エピローグ

「そろそろ行くぞー」


 ロッカールームに鳴り響いたキャプテンの声で現実に引き戻される。ページの端をぎゅっと握り締めてから、ゆっくりと瞼を開いた。途端、『ジャパンの新エース誕生か?』という文字が視界に飛び込んでくる。大仰な言い方だな。心の中でつぶやいて、嘲るように小さく笑った。改めて、雑誌を少し遠ざけて俯瞰する。見開きページの右側にはシュートを放った後の自分の写真と、大見出しに書かれた文句の続きに『』という名前が大きく印刷されていた。は二つを順に目で追って、静かに伏せた。強く確かなトラップの音が耳の奥で響く。本当はここに在るはずだった兄の姿を慈しむように、懐かしむように、その確かな一音一音に思い起こした。




 二年前、象は死んだ。あの後、彼は憑き物が取れたかのように明るくなった。透にサッカーを教え、自分のシューズやユニフォームを譲って懸命にサポートした。だが、その気丈そうな姿は無理に明るく振舞っているようにも見えなくはなかった。それを裏付けるかのように、象はふとした時、貧血で倒れるようになった。原因はストレスだった。『自分のため』にしていた努力が『人のため』に変わっただけで、実際のところ彼の負担は少しも軽くなっていなかったのだ。結局、透の勇姿を見届けるようにプロデビュー戦の直後、象は倒れた拍子に強く頭を打って亡くなった。




「象」


 チームメイトに呼ばれて、雑誌を放り投げるように手放す。選手のほとんどはもう出払ってしまっていて、あとは透を残すだけだった。足早にロッカールームを出ると、青いユニフォームのチームメイトたちのあとに続いて透は歩き出した。いくつものスパイクが床を鳴らすのに混ざりながらもいっそう凛々しい音を立てて、長い廊下を進んでいく。中ほどを右に曲がると、スタジアムの入場ゲートが煌々と白い光を湛えて透たちを出迎えていた。近づくにつれ、緑色のピッチと埋め尽くされた観客席、白い雲に覆われた空が鮮明に目の前に飛び込んでくる。次々と入場していくチームメイトの中、透は入場ゲートの一歩手前に立ち止まって、足元を見つめた。所々が黒く汚れた赤地に白ラインのスパイク。象の置き土産に包まれた足を、見つめていた。



 どうすればよかったのだろう。ふとした時、漠然とその問いが頭を過る。あの時は、この選択はきっと間違っていないはずだと信じていた。けれども時折、象の瞳の奥に垣間見える深く青い光が体中に咲いた痣を連想させて怖かった。この選択は間違っていたんじゃないかと思わせるほどに。その事実を信じたくなくて、恐怖から逃れたくて、微かな闇を見て見ぬふりをしたからこうなってしまったのだ。恐れずに立ち向かっていれば、兄を救えたかもしれないのに。そう思いながら頭のどこかではこれでよかったのかもしれない、とも思う。だって、あの日「ありがとう」と言ってくれた嬉しそうな笑顔を、裏切ることなどできるはずがなかった。そしてまた、同じところに行き着く。じゃあ僕は、どうしたらよかったのだろう?



 答えは出ないけれど、

 象の名前を携えて、僕は生きていく。

 兄が象れなかった夢を、僕が――俺が叶える。


 胸に刻むように手を当て、目を閉じる。瞼の裏には紫陽花のように無数に広がる痣が浮かび上がっていた。胸に冷たい痛みを感じながらまたゆっくりと、瞼を開いた。誓うように、白い雲が剥ぎ取られた空を見上げる。ぐいっと青いユニフォームの皺を伸ばして、透はスタジアムに一歩を踏み出した。

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