象ることのできない夢

 音を出さないようにハンドリムを回して、庭につながる窓辺に車椅子を止める。リビングの中央とは違って少し肌寒いものの、正午に近い時間だからか陽射しのぬくもりが感じられた。


 窓の外に視線を下ろすと、小さなサッカーコートがそこにはあった。まだサッカーを始めたばかりの頃、俺たちのために父が作ってくれたものだ。切り揃えられた芝生、何度も書き直された白線、ゴールがわりのキックターゲット。芝が青々と風に揺れて、隅にあった汚れたサッカーボールを撫でる。その様子を見て、懐かしさとともに押さえつけていた感情がふつふつと湧き上がってくるのを感じていた。


 サッカーが、したい。


 一度リビングの入り口の方に目をやってから、俺は車椅子のフレームを握った。冷たい感触を両手に感じながら、力いっぱい身体を持ち上げる。すぐに手首から震えが上がってきて、関節が悲鳴を上げ出した。


 いち、に、さん、し、ご、ろく、しち、はち……


 この体勢で維持できる秒数の自己ベスト更新だ。いける! 脚を――。


 高揚した気持ちのまま身を乗り出そうとした途端、視界が左方向にぐわんと揺さぶられた。そのまま強い衝撃を受けて、激しい音とともにフローリングの床に叩きつけられる。じんじんと肩や頬に痛みを感じながら、移り変わった目の前の景色に放心していた。這いつくばるようにして見た窓の向こうには、雲に覆われた眩しいほどの白い空。だがそれは、みるみるうちに剥ぎ取られ、空はひどく青ざめていく。



 ばかみたいだ。


 乱れた呼吸を嘲笑うかのように、心の中でつぶやいた。


 こんなことしたって、足は動かないのに。


 視線を下に向け、自分の力なく投げ出された脚を見た。親指の付け根に残された胼胝たこの跡。痛みを堪えながらボールを蹴り上げるあの感触が頭の中に蘇る。


 まだ形があるのなら、動いてくれよ。


 息を止めて何度も必死に力を込めるが、脚はびくともしてくれなかった。激しい呼吸の間に眼球がどんどんと熱を持って、泣きたくないのに涙が溢れ出す。


 なんで、動かないんだよ。


 睫毛に着いた雫で太陽光が乱反射する。それが眩しくて、右腕を顔に押し付けた。情けない、情けない。嗚咽だけは漏らすまいと必死に喉で声を打ち消す。涙がじわりと袖を濡らして、無遠慮に肌に張り付いてきた。


「大丈夫?」


 心配そうな声が降ってきて、傍らにその気配を感じた。腕の隙間から盗み見ると、濡れ羽色の髪を透かして色素の薄い瞳がこちらを覗き込んでいた。


 俺とまったく同じ顔の


 

 ──双子の弟だった。






 弟は昔から天才肌だった。勉強も運動も、俺がたくさん練習しなければできなかったことをあいつは一日や二日、早いときは初見でいとも簡単にやってのけた。体格はまったく同じなのになんでこんなにも差があるんだろう。幼い頃の俺はそれが悔しくて堪らなくて、毎回必死になって練習して、兄の威厳を守ろうとしていた。


 だが、ずっと一緒に過ごしてきたからそんな想いを悟られていたのだろう。次第に弟は俺と同じことをするのを極力避けるようになった。友達がいる時は別々に行動しようとし、一緒に入っていたサッカーのクラブチームも一人だけ辞めてしまった。その態度が気に食わなくて、俺はますます頑張るようになった。自主練で走り込みを一日三時間、それが終わったら徹夜で勉強。


 そんなことを繰り返した末に、無理がたたって俺は弟の前で倒れてしまった。軽い貧血だったもののそれ以来、弟はひきこもるようになった。俺に無理をさせないために外界との関係を断ったのだ。


 弟がそうなってしまったのは自分のせいだと薄々気づいていたが、その反面、俺は肩の荷が下りたような清々しさを感じていた。努力を積み重ねることはやめなかったけれど、前ほど憑りつかれる様な必死さはなくなっていた。弟がこのままではいけないとわかっていながらも、俺はその快楽に溺れて何もしなかった。内心このままでいいとさえ思っていた。そのつけが今、回ってきたのだろうか。






 弟の手がゆっくりと背中をさすってくれているのがわかった。柔らかいあたたかさが撫でられたそばから身体に満ちていく。


「なん、で……」


 ぼたりと、本音が零れ落ちた。俺はお前の不幸を望んだのに、なんでお前は俺に優しくしてくれるんだよ。両親は共働きで忙しく、俺が動けなくなってからの面倒は全部弟が看てくれている。弟はその全部を嫌な顔ひとつせず、完璧にこなしていた。けれど、献身的にしてくれるその姿が俺の心をいっそう掻き乱させた。触れられるたびに、何もできない劣等感と弟への罪悪感でぐちゃぐちゃになる。


 弟の掌がゆっくりと背骨をなぞる。湧き上がってくる黒い感情は行き場がなく、ずしりと胸に溜まって、内側から熱を帯びて膨らんでいく。力を入れていないと叫びだしてしまいそうだった。息が詰まって、苦しい。


 その瞬間、ふいに背を撫でる手が止まった。代わりに、トントンと降り落ちる雪のような柔らかさで指先が背中をたたく。注がれる小さなぬくもりに、自然と力が抜けていた。喉元に抑え込んでいた嗚咽が耐えきれずに零れ落ちる。一定のリズムを刻む指先にボールを蹴る音が重なる。その音に誘われるように俺は強くつぶっていた目の力を抜いた。


 安心するんだ。ゴールを決めた時、歓声に包まれてチームメイトの抱擁に迎えられると、今までの努力が報われた気がした。


 そういう安心する場所をお前にも作ってやりたかった。俺がお前の隣に並ぶことができれば、お前が不安を感じずに何でもできる場所を作れると思ったから。だから、がむしゃらに頑張ってきたのに。俺はいつも、お前を縛り付けてばかりいる。


 鳴りを潜めていた虚しさが心に強襲して眼球がいっそう熱くなる。強く目を閉じると、解放された涙が重力に従って目尻から目頭から溢れ出した。しょう、澄んだ声が俺の名前を呼ぶ。そして心許なさげに僕は、と前置きして言葉を続けた。


「どうしたらいい?」


 懇願にも近い口調で、弟は言った。シャツの裾を引っ張られて思わず顔を覆っていた腕をどける。すると、太陽と目が合ってしまって視界が一気に赤くなった。ゆるやかに色を優しくしていく間に弟の姿がすぅと表れる。鼻や目尻が赤く、まだ太陽を直視した余韻が残っているのかと思った。だが、違った。目の前には情けないほどの泣きっ面があった。なんでお前がそんな顔してんだよ。思わずフッと笑いが零れる。


 どうしたらいいんだろうな。

 それが俺が一番望んでいることへの問いなら、俺はサッカーがしたい。

 サッカーをやってる俺がいてほしい。

 そして、お前を俺から解放して……。



 その瞬間、羽ばたきがシンクロした鳥が二羽、連れ立って空を飛んでいるのが見えた。二羽の身体が重なってひとつになって、飛び去っていく。



 俺は、鏡に映したように自分と同じな、弟の顔をじっと見つめた。そして、弟の自由な脚を見る。心の中で願った言葉がばらけて繋がって、一つの仮説を導き出した。


「透」


 弟の名前を呼ぶ。色素の薄い目が一瞬だけ赤く線を引いて、俺を見つめる。




「俺に――なってくれるか?」




 弟の目がかすかに見開かれて、静かに伏せられる。逡巡するような間が続いて、一瞬の瞬きのうちに鋭くこちらに視線が注がれた。弟は強く、頷いた。背負った空が祝福するように明瞭に青く輝く。俺は小さく微笑んで、ありがとう、と言った。



 俺にはどれだけ頑張っても無理だったけど、お前なら大丈夫だ。きっと俺の隣じゃない、安心してなんでもできる自分の居場所を見つけられる。俺の一方的な我儘も含まれて申し訳ないけど、お前ならきっとやれると信じてる。俺は大丈夫。お前が俺から解放されて、その一歩を踏み出してくれるのなら、消えてしまったって構わない。


 泣きすぎなのか頭が痛い。目をつぶると、瞼の裏が真っ赤に染め上げられる。あたたかい陽だまりの中で、生まれ変わったみたいな心地よさで眠りについた。

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