透き通る想い
ばかみたいだ。
リビングの床に横向けで倒れて泣いている兄を見ながらそう思った。近くに転がっている車椅子が、そう思ってはいけない、とでも言うようにフレームを鈍く光らせる。ハッとして駆け寄り、僕はもう何度目かになる台詞を吐いた。
「大丈夫?」
右腕で顔を覆いながら泣いている兄に返事ができるわけがなかった。殺した嗚咽が震えとなって肩を揺らす。倒れた拍子にはだけたのだろう、露になった背中には紫陽花のように転々と広がる青痣があった。日に日に増えていく小さな花房は、呪いのようにも思える。
兄は優秀なサッカー選手だった。小学校からクラブチームに入っており、暇があれば四六時中サッカーをしていたような、そんな印象がある。天才というほどのものは持っていなかったけれど、その分誰よりも努力する練習の虫だった。そんな努力の成果なのか、中学ではいつもレギュラーになっていたし、高校受験の時期には他県の高校からもスカウトに来られるほどになった。結局、地元の高校にスポーツ推薦で入学したけれど、今はそれで良かったのかもしれないと思う。サッカーをやるためだけに行った遠くの高校で今のようになったら、きっとこんな程度じゃすまなかっただろうから。
半年前、兄は交通事故にあった。早朝の自主練のために学校に向かう途中、出合頭に車とぶつかって、意識不明の重体で病院に運ばれた。一命は取り留めたものの脊髄を損傷してしまい、車椅子生活を余儀無くされてしまった。それでも兄は持ち前の根気強さで懸命にリハビリに励み、四か月後に退院した。
兄が退院して数日のことだった。僕が自分の部屋にいると、どこかで激しい物音がした。音の出所を探して家の中を歩き回っていると、リビングで兄がぐたりと床に横たわっていた。傍らには車椅子がなぎ倒されていて、衝撃の反動でゆっくりと車輪が回り、キィキィと不気味な音を立てている。急いで駆け寄ると、兄は泣きながら何かをつぶやいていた。
「な……で」
しゃくりあげる合間に途切れとぎれに零れた言葉がぎゅっと胸を締め付ける。
「なんで……」
絞り出すようにその一言を繰り返す。これほど悲愴に満ちた兄の声を、僕は一度も聞いたことがなかった。
もうサッカーはできない。
その現実を受け入れられないのだろう。
それからの兄は一人になると、いつも立ち上がろうとしては車椅子ごとすっ転んで誰かが来るまで倒れたまま泣いていることが多くなった。そんな行動は日に日に数を増して、週に一回、日に一回、一日に何度も、何度も。車椅子の軋んだ音が静寂を切り裂くように家の中に木霊するようになった。
*
からからと回転する車輪の音が、短くなって息を止めた。後には兄のしゃくりあげる声だけが薄い影に溶け込んで取り残される。日の光に照らされて、濡れ羽色の髪が険を強くしていた。それとは対照的に兄の肌はひどく青白く見える。僕ははだけたシャツを直して、背中をできるだけ優しくさすった。
「なん、で……」
涙声が沈黙の中にぼとりと落ちる。その声を聞きながら、もう諦めればいいのに、と思った。こんなに苦しい思いをするくらいなら、いっそ諦めてしまえばいい。見ているこっちの方が辛くなる。
いつだって兄はそうなのだ。確実な成功を手に入れようと無理をして、自分の限界に気づかない。周りにはわからなくても僕にはわかる。馬鹿みたいに一生懸命に努力してきた兄は、もう限界なのだと。
過呼吸気味になっているのか、吐息に少し高音が混じってきた。背中をさする手を止めて、トントン、と指先でそっと触れるようにたたく。それでも泣き止む気配はなかった。
ずっと傍にいるのに、こんな時辛さを和らげてあげることもできないのか。僕はいつだって無力だ。
規則的に上げられる嗚咽がじくじくと胸を刺す。白いシャツに透けて見えるいつくもの痣が、自分の身体にも染み出していくような気がした。じわじわと胸中で花咲く不安がどうしようもなく押し寄せる。
このままこんなことを繰り返し続ければ、兄は身体も心も壊れて最後には……。
続く言葉を考えてぞっとする。止めなければ。けれど僕は、兄を止められる言葉を持ち合わせてない。何をしたってきっと、兄を傷つけることしかできない。でも兄を救うには、このまま黙っていてはいけないんだ。
「
手を止めて、兄の名前を呼ぶ。泣き続ける兄の背中で、青い花房たちが震えながら鮮やかさを増していた。その鮮やかさが冷たく痛く、僕を突き刺す。
「僕は、どうしたらいい?」
どうしたら止められる? 答えてくれ。縋るような思いで兄のシャツを小さく握った。視界が涙で滲んでいく。その時、兄は初めて僕を真正面から見た。滲んでははっきりとするのを繰り返す視界の中で色素の薄い瞳に捉えられる。途端、その顔はフッと零れた吐息とともに呆れたように綻ぶ。数秒見つめあった後、兄は穏やかに透、と僕の名前を呼んだ。そして、答えを口にする。
「俺に――」
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