#20

  3


 一歩一歩、足を踏み出すごとに空間が伸び縮みする。時間が流れたり、流れなかったりする。群衆が動いたり、動かなかったりする。触れたくもない彼ら彼女らの合間を文字通り抜け、ロエルは往く。

 そんなぐにゃぐにゃの世界を超然と闊歩するデグマが、ロエルを見上げて問う。

『限界まで集中力を高めれば、別の対象まで量子コヒーレンスに引っ張り込めるんだなあ。で、ロエルよ、俺達は一体どこに向かってんだ?』

「わからない。お前はどこだと思う?」

『オレはあんたじゃねえからなあ。ただ、想像することはできるぜ。端的に言えば、オレ達は今困っていて、助けを欲している状態だ。そんな時、ここらであんたが縋る奴は一人しかねえな?』

「それもそうだ。考えるまでもないな」

 無事に会えるかどうかの不安と、また会えることへの安堵とが、入り混じった気分で、ロエルは進む向きを変える。周縁部の路地裏へと。

 垂直に交わる例の四つ辻には、前と同じく墓掘りのような格好をした男が立っていた。ミュロ曰く、囚人の標付を持っているらしい。囚人の標付には、蜃体師のそれのような追跡機能はない。蜃体師の方が囚人よりも、厳重に管理されていることになる。

 両腕に抱えるホメロは外套のフードをかぶせて顔を隠していたが、墓掘りの男は少しの関心も寄せなかった。

「地下は今どこに」

「二番街でゲームのルール説明中だ。参加はもうできない」

「……二番街には行ったことがない」

「直進だ。行けばわかる」

 ロエルは礼を述べると、男の言う通りに四つ辻を直進していった。

 行っても行っても同じような風景の小路が続く。脚の重さは気だるさに変わり、意識はだいぶ明瞭になっていた。

 いい加減、不安に覚え始めた頃合いに、半地下への階段のついた家屋が見えてきた。階段を下ってみると、果たして、そこは何かしらの飲食店のようだ。ホメロを落とさないよう、ロエルは扉を開けた。

 そこは大衆居酒屋のようだった。チープな内装が明るい照明に照らされて、活気があるように見える。そこで真っ先に目に入ってきたのは――椅子に腰掛けて、眠りこけるミュロだった。店の奥では前回と同じように人だかりができている。また何かの作戦を練っているようだった。

 ロエルは近くの椅子を連ねホメロを寝かせてから、ミュロの頭を小突いた。

「おい、起きろ」

「んんんんん……」

 ミュロは唸って薄目を開き、

「何だ、ロエルか……って、んんん!?」

「久しぶりだな」

 ロエルに気づくと、驚いて口を大きく開けた。

「えええええ! やっぱり無事だったんだ、他の地下エルデの人たちが、ロエルだけ警吏に捕まったって言ってたけど、やっぱりね! 僕は信じてたよ!」

「ありがとよ。その辺りのことは話すと長くなる……トラーネはどこだ」

「うん、ちょっと待って、呼んでくる」

 ミュロが立ち上がって奥の人だかりに入っていくと、程なく人混みがぱっくりと割れてトラーネが出てきた。

「ロ、ロエル……」

 彼女は呆然とした顔でロエルの姿を認めると、すぐにその瞳を涙でいっぱいにして、飛びついてきた。

「良かった……もう、会えないかと思った……、ロエル……」

 ロエルの胸に顔を埋め、わんわんとトラーネは泣き始める。

「あぁ、今回はもう駄目かと思ったが……トラーネも無事で良かった」

「私なんて……私なんて、何も……」

 ロエルは彼女の濃い藍色の髪を撫でた。激動の最中にいるにも関わらず、絹のように滑らかに指先を滑っていく。何故、自分はこの色を見ることができないのか、と悔やんだ。色について、そんなことを思ったのは生まれて初めてだった。

「……相談があってきた」

 ロエルはトラーネの肩を持って自分の身から離すと、視線で椅子に眠らせているホメロの方を示した。トラーネは涙目のまま、そちらを見やって――ぎょっとしたようにロエルの手を取って、ぐいと引っ張った。

「な、なななんであの人がここに!」

「一緒に逃げてきた」

「そしたら逃げ込む先間違ってるって……、だって、ここでは……」

 トラーネはちらりと奥の方に視線をやってから、小声で言った。

「ホメロさんの暗殺計画を立ててる最中なんだよ!」

「何だって――」

 思わず、ロエルは人だかりの方を見てしまった。一人ひとりの顔はよくわからないが、中央で椅子に腰をかけているのは雰囲気でわかる。エルデその人だ。

 丁度、人と人の間から抜け出てきたミュロと視線が合った。彼はやるせなさそうに肩を竦めてみせる。この店にその暗殺対象が眠っていることは、ミュロを含めて、まだ誰も気づいていないようだった。

 トラーネは泣いて赤くなった目を鋭くして、

「誰かが依頼したんだよ。町や国の理不尽への糾弾が、いつの間にかホメロさん個人への怒りに変わってしまって……」

地下エルデは困ってる誰かを見捨てはしない。その誰かが誰であれ――端的な博愛主義の導く、端的な悪路だな」

「ねぇ、私……間違ってたかな……」

 俯き、弱々しくトラーネが訊ねる。

「力ある者はその力を正しく使う責任があるって信じてた。だから、私はずっと、自分ができることなら困ってる人を助けて、自分が困ってたら誰かに助けてもらう、そういう繋がりの中に生きてきた。でも……自分にできると思ってたことが、いつの間にかできないことになってた時――ロエルが捕まったって聞いた時、自分が間違ってるんじゃないかって思っちゃって……ヘタに君に同情して、悪いことを、余計なことをしたんじゃないかって……不安になって……私、どうしたらいいか……」

 彼女の逡巡が、訥々とした口調から痛いほどに伝わってきた。確かに、彼女が地下エルデを紹介しなければ、ロエルが囹圄に閉じ込められることはなかったかも知れない。そのことで自分を責めるトラーネの気持ちはわかる。

 ただ、気持ちは所詮気持ちだ。ロエルは断じて言った。

「間違ってなんかいない。俺は君に助けられた。それだけで十分だ」

「ううん、私は何も――」

 首を振るトラーネに、ロエルはムキになって畳み掛ける。

「成果のない空虚な訓練の日々を埋めてくれた。アルガに襲われて町を出る時にエルデに頼んで助けてくれた。蜃体学校では迷っていた俺の背中を押してくれた。暗闇の中では手を握っていてくれた……そして、今も俺を助けるために俺の目の前にいてくれている」

 ロエルはトラーネの手を取って、祈るように包み込み、真摯に彼女を見つめた。

「俺は、地下エルデじゃなく、君に依頼したい……どうか、俺達を助けて欲しい」

「……っ、そ、そんなのずるい」

 トラーネはロエルの手を振り払うと、両手でぐしぐしと目を拭う。それから、下唇をちょっと突き出す、バツの悪い顔をして言った。

「そんなに頼られたら……私、本当に助けるからね!」 


  4


「ねぇ、ロエル……蜃体を扱えるようになったって、本当?」

 ロエルはホメロを抱えて、ミュロと路地裏を歩いていた。事情を話したら、彼も仲間に加わってくれたのだ。トラーネはホメロ暗殺計画会議に参加して、地下エルデの今後の情報を仕入れておくとのことで、あの店に残っている。今、二人が向かっているのは彼女の指定した別の半地下の店だった。

「あぁ。標付がなくなった途端に使えるようになった」

「そうだよね、ずっと気になってたんだ。それで一体、どういう力なの?」

「光子の生成だ。何もないところから光を出せるんだ。その副作用で、俺も光に近づいた存在になる」

「へー! 光を出せるんだ! ちょっと見せてよ!」

 ミュロは熱っぽい調子で言ってくるので、ロエルはリクエストに応じて空中に光の環を出してみせる。

「すごいすごい! きっと、知らない人が見たら天使か何かかと思うよ。それくらい綺麗だ」

 光の環はゆっくりと上昇していき、静かに消えていった。確かに、異教国だとしたら奇跡として讃えられるであろう類の光景だ。ホメロの持つスサノの力はとにかく物理的に巨大だが、デグマのそれは人の心によく訴えるらしい。

 ロエルは試みに、適当に人の姿をイメージして光で象り、ミュロの目の前に置いてみた。

「う、うわあ! す、すみません!」

 ミュロは慌てて人の形をした光源を避けて、ぺこぺこと謝る。ロエルは笑いながら、人間の似姿に腕を突っ込みながら、

「虚像だよ。光で作ったんだ」

 たちまち、人の姿は掻き消えた。へぇ、すごいなあ、そんなこともできるんだ……と、ミュロは目を丸くする。

 そうこうしているうちに、二人は伝えられていた住所に着いた。そこに佇む家屋を見上げて、ロエルは感嘆を漏らす。

「ここは……トラーネと初めて会った店だ」

「そうなの?」

「財布を盗られて追ってきた。あんな良い奴が、盗みをしないと生きていけないんだから……ここは嫌な国だよ」

 二人は階段を下って、店の中に入った。うらぶれた繁華街の食堂のような匂いを嗅ぐと、あの日のことを嫌でも思い出す。遅れてきた蜃体師、顧客の怒鳴り声、その事件から庇うように密着させたトラーネの顔――今更になって、例の出来事には顔が熱くなる。今となっては、二人揃って標付がないのだから、何が起こるかわからない。

 食堂には先客がいた。思いもよらぬその人物を見て、ロエルとミュロは唖然とした。

「空翠の、アルガ、さん……ですよね」

「……ん?」

 アルガは胡乱な眼差しで二人を見た。手には小さなグラスを持ち、机の上にはつまみの燻製肉と、度の強い安酒の瓶、数本が空になっている。

 それは――典型的な場末の飲んだくれの姿だった。

「誰だ。俺を知ってるってことは……蜃体師か? いやでも片方は標付がないし……あれ、君達、何人いるんだ? 三人?」

 だらしのない滑舌でアルガが絡んでくるので、途方に暮れたロエルはミュロと顔を見合わせる。これが昨日までの争議のリーダーだった男なのか。扇動が予期せぬ方向に進んだから手がつけられなくなって、それで虚しく飲んだくれているというのか。

 考えるうちに、沸々と怒りが湧いてきた。ロエルは感情に任せて口を開く。

「アルガさん、あんた――」

「ロエル、待って。下ろしてください」

 近くから、鈴の音のような声がした。

 視線を落とすと、腕の中のホメロがいつの間にか目を開いて、アルガを見つめていた。

「彼は蜃体学校の学友で十年来の仲です。丁度、言いたいことがあったので、言わせて下さい」

 師匠の一声で溜飲の下がったロエルは、言われた通りに彼女を立たせる。それでやっとホメロの姿を認めたアルガは瞠目した。

「ホメロ……ぶ、無事だったのか……心臓クールから消えたって……」

「ええ、それは弟子のロエルの仕業よ……もしかしてあなた、私が死んだと思ってヤケ酒してたわけ?」

「ぐ……」

 アルガは狼狽えて言葉を詰まらせた。据わっていた目がみるみる焦点を取り戻し、面持ちもそれに伴って締まっていく。

「お、俺だって、どうにかしたかった。でも、こんなことになるなんて、誰が予測できた! 贋物のビラが大量に出回って、原本はもう回収すらできない。蜃体師は皆、団結力を失って町民に迎合されてしまった。俺は一人になって、会社は当然クビ、ホメロは死ぬ、お先は真っ暗さ、これでヤケにならない人間は狂ってるってもんだ」

「グチグチ言うのは相変わらずね。愚痴りたいのはお互い様よ、お陰で殺されかけたわ。でも……私は、あなたには感謝しているの」

「え」

 アルガの顔から、酩酊の気配が完全に引いた。それくらい、ホメロは真摯に彼のことを見据えていたのだ。

「私は能力的にも立場的にも、町長に……より強い人々に追従するしかなかった。そうでなければ、私はあまりにも多くのものを壊してしまうと思ったから。だから、多くの蜃体師の仕事を奪うということに目を背けながら、自分の仕事をこなしてきた。私は待つことしかできなかった。誰かが変えようと立ち上がってくれるのを……」

「……自分を迫害してくれる誰かを、待っていたと?」

 ホメロは頷いた。アルガは照れを隠すように、小さく笑った。

「誰かが始めなくちゃいけなかったんだ。今回は結局、失敗だったけどさ――」

 その昔日を振り返るような口ぶりに、ロエルは引っかかりを覚えた。そうだ、この人は、もうこの騒動が自分の手を離れてしまったことと思い込んでいる。もうすっかり過去のことであると……。

「まだ失敗じゃないですよ。まだ争議は終わってないです」

 そのことに否を言いたくて、ロエルは口を開いた。アルガの驚いたような視線が向けられる。

「今、誰かに依頼された地下エルデの面々が、師匠の暗殺計画を練っている最中です。彼らは師匠に関する資料を全て持っていますから、完璧に師匠を誘き出し、暗殺できるプランを作れるはずです」

「前に助けられた組織に、今度は命を狙われるとはね……」

 ホメロが皮肉っぽく呟く。地下エルデの行動理念は機械のように単純で簡単に機能する。それは困り事の手助けなどではない、利害の解消なのだ。

「今、俺達の失敗とは地下エルデの手によって師匠を失うことじゃないですか?」

「……確かに、そうかも知れない。ホメロが死んでも、何も変わることはないのに」

 アルガが重々しく首肯した。彼は至極冷静に、ロエルの言いたいことを汲んで返してくれる。これほど明晰な人物が、先まであれほどの醜態を晒していたとは信じがたい。

 ロエルはアルガの返しに勢いを得て、力強く頷いた。

「そうです。だから……師匠を守りましょう。トラーネが……仲間の一人がこれから暗殺計画の情報を持ってきます。それから、手を考えましょう」

 その時、折よく店の扉の開く音がした。

「た、大変大変!」

 だが、勢い良く入ってきたトラーネが持ち込んできたのは、もっと別の大きな話題だった。

「王が……現帝とその兵隊が群青の町に来てるって!」

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