吹奏楽

@okitsunesama

第1話

 中学校の入学式。桜は猛烈に降っている雨によって、濁った薄紅色の絨毯を作っている。それも、車に踏まれてゴミと変わらない様相になっているが。


 殆どが小学校の知り合いの中の入学式は、特になんの感慨もなく終わった。クラス分けにも特になんの思い入れもない。それなりに仲の良い人たちが、それとなく集まって、いつのまにか塊になる。私もそれに例外なく収まってきた。


 そういえば、入学式の時の吹奏楽部の演奏は耳に残っている。よく分からない曲だったが、よく響いて心地が良かった。明日は部活動見学だ。吹奏楽部に入るのもいいかもしれない。



 そう、思ったのが間違いだった。








 部活動体験の日、トトロメドレーを先輩方が演奏してくださった。それもまた上手くて、やっぱり格好良いなぁ、と思いながら入部するかどうかは迷っていた。

 しかし、結局友人が入るということで私はなんとなく入ってしまった。半端な覚悟すら持たないで。





 何日か経ち、担当する楽器が決まった。クラリネットだった。銀色のキーと黒のボディは中々に格好良く、私も気に入っていた。

 私は適性があったようで、直ぐにマウスピースと呼ばれる、楽器上部の部品だけで吹くテストを合格した。先生からも期待されていた。


 楽器をしっかりと組み立て、全部の音が出るように練習を重ねる中でも、私はすぐに音が出るようになった。元々、ピアノを嗜んでいたのもあるだろうが、楽譜も読めるし、運指を覚えるのも早かった。


 しかし、私が順調に進んだのはここまでだった。


 『音質』と呼ばれる音自体の美しさ、それが私には皆無だった。


 周りの遅れていた人が私とか同じ工程を経て、私よりよっぽど上手くなってしまったのだ。同じ量の練習、いや、それよりも私の方が多い練習をしているはずなのに、差がついてしまった。


 先輩方と一緒に合奏をしていても、私が注意されることが日に日に多くなった。

 そもそも、クラリネットパートは注意されて、怒鳴られることがよくあったのだが、特に私が練習を止めてしまうことが多い。





 止められるたびに死にたくなる。顧問には廊下に追い出され、後輩の尻拭いとして先輩も呼ばれ、その先輩は合奏には出れない。

 こんなに非合理的で、優しくて残酷なことがあるだろうか。合奏に出れる水準の先輩が下手な後輩に付き合って、自分は成長の場にいることができない。それなのに優しく、言ったことすらできない私に教えてくれるのは。酷いと思う。



 泣きながら廊下に行って一人で練習する。その繰り返しをしているうちに、コンクールに出ることができない人たちが出てきた。1年でコンクールメンバーにのれるのは5人だ。だからそれ以外は落とされる。それなのに私はまだ落とされていなかった。

 その中途半端さが辛かった。

 合奏に入れているようで、すぐに追い出される私は結局その場にはいない。落ちた組では、コンクールに出ない代わりに簡単な曲を楽しく吹いている。顧問も先輩もいない環境で、楽しく吹いている。


 どちらにも属さず、1人で廊下にいると、頭が狂いそうになる。

 あぁ、ここもできてない。ここもここもここも。そもそも音が悪い。これでは指が動いてもまた追い出される。どうする。どうすればいい。涙で前が見えない。楽譜が見えないじゃないか。鼻水も垂れてくる。あ、音楽室にティッシュ忘れた。戻れるわけがない。また合奏を止めてしまう。大体、吹けるようになったら音楽室に戻ってきなさい?冗談じゃない。一生戻れないじゃないか。あぁ、一本しか無い良いリードがダメになってしまった。でも私の良いリードは他の人にとっての悪いリードの暗色と変わらない。なら、なんでもいいんじゃないだろうか。ひっ、足音。顧問が来たのか?まだできてないのに。あぁ、死にたい帰りたいなにもしたくない。消えたい散りたい空気になりたい。あ、顧問じゃなかった。落ちた組楽しそうだな。でも顧問にも先輩にも相手にされなくなる場所には行きたくない。でもこんなに辛い場所にいて、本当に大丈夫なのか。死なないか。あぁ、そんなことを考えている場合じゃない。練習しなきゃ。上手くならなきゃ。期待に応えなきゃ。


 そう思っていると、視界がブラックアウトした。そういえば今はセミも鳴いて、髪も首にへばりつくような暑い季節だった。水、いつから飲んでないっけ。






 起き上がると後頭部が痛かった。どうやら倒れたらしい。楽器はちゃんと体の中心で抱えて、故障もなさそうだ。自分なんかより楽器の方が大切だ。私がいなくなっても、来年に入る才能ある人に使ってもらえるから。

 廊下の隅っこで20分ほど倒れていたようだ。人が通りにくいところで吹いていたせいで誰も気がつかなかったらしい。さて、じゃあ練習しないと。完全下校時間まであと30分。それだけ耐えれば、終わりだ。


 先輩が今日の練習は終わりだと言って、迎えに来てくれた。顔色が悪かったらしく心配されたが、大丈夫だと言って音楽室に戻った。心臓はばくばくしていた。今にも破裂しそうだった。

 もどったら、案の定、顧問に今日廊下に出るきっかけとなったワンフレーズを吹かされた。最初よりも下手になっている。何をしていたんだ、と怒られて、ボロボロ泣いた。泣いてどうにかなるならみんな泣いている。私の方が泣きたいくらいだ。と言われた。

 泣きたくて泣いたわけじゃないのに。ぐるぐると、どす黒い感情が私の中を回った。でも、下手な自分が悪い。自分の中の何かが折れた気がした。すみませんと謝って、楽器を片して、帰路についた。


 コンクールメンバーの友達と一緒に帰るのは辛くて、泣き顔をこれ以上見られたくなくて、私は最近1人で帰る。前にある夕日と後ろにある夜。明日に追っかけられてるみたいで、死にたくなった。







 家に帰っても、もちろん練習だ。誰よりも下手なのだから。8時になって親にやめなさいと言われてやめる。それまでは飲まず食わずだ。

 やめてご飯を食べようとしたら、吐いた。


 その夜は39度の熱が出た。もしかしたら熱中症だったのかもしれない。









 コンクールまであと1ヶ月をきった朝。

 私はコンクールメンバーから外された。

 職員室に呼び出され、お腹も痛くて頭も痛くて吐きそうになりながら、重い足取りで向かった。嫌な予感しかしなかった。

 涙は出なかったが、その通告をされた以外はなんと言ったか覚えていない。

 いつのまにかトイレにいて、吐いていた。


 気付いた時には、練習がもう直ぐ始まるくらいの時間で、吐いて気持ち悪くなった口を、二、三度ゆすいで、先輩達がいる教室に向かった。

 廊下は妙に長かった。



 今まで丁寧に教えてくださった先輩方にコンクールメンバーから外されてしまったことを話した。そしたら先輩は泣いてしまった。

 ずっと、誰よりも頑張ってきたのにね。私の教え方が下手でごめんね。そう言った。

 そう言われて、急に涙が止まらなくなってしまった。顧問に言われたときには出なかった涙が止まらなくなった。床にぺたんと座り込んで、泣き続けた。






 コンクールは恙無く進んだ。

 私は雑用係として、キーボードを運んで、チューニング用に音をとったりして、落ちた組の誰よりもコンクールメンバーの側にいた。

 もしかしたら、私が出ている側だったのかなあ、と思うと、悲しくなった。


 結果発表の時にも、金賞をとって上の大会に進んだ時にも、素直に喜べなかった。優しい先輩たちがどれだけ練習してきて、どんな心持ちでこの大会に臨んでいるのか、知っているくせに。

 それでも、今大会が終わってくれれば、楽しくて、気が抜けてて生温い、落ちた組から抜け出せるのに、と思っていた。

 だけれども、このまま進んでくれれば、あの辛い思いをしなくていいのに、とも思っていた。

 ぐちゃぐちゃの自分本位の考えしか持っていない私は、先輩方におめでとうございますという他になかった。










 東関東吹奏楽コンクールまで2週間を切ったある日。

 顧問は外部からその楽器ごとのプロをたまに呼んでくれるのだが、今日はクラリネットの先生がいらっしゃる日だった。

 ドキドキしていると、いつもの方と違う先生が来た。あれ、と思いながらも基礎練習から教えてもらった。



 そうしたら、全然違ったのだ。いつもの先生の教え方と、どんな音がいいのかの基準も、クラリネットに使う部品の良し悪しも、全部全部全部。

 先輩たちは、私たち1年よりも長くいつもの先生に教えてもらっていただけあって、違和感が凄かったようだ。

 でも、今回の先生は実際に上手くなっている実感があった。今まであった、違和感が全くなかった。

 吹き方も変わったし、いい音色の定義も変わった。

 先生も急に変化した私たちを、不思議に思ったのだろう。先生がお帰りになる少し前に全員にアドバイスを下さった。

 その中でも驚いたのが、私たちの使っているリードの厚さとマウスピースの種類が悪すぎる、ということだった。これはすこし誇張表現だが、果物ナイフでマグロを捌こうとしていたようなものだと思ってほしい。

 つまり、器具が悪かったのだ。



 本当に盲点だった。ずっと自分が悪いと思っていたのに、急に器具や、教えてもらっていた先生が悪かったかもしれない、という責任転嫁できる場所が見つかったのだ。

 全員の楽器を見てもらうと、私の組み合わせが一番悪いということだった。悪いというより酷いと言った方が正しいくらいに。



 ふざけるな、と思った。あれだけ練習して、他の誰のせいにも、何のせいにもせず、ひたすら自分を追い詰めて、練習してきた。練習量は多かった。練習の質も自分で考えて、先輩にもアドバイスをもらって、高い水準でやってきた。

 それなのに、意識しないようにしていた、そもそもが、悪かった?

 嘘でしょう?

 器具を全部変えて、うまくなったら、それは良いことなんだろう。きっと、誰も彼も、良かったね、とか、上手くなったね、とか言ってくれるんだろう。

 よくない。よくないんだ。

 私はコンクールに出たかった!!


 軽い気持ちで部活に入って、予想以上にレベルの高かった練習に耐えきれなくなって、友人が辞めていく中で、辞める勇気もなかった私は必死にくらいついた。

 そんななかで、努力は必ず報われるって信じてた。だから誰よりも練習して、練習して、練習した。

 やっぱり才能なのかな、とどこかで思いながらも、きっと、こんな田舎の学校に、素晴らしい才能なんていない。努力で追いつける程度の才能しかないはずだ、とぐちゃぐちゃの理論で気持ちを持たせてた。


 そんな風に生活している中で、私のコンクールへの憧れは日に日に増した。そうしなければ、モチベーションなんて保てなかった。


 なのに、出れなかった。外された。


 落ちた組の生温い練習は、追いつけないくらいにコンクールメンバーとの実力の差が出てしまうんじゃないかって、毎日が恐怖で不安だった。

 どこかで諦めていた才能とやらの力と、高い水準の練習環境で、コンクールメンバーの友人がとても遠くにある存在のように感じていた。







 じゃあ、あの恐怖と不安にまみれた日々はなんだったんだ。情緒は常に不安定だった。急に泣き出すことなんてザラで、軽く倒れたり、吐いたりすることだってあった。

 明日が怖くて、明後日はもっと怖い。自分の醜い嫉妬や妬み、諦めの感情が膨れ上がるのも、明日の自分が急に勇気を持って自殺できてしまうかもしれないって思うのも。怖かった。

 生きてるだけで怖かった。

 毎日寝れなかった。

 ご飯も食べれなかった。

 心配をかけたくなくて、その場をごまかすのも大変だった。気丈な振る舞いも心と体が分離しそうで嫌だった。


 器具だったのか。全部あれが?

 いや、まだきまったわけじゃあない。

 器具を変えて、練習してみよう。












 先輩方は、東関東吹奏楽コンクールでは無事金賞を取ることができた。

 しかし、次へと進むことはできなかった。



 全員が涙を流して、悔しんで、先輩と別れることを惜しんで。

 勿論、私は優しい先輩たちがいなくなるのが悲しかった。

 アヒルの子供のように、いつも質問とアドバイスを求めてついて回った私を、嫌がることなく教えてくれた先輩は、大好きで、これ以上なく尊敬してる人だったから。


 それでも、コンクールが終わったことは嬉しかった。

 私はあれから、急激に上手くなっていたから。

 自分が認めてもらえるかもしれないと思うとわくわくした。


 そんな自分が死ぬほど嫌だったが。











 3年の先輩方を抜いた新体制での合奏を重ねていくうちに、私はどんどん上手くなった。

 コンクールメンバーになっていた、先輩の上手さを抜いた。

 コンクールメンバーになっていた、私と同学年の友達は余程上手かったらしく、まだ肩を並べるには至っていないが、それでも、追いつき始めている。

 今では先輩の方が先生に注意されることもしばしばだ。


 私の情緒と体調は安定していた。




 その年もまた、東関東吹奏楽コンクール金賞で終わった。













 私たちの代は黄金期だったらしい。どのパートも私たちが最高学年になった途端に一段階上手くなった。

 この頃になると、先生に怒られることはまずなく、泣くとしたら、自分の下手糞さに勝手に泣くと言った感じで、今思うと極まっていた。


  



 私たちは順調にコンクールを進み、先輩たちが越えられなかった、東関東吹奏楽コンクールを抜けて、東日本吹奏楽コンクールで金賞を取った。



 全てが報われたような気持ちになった。

 そんなはずはないのに。










 今でも吹奏楽部1年だった頃を思い出すと、吐きたくなるし、トラウマだ。

 もう一回吹奏楽部に入部できるか、と言われたら、あの自分と向き合いながら、練習する日々は頭がおかしくなりそうで、一生できないと思う。


 でも、最後の一年は楽しかったし、先輩の優しさに触れて、先輩の難しさを学んだ。

 自分の本質についても考えて、感覚的に捉えることができるようになったし、根性も得た。

 礼儀作法や挨拶の大切さ、メモをとること、行動は素早くする、スケジュール管理、パートごとの兼ね合い、他にも色々、社会に出る上で重要なことを学んだ。



 だからといって、あの時代は一生許容できないが。




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