思う。
まさか研究室の同期と結婚したくなったから、そのために性行為の論文を書いてその相手になってもらっただなんて、言えるわけないわ。博論のデータは充分あったけど、それを温存させてわざとデータが無いように見せかけて、サブテーマの行動実験を発表したこともね。あのときの教授陣の顔ったらなかったわ……。まあ他の論文もあったから審査は通ったけど、なんだか学外でもすごい有名になっちゃってポスドク就職は厳しかったのよね……。
結果海外に逃避行しようと受験して合格したけど予想に反して理人が生まれちゃったら、キャリアはなくなって今はデータサイエンティストやっているし……。この子も大きくなったし、また研究生にでもなって大学行き直そうかしらね……。
ありさは理人の幼いころの写真データと、研究室時代の夫の写真データを閉じ、論文に向かった。
性行為中における行動反応と快楽相関の症例報告 阿部 梅吉 @abeumekichi
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