生の解放

 真っ青なグラデーションの中を、小さな影が白い尾を引きながら凄まじいスピードで滑走していく。それは時速換算にして300kmという速度で進む小型船だった。しかし、その船には人の気配がまるで感じられない。高度に自動化された設備は、全て人間がいなくとも機能するように作られている。それはコミュニティの残された技術を全て集約して建造された極めて特殊な船だ。その中に、唯一動く影があった。それは、あの少年、フラインである。フラインは何故か似合うとも思えない着物姿で、一人でいる分にはだだっぴろい船室にたたずんでいた。ふうっと深呼吸し、自分の体を落ち着けようと試みる。何しろ、デッドラインまでもう間もなくなのだ。

「大丈夫、落ち着け。君ならば平気なはずだろう?」

 耳につけている小型のイヤホンからそんな声が届いた。ノーマッドだ。平気なものか、と思いはしたがそれは口からは出なかった。彼には、散々優しくされている。自分に対してあんなに真剣に、"人間として"付き合ってくれたノーマッドに対しては感謝してもしきれず、出来るなら期待に答えてやりたい。フラインは、それでも死ぬということに対する恐怖を拭う事は出来なかった。そう、全然平気じゃない。フラインは、今までに何十、何百と経験してきた"死"が、いつまでたっても慣れることのないものだということを知っている。"死ねない人形"それがフラインに与えられたニックネームだ。しかしそれは偽りだ。彼は人形のように大人しくされるがままに受け入れる事をいつまでたっても出来そうにないのだから。

「とにかく、何が起こるか解らん。この1年間で学んだ事を思い出し、落ち着いて対処するんだ」

「……わかりました」

 答えた瞬間にピー! という甲高い電子音が響く。デッドライン通過まで後30秒だ。

「いよいよだ。来るぞ……」

 心の中でカウントをとる。25、24、23、22―――。ぎゅっと目をつむり、膝の上に置いた手を固く握り締めた。13、12、11、10―――。テンカウント。ふっと、頭をよぎるのは、彼が今までに見たことも無い黒髪の少女の姿だった

。3、2、1、0―――。ピーーーー!!

 その瞬間、フラインは、今までに味わったどんな"死"よりも圧倒的で絶対的で絶望的な喪失感におそわれた。心停止、などという生易しいものではない。それは、そう、瞬きをする間もなく強制的に五感を全て奪われ、意識を刈り取られる。視界が白く霞んでいく。驚き自分の両手を眺めると、白く光り輝く雪のような物が、自分の身体から立ち上っていた。よく見るとそれは手だけではない。全身から、大きさも速度もばらばらに雪に似た光りが身体中から天に向かって昇っていく。それは、まるで水の中で気泡が上昇していくように、穏やかに、緩やかに。やがて、フラインの目の前は淡白い光りで埋め尽くされて、何も見えなくなった所で、意識が途切れた。

「おい、フライン! 目を覚ませ、フライン!」

 フラインは船内に倒れたまましばらく微動だにしなかったが、イヤホンからの心配そうな叫び声に気がつくと、少し顔をしかめ、ゆっくりと体を起こした。

「はい……はい。大丈夫……と思います。時間は、どれぐらいたっていました?」

「15分少々といったところか。やはり、今まで最長を記録したな。これほど長い間"死んで"いたことはないだろう。もう、蘇生しないかと心配したぞ」

「そう、ですか……。でも、もうデッドラインは突破したんですよね?」

「ああ、だがもうすぐ絶対防衛線(ボーダーライン)に入る。そこから先は、何故か一切の電子機器が作動しない。その後の行動は前もって指示した通りだ。記録用の筆記具の点検を忘れるな」

「解ってます。それでは……」

「ああ、幸運を祈る」

 交信が途切れる。最後の言葉を頭の中で反芻して、しらずフラインは口の端がひくりと上がる。

「幸運、か」

 それを言うならば、今のこの状況が既に幸運といえるだろう。実験生物以外の扱いを受けてこなかった今までに比べて、今は自由の身だ。破格の幸せと言える。そこで、ふとフラインはある事に気が付いた。このデッドラインのこちらがわにはいかなる者も立ち入ることが出来ない。更に、ボーダーラインの向こうに入ってしまえばいかなる手段を用いても、彼を認識するのは不可能となる。

「は―――」

 何故気がつかなかったのだろう。そうとも、この向こう側に行けば、自分は完全に自由となれるのだ。律儀に人でなしどもの言う事を聞いてやる必要がどこにある? ノーマッドには申し訳無いと思う気持ちもあるが、しかしそれにしても戻れば、用済みの自分にはまた地獄が始まるのは目に見えている。

「―――」

 フラインは、腹を抱えて笑いたくなる衝動をかろうじてこらえた。まだ人工衛星から監視されていられるエリアなのだ。だが、それも―――ピー!―――越えた。自由の世界に足を踏み入れたのだ。

「あはははははは!!」

 今度こそ遠慮無く大声を上げて笑い出した。ここまで笑ったのは、随分前に"笑い死に"の実験に付き合わされた時以来だ。

「僕は、生きる! 死なずに!」

 叫びは大海原の果てに響いた。天を振り仰いで両腕を突き上げる。

 そして生き神は自由を得た。

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