生き神

 暗がりでもぞりと動くものがある。一切の光が差さない闇の中で、それはみじろぎした。人間のように思えるが、この空間でそれを判断するのは不可能だ。

(お腹空いたな……)

 その者は前に食事をしたのがいつだったかは忘れたが、随分と長い間食べていないように思った。しかし自分は飢え死にする事は"出来ない"。それでも、一応の食事の配給は思い出したようにやってくる。子供の頃に食べた、母親のミートパイの味を思い出したが、ここではそんな上等な物が出てくるわけも無い。仮にミートパイが出たとしても、それは母親の味ではない。

 ガンッ! ガコンッ……!

 突然の反響音に驚いて、上半身を起き上がらせる。食事の配給なのだろうか?しかしそれにしては随分といつもと様子が違う。無遠慮な足音が響いてきて、自分のいる場所のすぐ近くで立ち止まったようだ。

 ピピッと電子音が短く鳴り、次いでガチャリとロックが外れた。ドアが開き、もう何日ぶりかも忘れた光が部屋の中に差し込んでくる。

「No666、出ろ」

 逆行で判別のつかない人影が短く命令した。光に当てられた人物の顔は、それは驚くべき事にまだ少年と言っても過言ではないほどあどけない顔をした人物だった。久しぶりの光は、強烈な刺激となって少年のブルーの瞳を焼く。パサつき色艶を失った金髪に光りが透かされて、少年の頭皮を暖めた。

「早く出ろ」

 怒鳴るわけではないが、有無を言わさぬ口調で急かす。

「う、うう・・・・・・」

 少年は、うめきごえをあげながらも、逆らわずにいた。おとなしく従って光溢れる廊下へと進み出る。

「ほら、歩け!」

 どんっと強い調子で背中を押され、多少よろけた。少年は一瞬その兵士を振り返ろうとして、やめた。ここで反抗的な態度と取られて、酷い仕打ちを受けるのはごめんだったのだ。

 天井に整列している蛍光灯の不自然な白さが、少年の心をかき乱す。ただ光の元を歩いているだけだというのに心穏やかならず、ふらりふらりと千鳥足になっていた。

「どうした、ちゃんと歩け!」

 ぐいぐいと後ろから冷たい銃口を背中に押し当てられ、少年はだが慌てずに自分の足を頼りなげながらも軌道修正した。

「こっちだ。早くしろ!」

 普段はぴっちりと閉じているであろう重厚な扉の向こうでも、兵士が怒鳴り散らしていた。少年は心ばかり足を速めるが、そうするとやはりふらふらとおぼつかなくなる。

「ったく、なんてノロマだ。ゲストをお待たせするんじゃない」

 もう自分で歩かせる事も煩わしくなったのか、二人の兵士は少年の両脇を抱え上げ、引きずるようにして運んだ。少年は軽い痛みを覚えたが、しかし自分で歩くより楽なので、何も言わずになすがままにされていた。長く単調な廊下を幾分か連れて行かれた時、目の前に大きなドアがあるのに気が付いた。どうやら、そこが目的地らしい。

「No666をお連れしました!」

 兵士がきびきびと扉に向かって声を張り上げると、中から落ち着いた若い声が返ってきた。

「よろしい。入りなさい」

「はっ!!」

 兵士が無駄一つ無い動作でドアを開ける。後ろから、ぐいと押し出されるような形で室内によろよろと足を踏み入れた。恐る恐る顔を上げると、そこには20代後半と思しき、メガネをかけ、髪をオールバックにして後ろで縛りまとめて、一目で知れる上等なスーツに身を包んだ神経質そうな青年が少年に一瞥をくれていた。

「初めまして、フライン・キンダー君。私はノーマッド。君の力が必要なんだ」

「………………」

「ん? 名前が違っていたかね?」

 少年が余程変な顔をしていたせいで、ノーマッドと名乗る人物は不思議そうに問い返した。だが、そうではなかった。少年は、呼ばれたのが自分の名前だと思い出すのに時間を要したのだ。彼は常にナンバーで呼ばれ、管理されてきた。自分の名を、すっかり忘れてしまっていたのだ。そしてもう一つ。そのノーマッドと名乗る男からは、懐かしい匂いがすると思った。

「う……あ、い、い、い……」

 違う、そうじゃないと否定しようとしたのだが、上手く言葉が出てこない。

「これは……、君は、言葉を忘れてしまったのか?」

 違う、忘れたわけではないと言う意思表示として、首を左右に振る。

「そうか。まあ今までが今までだったんだ。喋れなくなってもムリはない、が……」

 そこでノーマッドは、憐れむような憤るような顔をこしらえたが、それも一瞬の事だった。

「だが、君にはやってもらわなくてはならんことが出来た。その為にも、言葉は必要だ。そして、君には新たな言語を習得してもらう必要がある」

「……?」

 それはいつもの実験とは様子が違っていたようだ。そう、正しくいつも通りの実験ならば言葉など必要無い。その時に必要なのは計測値なのであって、彼の言葉ではなかったのだから。

「君には、ジャパニーズを習得してもらう」

 知識の乏しい少年には、それがどこの国の言葉なのか、どういう文化なのか想像もつかなかった。だが、それを考える必要はない。何故ならこれは命令で、逆らう事は出来ないのだから。たいして間も置かずに、少年はこっくりと首肯した。

「よし、では早速向かおう。色々と勉強しなければならないからね」

 ノーマッドは少年に、とても暖かな眼差しを向ける。少年はその言葉に、実に十何年かぶりに外に出られるのだとしり、ようやく心の中でうずまいていた猜疑心がゆっくりと解けていくのを感じた。

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