分かち愛

「ん……朝、か」

 顔を温めている陽光にうっすらと目を開け、寄りかかっていた壁から身を起こす。あれから、二日たった。その間のフラインの様子は筆舌に尽くしがたいもので、越智姫の顔にも、憔悴の色がより濃く残っている。そして、古い記憶、懐かしい夢もまた、彼女の疲労に拍車をかけている。

「フライン……?」

 様子はどうだ、と声を掛けようと思い、ふと布団へと目を向けると、そこはもぬけの空だった。暫くそれを眺めていたが、ようやく頭が回り始めると寝ぼけていた頭が飛び起きる。外へ目をやると、日が随分と高くなっていた。朝だとばかり勘違いしていたが、昼頃まで寝ていたらしい。

「おい、お前達! フラインはどうしたんだ!?」

 暗がり等に向かって焦りを滲ませた声を上げると、越智姫とは対象的に冷静な声が帰ってきた。

「大丈夫です。今朝方ようやくと治まったようで、少し用事があるので街へ赴くと。昼過ぎには戻るから、と言われましたので、そろそろお戻りのはずです」

「そ、そうか……」

 ほっと胸を撫で下ろして、越智姫は腰が抜けたようにその場にぺたりと座り込んだ。力が抜けて、立っていられなくなったのだ。それにしても、自分は何を取り乱しているのか。フラインが少々姿が見えないだけで、何故こんなにも苛立ちにも似た感覚にとらわれるのか。……その答えは、つまり、フラインが私を置いて自分の国へと帰ってしまうのではないかという不安の表れだった。あの病気を治すにはそれしかないようだし、だからといって、どうしてそれを私が止めることが出来るのだ。彼の尋常ではない苦しみ様は見るに耐えない。それでも、自分の傍にいてほしい。それは、やはりようやく見つけた同類だから、なのだろうか。それとも、一昨日口をついて出たように、家族だから、なのだろうか。それについては、越智姫自身把握できないことだった。

「あ、ただいま、越智姫」

「え……」

 その昼の陽光のもとで、にっこりと笑った少年の顔は青白くげっそりとしていたが、それでも、越智姫はその笑顔から視線を外すことが出来なかった。そう、単純に言えば、見惚れてしまったのだ。

「どうかしたの?」

 自分の顔を見て固まった越智姫を心配するようなフラインの声に、我に返る。

「あ、い、いや、何もないぞ、うん。……お帰り、フライン」

 そして気がついた。もう気がついてしまった。自分の気持ちに。友達……程に遠いものでなく、家族……程に近いものでもない。フラインの顔をみているだけで、心臓の鼓動がトクトクと安定した動悸を繰り返す。心地よい息苦しさが常に肺を圧迫する。泣きたくなる程切なく、頬が熱い。紛れも無く、それは"恋"なのだと、知識だけで知っていた事柄を、自ら納得していた。

 そう、自分はフラインに恋をしたのだ。そしてそれが、およそ無謀な事だったのだと、気がついてもいる。何故なら、このままではフラインは……。

「あ……、越智姫、どうしたの?どうして――泣いてるの?」

「え……」

 全く意識せずに、つーと頬を涙が伝う。それは表から射し込む日に反射して、光りの筋を形作っていた。

「越智姫――泣かないで」

 悲しげな微笑を浮かべる少年に、自分は何と答えればいいのだろうか。自覚してしまったが故に、今までできていた単純な事がこんなにも難しくなるとは。出来るなら、今すぐフラインの胸に飛び込みたい。でも、それをやるのは恥かしいという気持ちもある。どうして、こんなにも思考がぐちゃぐちゃに絡まりあうのだろうか。

「今日は、七夕なんでしょう?」

「七夕―――」

 言われてから数秒、ようやくそういった行事があったのを思い出した。そうだった。七夕を一緒にやってみようと、フラインと約束していたのだ。

「で、でもお主の体は」

「大丈夫」

 心配そうな越智姫を遮るように声を被せる。それはどこまでも優しく、落ち着いた声だった。

「今、だからこそやってみたいんだ」

「解った」

 その、言外に次の機会はないのかもしれないから、という言葉を感じ取った越智姫は、もうそれ以上何言う事もできるはずがない。だが、と心を切り替える。やるのならば、悔いのないように一所懸命にやるのみだ。

「よし。やろう。では竹をそろえるぞ」

 早速腕まくりをして表へ出ようとしたところを、影の一人が呼び止める。 

「越智姫様」

「ん?」

「裏手をご覧になってきてください」

「裏手だと?」

「いいから、いいから。ほら、早く見に行ってくださいよ」

 影達の声に、何か含み笑いに似た物を感じた。

「何だと言うのだ、やぶから棒に」

 ぶつぶつと文句を言いながら裏手に回った越智姫の口から、あっと小さな驚きの声があがる。急いで、部屋の中に取って返してきた越智姫は部屋の中にいるであろう影達に向かって一気にまくし立てた。

「あ、あれは竹ではないか!? 一体何時の間に……、いや、それよりも一体何故!?」

 これに対して影達は愉快そうに、してやったりと言わんばかりの様子だった。

「こういう事もあるかと、夜中の内に切りに行ったのです」

「何せ折角の七夕に、主役が無くては始まりません」

「あれだけの大きさは苦労したんですぜ」

「お前達……」

 まだ姿の現せぬ影に、感極まったようにふるふると震える越智姫。フラインは、そんな越智姫と彼らの暖かさに嬉しそうに目を細めた。

「ならば、精一杯楽しむとするか!」

 ぐっと目尻を乱暴に拭った越智姫は、高らかに宣言し、影達もそれを囃し立てた。

 越智姫とフラインはそれから、二人で仲良く飾り付けを作っていく。慣れないフラインの為に、越智姫は丁寧に教えていった。フラインの物は出来あがりがとてもいびつになっていたが、二人はそれでも、楽しく一緒に時を過ごす。やがて飾りつけが終わり、影達に頼んで縁側の傍に台座をこしらえて、竹を天に向けて据え付けさせた。

 竹は月明かりに照らされ、湿り気を含んだ風に晒されさらさらと葉鳴りをさせる。様々な飾りつけの中に、二枚だけ、短冊が吊り下げられていた。一つは越智姫の書いた赤い短冊。もう一つはフラインの書いた青い短冊。その二枚は、今の二人を現すかのように必要以上にくっつきすぎない程度に近い場所へとくくられている。

「願い事は何と書いたのだ?」

 短冊同様のに、あるいは短冊よりも若干近い距離で縁側に並んで腰かけているフラインへ、越智姫は尋ねる。飾りつけは二人で作ったのだが短冊だけは別々に作ったのだ。

「そういう越智姫はどうなんだい」

 どうやらフラインは自分から明かす気はないようだった。だが越智姫は、尋ねられて短冊の願い事を言うべきかを迷った。この心優しい少年に、残酷な言葉を突きつけてしまうのではないかと怖れた。しかし、今言わなければ、いつか必ず後悔することになる。勇気を出して、震える唇を動かした。

「わ、私は。こ、このままフラインと二人で暮らしたい、と」

 言った。だが、それを聞いたフラインの表情を確認するのは恐ろしくてたまらなかったので、俯いたままじっとしていた。胸が締め付けられるように痛む。彼は怒るだろうか? 悲しむだろうか? 越智姫は、フラインが今どういった顔をしているのかを確認したくてたまらなかったが、悪い想像が邪魔をして中々実行することはできなかった。さあっと流れる風の音がふっと消えた時、フラインは、ふっと笑うように、ごく当たり前のように、答える。

「なんだ。それじゃ僕と一緒だね。僕も、ここでずっと二人で暮らしたいって、そう願いを書いたんだ」

「え――!?」

 虚を突かれ、越智姫は振り向いた。目の前には穏やかな、だが底知れない決意を目に称えたフラインがいた。その言葉は、明るい口調とは裏腹のとてつもない重みを持っている。フラインは、意思の固い表情を崩そうとはしなかった。

「でも、それではお主は……」

「いいんだ。どうせ戻っても、待っているのは似たような生活なんだから。それならここで……君と暮らしていた方がよっぽどいい。いや、君とここで暮らしたい」

「あ―――!」

 信じられないと言ったように、越智姫はスカイブルーの瞳を見詰めた。その目に映る自分は、口を両手で覆って、目尻に涙をにじませている。

「私も――私もお主と暮らしたい。二人で、友達よりも近く、家族よりも遠い者として……」

 今しかない。自分の気持ちを的確に、思いきって告白するのは、今しかない。考えるだけで頭ががんがんと熱を上げていくようで、自分が誰なのかすら判別のつかない状態にまでなる。頭が真っ白になるとはこの事かと、思っている傍から複雑に様々な考えが絡み合って、余計に混乱していく。大丈夫なのか、言ってもいいのか、本当に言ってしまうのか、もし失敗したら、嫌われたら、これ以上待たせたら、向こうから言ってはくれないだろうか、女からというのははしたなくはないだろうか、しかし外国というのは進んでいると聞くし――――。

 顔が熱い。きっと、焼けた炭よりも赤くなっているに違いない。緊張の余り、全身に汗が吹き出る。心臓は痛いくらい早く脈打ち、喉はからからに乾いていく。どうしたら、いつ言うのか、いつだ、いつだ、いつだ。

 その時、フラインの瞳がわずか揺れ動いた。それを見た瞬間、全身が雷に打たれたように衝撃を受け、それは肺から空気を追い出し、頭から言葉を追い出し、喉から合わさって一つの言葉を紡ぎだした。

「フライン。私の、こ、恋人になってくれ」

 羞恥のあまり語尾はごにょごにょと小さくすぼんだが、肝心な部分をフラインは聞き逃してはいなかった。その言葉を受けて、フラインの笑顔がより一層輝きを増す。

「それは、僕からもお願いしたいな。越智姫、僕の恋人になってくれるかい?」

「当然だ! あ――」

 思わず勢い込んで返答してしまったが、すぐに恥かしさが込み上げて来て縮み込んでしまう。そんな越智姫の手を、フラインはそっと取り、握る。

「フライン……」

「この手を、僕は離したくない」

 越智姫は、それに応えるように、自分もまたフラインの手を握り返す。熱い瞳がお互いを見詰め、自然と身体が動き出し――しかしそこで、越智姫はフラインの手にしがみつくように力を込めた。それに気付いたフラインは、心配げに越智姫の様子をうかがう。その顔は蒼白で、驚いたフラインが問いかける。

「どうしたの?」

 その時越智姫は、夢の事を思い返していた。狐と狸。狸を騙そうとする狐。目覚めた後の決意。もう、彼の優しさに付け込んでこれ以上隠したままにしているのは、不可能だ。その時が来たのだ。

「フライン。私がお主の恋人になる前に、いや、なるからこそには、是非話しておかなければならない事がある。聞いて、くれるか?」

 その怯えるような、泣き出しそうな、だが真剣そのものの表情を前に、フラインも表情を改めた。

「聞くよ。とても、大切な事なんだろうから」

「ああ――」

 それから、どれほどの時が流れたのか。越智姫は、震える唇と身体を必死に抑えつけて、何度も言葉を紡ごうとする。しかし、その度にとても見ていられないような苦悶の表情を浮かべ、嗚咽のような息を吐き出した。それでも、フラインはそんな越智姫を真剣に見詰める。越智姫にとって、これはそれほどの意味を持つのだと、だからこそ、絶対に聞かなければならないと、少女の言葉をひたすらに待った。影達も、ついに決心した越智姫のために、何も言わず、傍にただ控える。やがて、ざあっと一際強い風が吹きぬけた時、越智姫はついに、言葉を発した。

「この、この国、いや、その向こう側にまで及ぶ"漠死結界"。絶対死線域とも呼ばれているこの絶対死の原因は、私なのだ――」

 越智姫の心の波が現界したかのように、一際強い突風が荒れる。フラインは、黙って越智姫の続きを促す。

「私はな、フライン。幽閉されていた、と言ったであろう。それは、私が人類にとっての災厄、"死神の一族"だからなのだ」

「死神――」

「そうだ。死神は、遥かな太古に、人間がこの世に呼び起こした。戦の道具として使うつもりであったのだろう。だが、それは叶わなかった。死神とは、ただただそこに"いる"だけで、人々に死を与える、そういう存在なのだ。敵味方の区別などつけようはずもない」

 人間達に等しく死を与える存在。それが、どう言った理由で死をもたらすかは解ろうはずもない。また、それを呼び出した者たちは考えるだにしなかったのだろう。

「困り果てた召喚者どもは、その死神を人間の女の身体に封じ込める事に成功した。成功したかに見えた。だが、それは失敗だったのだ」

 殊更陰鬱な表情でもう一度、失敗だったのだ、と越智姫は繰り返した。

「死神は人類全てに呪いをかけようとした」

 自分勝手な人間達へ、すべからく神罰を与えるべし。その呪いは恐ろしく強大で、人が滅びかねない程の物だった。

「すんでの所でそれに気がついた術者が、自らの命と引き換えに更に封印式と浄化式を施したが、それは途方もない年月を必要とするものだった。その間、死神は一歩たりとも人間界に出してはならない。死をもたらす力は、依然健在だったからだ」

 まともな結界ではそれを防ぐのは不可能だった。

「だから、死神を封じ込めた人間諸共閉じ込めるしかなかった。それが我ら死神の一族の由来だ」

「それで、幽閉されていたんだ」

「ああ。亡者達は、その当時の術者達のなれの果てだ。禁忌を犯した罪、自らの贖罪、それらを購う為に、死して尚死神の一族に仕える為に現世に留まっている」

 フラインは、少し離れた所にいる影達を見回した。だから、死者すら現れる事のできないこの強力であるらしい結界の中でも、彼等は変わる事無く越智姫と共に過ごす事が出来たのだという。

「私は、生まれてから一度も自分以外の生きている他の人間の顔を見たことがなかったのだ。ただの一度も。これがどういう事か、お主には解るか」

 その意味に気がつき、フラインは総毛立った。

「……実の親すらも?」

 越智姫は肯定の意を込めて、自嘲するように薄く笑う。

「我々には一つの掟があった。次代の死神が生まれし時は、その任を引き継ぐ。死神は代替わりをするのだ。そうして代を重ねる事によって、施された呪いを徐々に浄化していく為に。だから、死神は誰とつがう事もなく、一人で子を為す事が出来る。しかるべき年齢になれば、自分の子を設ける事が出来る。私の母は、そうした。そうして、その任から解き放たれた」

「そんな――! そんな勝手な!!」

 その親としてあるまじき行為、自分の苦行をただ子供に押しつけて逃げるということが、フラインには全く許せることではなかった。そんなフラインに、越智姫は哀しそうに目を伏した。

「私もそれを知った時には、それをすることが出来た。だが、選ばなかった。選べるわけがない! 血を分けた自分の分身を道具のように扱うなど、絶対に出来なかったのだ!!」

 越智姫の叫びに、フラインはだからこそ、彼女なんだと改めて強く思う。そうあったからこそ、彼女は、彼女なのだと。しかし、そこで越智姫は暗い笑みを浮かべる。

「しかし、そうするべきだったのだ。私は、残酷な選択をしていなければならなかったのだ」

「何を言うんだ!」

「そうしていれば、少なくともこれほどの人間を殺してしまうことはなかった!!」

「越智姫――」

「死神の一族は成長するほどに力を増す。だが、成長しなければ次代の死神を産む事すら出来ない。あるいは、漏れでた呪いが他の人間の赤子に転生するのを待つしかない。私は待とうと思った。思ってはいけなかったのに!」

 悲痛な叫びに、フラインは胸を切り裂かれるような痛みを覚えた。それと同時に、ふと疑問が湧く。

「でも、どうして君は外へ?」

「火事が――。私のいた屋敷が火事に見舞われて、結界が途切れた。そこへ亡者達が簡易のものを張りなおしてくれたのだが、愚かな私は一歩、結界の外に出てしまった。それが全てとなった。それだけで、死は全てを覆い尽くした」

 淡々と、越智姫は事実を告げる。殊更に自分を貶めるように、蔑むように。フラインは、越智姫のその言葉に納得がいかなかった。納得できるわけがない。この少女に、何の罪があったというのか。

「それは君のせいじゃない! 君が悪いんじゃない!」

 フラインの叫びに、越智姫は泣きながら更に自分を責め立てる。

「だが! 私がいなければ、こんなことには! フラインの国も!!」

「じゃあ僕は!? 僕には何の罪があるっていうんだ!」

 え、と越智姫は一瞬黙り込んだ。突然のフラインの言葉に、意表をつかれたのだ。罪? フラインに罪などあるわけがない。私と違い、フラインは何も悪くない。

「ただ、偶然に巻き込まれて、周りに流されただけだ! それは君も一緒だ! 僕達は同じだよ。方向が違うかもしれない。でも、僕達は同じものなんだ。罪なんてない。生きている事に、罪なんてないんだ!!」

 フラインは、全てを受け入れると言ってくれている。この5年間、日を追う毎に重くのしかかっていく後悔の念を、自身を蝕む心の悲鳴を全て解ってくれた上で、フラインは越智姫を自分と同じだと言ってくれた。ぽたりと、涙が流れ落ちる。それは頑なだった越智姫の心に穿った、小さな穴から零れ落ちたものだ。そして、一度ついた勢いは止まらない。5年間、積もり積もった思いは、全て目から次々に熱い涙と共に流れ出ていく。

「越智姫、僕は君と共に生きるよ。例えどんな事があっても。絶対に、最後には君の傍にいる」

 本当の自分を明かした上で、フラインは、越智姫と共に歩む事を選択した。もう、あらゆる言葉では伝えきれない思いが、越智姫の全身をくまなく包んでいった。それは、自然に身体を突き動かす。

「フライン!!」

 越智姫は飛び込んだ。本当に愛しい人。本当に愛してくれる人の胸へ。暖かく抱き締めてくれる人へ。

「私は……、私は、幸せになってもいいのか!? フラインと二人、ここで幸せを築いてもいいのか!?」

「幸せになる権利を奪う事なんて、誰にもできやしない。君が自分を許せないなら、僕が君を許そう。僕は君を許しつづけるよ。一生」

 自身、決して幸福ではない、それどころか越智姫に匹敵する不幸を背負いながら、この少年は人殺しの自分を許してくれるというのか。越智姫は、今、正に、本当の幸せが胸一杯に広がっていくのを感じる。フラインの胸に深く顔を埋め、5年間、いや、これまでの人生での思いの丈を、全てフラインにぶつけるように、声を上げて泣いた。それは、五年前のあの日、焦土の上で上げた慟哭とは、似ても似つかぬものであった。

 涙も収まった頃、フラインは越智姫の頬に手を添えて自分に向ける。越智姫も、そんなフラインの手に自分の手を添えて赤くはれぼったい瞳でフラインを見詰めた。二人はどちらからともなく、極自然に顔を引き寄せ合い、瞳を閉じて口付けを交わす。お互いに生まれて初めてのキスは、とても長いようにも、とても短いようにも感じる時間を、二人に共有させてくれる。

 名残惜しそうに唇を離して暫くも、フラインと越智姫は二人、優しく抱き合っていた。そこへ、今まで口を差し挟まなかった影達が、祝いを述べる。

「おめでとうございます、越智姫様」

「ふわっ!? お、お、お、お前達! ま、まさかずっと見ていたのか!?」

 フラインとの睦み合いを見られていたという羞恥心から、動揺して慌てる越智姫。フラインも、とても気恥ずかしそうに顔を赤くして俯いている。しかし、影達は別段からかうこともなく、むしろ真摯な態度で二人に語りかけた。

「今日は、本当に、本当にめでたき日です。よもやこのような日を迎えることが出来るとは……。私達影一同は、あなたがた二人を、心から祝福します」

「お前達……」

 影達はゆらゆらと祝福を表す。彼らはいつだって、越智姫を見守ってきていたのだ。その彼等に祝ってもらえる事が、越智姫は何よりもありがたかった。

「越智姫様。これは良い機会ですんで、ゼヒこれを機におしとやかになってくださいよ。そしたら己らもちったあ安心できるンですがね」

「な、私はいつだって貞淑だというのだ!! のう、フライン?」

 影達に対する剣幕とは裏腹に、フラインには花が咲いたような笑顔を向ける。しかし、同意を求められた当のフラインは答えに窮していた。

「むぅ、何故"そうだ"と言わぬのだ!」

「いや、それは……」

 と思ったら今度は痴話げんかもどきが始まる。痴話げんかというには少々可愛らしすぎるきらいがあるが、二人は、それはとても楽しそうだった。

「ふう……。馬に蹴られるかと」

「お主は軽はずみな事を言うでない。私達までとばっちりをくうではないか」

「へいへい。とはいえ……」

「言うな、今は考えてはならん。今日は素直に祝うが良しだ」

「……そうだな」

 神妙な雰囲気の影達へ、越智姫の明るい呼び声がかかる。

「お前達! 今日は歌を歌ってやろうぞ!」

 機嫌の良い越智姫の言葉に、影達は色めき立って越智姫の元へと駆け付ける。

「誠ですか! それは楽しみですな」

「いいねえ。フライン殿は確かまだ聞いた事がなかったでしょうや」

「歌? 越智姫、歌を歌うんだ」

 初耳のフラインへ、影達はとても珍しく興奮したように説明をした。

「越智姫様の歌は、我々亡者にとって唯一の楽しみなのです」

「あの歌声を聞けるなら、普段のわがまま振りも許せちまうぐらいでな」

 影の一人の言葉にピクリと反応した越智姫は、剣呑な目つきになってその影を睨む。

「止めるか、歌?」

 この脅しは効果覿面で、睨まれた影は慌てて平伏する。

「めめめ、滅相もない! 越智姫様は歌も性格も最高ですよ!」

 その様が愉快なのと、純粋に自分も聞いてみたいと思ったフラインは、影達に助け舟を出した。

「僕も聞いてみたいな、越智姫の歌」

 フラインの言葉に、越智姫は顔を赤らめる。

「そ、そうか? 影供は少々おおげなのだ。少し恥かしいが、フラインがそう言うなら是非聞いて欲しい」

「うん」

 フラインの笑顔に頷き、越智姫は小さく咳を一つ取って喉の調子を確かめる。目を閉じ、軽く深呼吸。少し早めの鼓動を落ち着けて、姿勢を正す。準備万端整ったその唇が割れ、そこから信じられぬ程美しい歌声が生まれた。

(これは……凄い!)

 雑音でその歌声を邪魔するのがためらわれるほど、彼女の歌声は美しく、圧倒的な迫力を持っていた。何度もその歌声を聞いたことがあるはずの影達ですら、今日の歌声には圧倒されて感嘆の言葉を言うのも忘れている。

(越智姫様の歌、今日は今までの中でも間違いなく一番素晴らしい!)

 それが、彼女の心の変かによるものなのだろうかと予測するが、すぐにそんな余計な事を考えるのは止めて、素直に歌に身を委ねる事にした。これほどの歌は、もう聞くことが出来ないかもしれない。フラインと影達は、この感動を決して忘れないように、ただ歌に身も心も溶かされていくままに聞き入る。

 気が付けば、歌い終わった越智姫がかなりの疲れを見せながらも、自分でも会心の出来であった事に満足して小さく笑っていた。

「凄い! 凄いよ越智姫! 僕、歌でこんなにも感動したのは初めてだ!」

「そ、そうか? でも、フラインがこれほど喜んでくれて私も嬉しいぞ」

「喜ぶなんてもんじゃないよ! 越智姫、僕はもっと君の事が愛しくなったよ!」

「て、照れるではないか……でも、私だって、お主の事は愛しいのだぞ」

「解ってる。解ってるよ」

 疲れで少しばかりフラついている越智姫をしっかりと支えて、フラインはその頭を優しく撫でさする。越智姫も、身体の力を抜いて全てをフラインに預け、そのまま気持ち良さそうに寝入ってしまった。

「今宵の越智姫様の歌は、素晴らしいものでした」

「うん、そうだね。僕も驚いた」

「あなたのおかげですな、フライン殿。礼を言いますぞ」

「僕は何もしてないよ。ただ、彼女の事が大事なだけだから」

「我々もそうです。フライン殿。越智姫様と、どうか幸せになってください」

「うん。僕も、そう願うよ。ずっとずっと、彼女と一緒にいられたらね」

 影達も、フラインも、そして越智姫も。幸せがいつまで続くのかを、考えなくてはならないのだ。でなければ、終焉に向かっていくのは、もう誰にも止められない。その終焉を、どう意義あるものにするのか。その晩フラインは、その事を幸せそうな越智姫の寝顔を見詰めながら、真剣に考えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る