#19
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果たして、裏側は人気がほとんどなかった。蜃体師だけのものだった争議が、ほとんどの町民のものに拡大したため、工業区の工員達も出払ってしまっていたのだ。
「あのダクトから入ろう」
デグマが視界に飛び込んでくる。感覚を裏返して現れた蜃体、それを元に戻すように感覚へと圧力をかけ――嵌まる。
そのまま、暗がりの管の中を進んだ。ロエルは仄かな光を放ちながら、バラバラに寸断され、曲がり角を通る度に再構成され、ただかつてあった身体というイメージだけをよすがに、這うように。
闇は、もう怖くなかった。
やがて、別の光に出会う。ロエルは辿り着いた部屋の内を見渡した。
工場のように無機質な天井と床、隅には作業机と資料を並べた棚が設けられ、中央に巨大なガラスの円筒がある。
そして、粗末な椅子に悄然と座りこむ背中を見つける。
「師匠」
感覚は再び裏返っていた。
ロエルの呼びかけに、ホメロははっとしたように背を伸ばし、振り返る。
「え……」
その瞳が、見開かれた。ロエルは微笑みかけて、言う。
「師匠、デグマの力、発現しましたよ。随分と遅れてしまいましたが」
「……ロエル……? 嘘、夢じゃなくて……」
ホメロは顔を離した。呆然と細い声で呟く。
「嘘でも夢でもないですよ。俺はここにいてしまってるんですよ、どうしようもなく」
「そんな、メチャクチャよ……だって、私、今の今まで、こうやって……一人で……」
「そうです、メチャクチャなんですよ、デグマの力は。メチャクチャすぎて、師匠の一年間を無駄にしてしまいました。だから、その」
ロエルは、ずっと言いたかったことを、言えずに悔やんでいたことを、言った。
「本当にありがとうございます、こんな俺を……信じてくれて……本当に……」
が、口を出たのは謝罪ではなく、感謝だった。そして、情けない声と涙だった。ふいにホメロの顔が滲む。自分でも意外なことだったので、余計に気持ちが崩れ、感情が大きく揺れた。
「てっきり俺が師匠といられたのは……全部町による支援かと……でも、違ったんですね。全部、師匠のお陰で……」
嗚咽混じりのロエルの言葉を聞いて、ホメロは困ったように笑う。
「……知られてしまいましたか。最後まで秘密にしておくつもりだったんですけど」
「そ、その時に、放り出してくれても、俺は文句言わなかったのに! あんなにも不出来で甲斐性なしだった弟子なんだ、もう誰も文句は――」
「文句は私が言いました。だって……ロエルは、私の初めての仲間になる弟子ですから」
「あ……」
その一言は、ダメだった。理不尽だと思った。的確に琴線に触れていた。
目の奥が熱を帯びる。感涙の栓が吹き飛び、理性が失われる……と思った、その時。
遠くから、重々しいどよもしの気配がした。それが、人の声が幾重にも連なったものだと気づくには、少し時間がかかった。
警吏の壁を押し破り、群衆が侵入してきたのだ。
ホメロは不安そうに、扉の方を見た。
「一体何が……」
「暴徒が入ってきたんですよ。今、巷間では師匠が全ての元凶と思われてるんです」
「そう、なんですか……でも、そうですよね」
とっくに諦めていたものをまた諦め直すように、ホメロは言った。そして、彷徨うように部屋の出口へと向かう。
その足取りに、ロエルはただならぬ気配を感じて、血の気が引いた。
「師匠、何を……」
「ロエルはそこにいて下さい、危ないですから……」
「……人に向けて〈差〉使わないでって、約束しましたよね?」
ホメロは扉の前で立ち止まり、振り返った。ロエルは次の言葉を重ねる。
「王法の基本原則ですよ。『蜃体を暴力の用に付してはならない』。それを破ったら……どうするんですか」
「破らないよう努力はします。ただ……私は自分の身を守る権利を優先させなければいけません。母が守ったこの命を、無下に捨てることはできません」
その一言は、ロエルの胸を打った。彼女も元はといえば、捨てられかけたのを母親に守ってもらったのだった。仔細は違えど危うく拾った命、ロエルと背負っているものは同じだ。
ならば――尚更、許してはならない。ロエルはきつく拳を握った。
「デグマ、師匠と一緒に光子になってここから脱出したい」
『べ、別に良いがよ……きっと無理だと思うぜ』
「やってみるだけやるんだよ!」
仕方ないな、とデグマが床へと飛び降りる。ひっくり返ったその感覚を、空間を、元に戻すように神経を集中させる。
光子の世界に没入したロエルは、時間が止まったように思えるほどゆっくりと動くホメロの元へ通り過ぎないように近づくと、その身体に触れようと手を伸ばす。
触れてしまった。
ホメロがはっとしたように、振り返る。それから、優しくロエルの手を包み込むと、言った。
「大丈夫です。誰にもかすり傷一つ負わせません」
デコヒーレンスだ。
ダメだった……触れようとして触れてしまったら、ロエルは親光子的な存在ではいられなくなってしまうのだ。意志は、量子系世界ではノイズでしかない。事物への干渉に作為を含ませた瞬間、ロエルの輪郭は確定して元の状態へと引き戻ってしまうのだ。
思っていた以上に純粋なその孤独に、ロエルは呆然と立ち尽くしてしまう。
暴徒と化した町民の足音が、意識の内に飛び込んできた時。
猛烈な風に煽られるような感覚がして、ロエルはよろめいた。そのままつんのめって、無様に床へと転げる。スサノの〈差〉の力で、引き剥がされたのだ。手も足も出ず、翻弄される自分が恨めしかった。
ホメロは歩み出すと、部屋の扉に手をかけてロエルの方を向く。。
「心配しないでもこんな風に、けが人を出さないようにうまくやります。私は……強いですから」
そう告げて、姿を消した。
ロエルには、その後を追うことはできなかった。奇妙な分別がその衝動を押しとどめた。床に座り込み、先までホメロのいた空間をぼんやりと見つめる。暴徒の殺到する地響きと、それに引けをとらないほどの轟音が、壁一枚を隔ててロエルの耳に混淆として届く。彼女と接触したらしい。
この果てしのない無力に、ロエルはただただ座り込むことしかできなかった。
この手は、確かに届いたのだ。触れたいものに触れることができた。それなのに、こんなにも悔しい思いをするとは思わなかった。
この手は、届いただけ、だ。
昨日見えなかったものが、今日見えるようになり、昨日できなかったことが、今日できるようになった。
それでも、世間にはどうしようもなさに溢れている。一歩、大きく前進したところで、突然自分が何事かをなせるようになるわけではない。ある時、ふと振り返り、自分の来た道程に驚き、慄く。せいぜい、その程度。途方のなさが和らぐというわけではなく。
「師匠……ちょっと強すぎでは」
遠くから響く、暴徒達の悲鳴にロエルは苦笑する。ついでに、自らの弱さにも。
けれども、彼女だって現に、このどうしようもなさと対峙しているのではないか。王法を度外視し、〈差〉の力で暴徒を全て虐殺することは容易いことだろう。だが、それで何が変わるというのだ。今、ホメロが戦っているのは、現実に押し寄せてくる人の大群ではない。熱狂する群衆というあられもない現象だ。巨大に過ぎる暴力など、この現象を前にしては何の役にも立たない。
苦笑は嗤笑に。苦労は徒労に。
結局、どれだけの強さを持っていようと、とどのつまりは無力なのだ。
決着はすぐに着いた。無数の罵詈罵言が、潮の引くように遠のいていく。化物、怪物、超常、悪魔、災厄の、云々。どれもこれも捨て台詞だった。
ロエルは立ち上がって部屋を出た。ところどころ壁や床に大きな傷の入ったボロボロの状態の、幅広な廊下にぽつんとホメロが佇んでいた。まるで、寄せるさざなみに玩具をさらわれた子どものような後ろ姿。
「師匠……」
死体どころか、血の跡すらない。もてる力を最大限に抑制して、誰も傷つけることなく追い払ったのだ。単に殺すよりも、神経を擦り減らしたことだろう。
「……随分と、嫌われたものですね。知りませんでした」
今にも消え入りそうな、悄然とした声だった。ロエルには返す言葉もない。しばらく、二人の間に沈黙がおりる。
やがて、ホメロが切り出して、言った。
「ロエル、黄色い植木鉢のこと……覚えていますか」
「……群青の町から一旦逃げ出した時の」
「そうです。私が生み出した〈差〉の目印にしたものですね。あの時、私は失念していました……あなたが、色を見られないことを」
声は細り、震えていて、何より、悔恨の情が滲み出ていた。
「あなたが私と袂を分かって群青の町に引き返した時、初めて思い知りました。私は蜃体師としてのあなたしか見ていなかった。結局、私は私のことばかり考えていたのです」
ホメロは俯く。その立ち姿はあまりにも朦朧としていて、次の瞬間には消えてしまいそうだった。まるで、蜃気楼のように。
「私は――ただ、あなたと共にいて、自分の孤独を慰めたかっただけ。大蜃体を扱えていれば、あなたが誰であっても構わなかった。誰でも。そんな私の元へ、あなたは決して戻ってこない。戻ってくるはずがない。私は私で自分を締め出したのだ、と……なのに、真に私が孤独になった時、あなたは戻ってきてくれた」
ゆらり、と、ホメロが振り返った。
その眼は熱く潤み、頬には涙が伝っていた。
「本当にありがとうございます、こんな不甲斐ない師に――」
そこまで言って彼女は、崩れ落ちた。
「師匠……」
ロエルは倒れたホメロのもとへと駆け寄った。その顔色は芳しくなく、苦悶の表情すら見て取れる。
『体力の極限まで集中力を行使したんだ。誰にも危害を加えず自分の身を守るために』
「いや……俺を守るためにも、だ」
ロエルは静かに言った。かつて、これほどまで穏やかな自分の声を聞いたことはなかった。
闇も極まれば白くなる。どこかで読んだ本に、こんな叙述があったことを思い出す。
人の感情も同じだ。怒りも極まれば穏やかになる。
「ホメロは絶好の不満の捌け口だ。暴徒達は再びやってきて、叩き潰し、満足を得ようとする」
この町に流布しているのはそういう物語だ。多数の弱者が力を合わせて、一人の悪者を退治する。悪者が強いからこそ話は盛り上がる。あのビラだって、結局〈誰が〉編纂したというわけではないのだろう。伝達の過程で面白く、盛り上がれるように、作り変えられていったのだ。
蜃体師=弱者の真っ当な呼びかけなど、陳腐で退屈でありきたりで全く面白くもない。
あの改変されたビラこそが、人々の求めている物語なのだ。
「恐ろしく、下らない」
ロエルは激昂していた。至極、静かに、穏やかに。
彼ら彼女らの目には、この両腕の動かないちっぽけな一人の少女が、怪物に見えるのだろうか、化物に見えるのだろうか、悪魔に見えるのだろうか、災厄に見えるのだろうか。だとしたらその眼は、ロエルの異常なそれよりも、狂っていて節穴だらけである。
それに、単純な事実として、ホメロの死は群青の町の死を意味する。この十年間、彼女の力で成長した町は、もはや彼女の力抜きでは成立しない。それはこの争議のそもそもの首謀者であるアルガ自身が言っていたことだ。
だから、こう言っていい。巷に出回る物語は町民たちに死を促している。自発的な死を。
群青の町は自殺しようとしている。
そんな馬鹿なことがあるか。どうして誰も気がつかない。止めようとしない。
いや……止められるものか。この空気の匂いを、騒擾を、風景を、ロエルは知っていた。焼け亡んだ故郷の空気がここにあった。この熱狂は軽々と人の命を奪えてしまうような揚力を人に与えるものだ。
ロエルが宣教師に抱かれ新たな生を得た時から、一貫して抗おうとしたのはまさにこの狂騒だったのではないか。繰り返しはさせないと心に誓った惨禍が、今まさに起こってしまっているのではないか。
ロエルの裡で何かが燃える――この争議は、結局行き着くところまで行くしかないのだろうか。自分には指を咥えて見ているしかないのだろうか。
いや。
無力であることは、止める言い訳にはならないのだ。決して。
何のために、群青の町にやってきたか。何のために、蜃体師になろうとしているのか。何のために、故郷の最後に残った命を運んでいるのか。
死ぬその瞬間までわからぬ、何かを知るためだ。
そのためには、絶対にここで曲げたりしてはいけない。止めてはいけない。続けなければいけない。
ロエルはホメロの身体を抱きかかえて、立ち上がった。不随の片腕がだらりと垂れる。意識のないホメロの表情は、苦しそうに見えた。
「逃げよう。逃げれば、まだ闘える」
ロエルは、瞋恚の滲む温厚な声で言った。
神の賜いし秩序が、全てひっくり返る。ロエルとホメロは、共に光子の
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