第14話


         ※


 どうやら僕は、エレベーター内でアバターの顔を目視し、そのまま気を失ってしまったらしい。


 ここ数日のことを思えば、一体僕は、何度気絶すれば気が済むのかと呆れ返りそうになる。

 だが、仕方がないだろう。自分が現実世界の戦場で、戦闘用アバターとして操縦していたのが自分の親族、それも年端もゆかない少女だったとしたら。そしてその事実を、彼女の蒼白な顔を以て示されたとしたら。


 その時、流果の顔には明らかに死相が浮かんでいた。僕は、彼女が死んでしまったのかもしれないと思ったのだ。


 この世で気を許せる、たった一人の家族。

 僕の心の拠り所であり、保護対象であり、性も何も関係なく、純粋に愛情を注ぐことのできた存在だ。

 それが目の前で、まさに息を引き取ろうとしている。いや、もしかしたら既に手遅れかも。


 想像してみてほしい。もし目の前に神(悪魔でも何でも構わない)が現れて、『明日からお前にだけは太陽が当たらないようにしてやる』と言われたら。『お前にだけは水を与えない』と告げられたら。


 始めは皆、どうかしていると思うだろう。相手の素性を疑い、自分の耳目の感覚を研ぎ澄ませ、否定しようと食って掛かるに違いない。

 だが、現実に光を奪われ、目の前で水が失われてしまったとしたらどうか。


 僕には、そんな人間の気持ちが分かるような気がしている。

 その場で卒倒するか、半狂乱になって暴れ回るか、あるいはその両方か。僕の場合は両方だったらしい。これは、後で古川から聞かされたことだ。


 全く記憶にはないのだけれど、僕は担架の上の流果に縋りつき、彼女の名前を連呼しながら喚き散らしたという。

 やや広めとはいえ、エレベーターという個室の中でそんなことをしたものだから、僕が医療スタッフにどれほど迷惑をかけたか、想像に難くない。


 喉が嗄れるまで大した時間はかからなかったそうだ。それから止めに入ったスタッフに拳骨を振り回し、ふらりと足元を絡ませて脱力。そのまま気絶。全く、自分でも何がしたかったのか、さっぱり分からない。

 いや、分からないからこそそういう言動に出たのだろう。喚き声や拳骨は、自分の無力感を振り払うためのものだったのかもしれない。


 僕は、その日の夕刻には気がついた。そしてそこが、今まで運ばれてきていた古川のラボではなく、自分に宛がわれていた個室のベッドの上であることに気づく。


「ん……」


 我ながら大したものだと、自分の脳を褒めてやりたい。起き出して突然パニックになるという事態は防ぐことができたのだ。

 よくもまあ、『流果が戦場に駆り出され、大怪我をして帰ってきて安否不明』という現実に、整理をつけられたものだと思う。


 すると、この薄暗い部屋の反対側から、弱々しい声がかけられた。


「……あんちゃん」

「流果……」


 恐る恐る声をかけてきた流果と、それに十分答えることのできない僕。

 そろそろと上半身を起こすと、流果は部屋中央のテーブルの向かいで、自分の膝を抱くようにして座っていた。


『大丈夫か』と尋ねようとして、僕はふっと息を飲んだ。天井の隅に、監視カメラが配置されている。旧式の、いかにも撮影中、といったカメラだ。

 そのレンズが軽く部屋の照明を反射する。このカメラの向こうにいるのは誰だ? 父か? 古川か? 憲兵か?


 いずれにせよ、このカメラが監視ではなく、僕に対する牽制のために設置されたのは間違いない。それほど酷い暴れっぷりを露呈してしまったのか。

 

 ふと、全身の関節が軽い痛みを訴えた。手足同時にだ。


「動かない方がいいって、古川センセが言ってた。強く壁にぶつけちゃったから、って」


 消え入るような流果の解説に、僕は『そうか』と一言。

 しかし、流果に足を向けたままこの場にいるのも気が引ける。僕はゆっくりと、節々の痛みを確認しながら、慎重に床に足を着いた。


 流果はといえば、床から少し視線を上げ、僕の方を見つめている。しかし、その目の網膜には、何も映っていないように思われた。


「よっ、と」


 床に足の裏を着き、立ち上がる。少し歩いて、再び痛みの具合を確かめる。それから僕は、テーブルを挟んで流果と対面するように、正座で腰を下ろした。

 流果は僕の方を見ながらも、目を合わせようとはしない。このままでは、僕たちは永遠に沈黙し、やがては離れ離れにされてしまう。そんな直感に、僕は囚われた。


 何か、流果に声をかけてやらなければ。それが年長者の責務というものだろう。


「その、点滴は?」

「ああ、これ?」


 少しばかり口元を動かし、流果は自分のそばに置かれた点滴台と、それに取りつけられた袋を見上げた。


「一時的に血の巡りを悪くするんだって。またあんな風にならないように」


『あんな風に』。僕はつい、顔を背けてしまった。ヘッドギア越しにとはいえ、あれほどの大量出血を見せられては、恐怖を覚えない方がどうかしている。それも自分の肉親の負傷によるものだとしたら、尚更だ。


 再び押し寄せる、沈黙の闇。しかしそれを破ったのは、今度は流果の方だった。それも全く意外なことに、『ごめんね、あんちゃん』という謝罪の言葉で。


「本当、悪かったと思ってる。ごめんなさい」

「ど、どうしてお前が謝るんだ?」


 この期に及んで、ようやく僕と流果は目を合わせた。流果の声は淡々としていたが、瞳は深く光を屈折させているように見える。涙を堪えているのか。

 流果はこくん、と唾を飲み、勇敢にも自ら、その大量出血の件に触れた。


「あたい、あんちゃんのコントロールに従わなかった。どうしてもできなかったんだ」


『無理して語ることはないんだぞ』と言ってやりたかったが、あまりに健気で儚げなその姿に、僕は喉を詰まらせた。


「あの時、あたいは確かに、あの子を撃つべきだった。それが、あんちゃんのためにもなるし」

「僕のため?」


 僕は静かに問い返した。流果が人殺しをして僕のためになるとは、どういう意味だ?


「あんちゃんにもあたいにも、もう戻ることのできる場所なんてないんだよ。ここまで、えっと、国家機密? みたいなものに触れちゃったんだもの。もう嫌です帰してください、と言ったところで、お父ちゃんはあたいたちを、元の暮らしに戻してはくれないんだ」


 だんだんと細くなっていく、流果の息遣い。僕は察した。無理やりにでも逃げようとすれば、僕も流果も口封じのために殺される可能性が高い、ということか。

 自分の背筋に、ぶわりと嫌な汗が浮かぶのが分かる。


 僕は、自分と流果の身の振り方について考え続けることに恐怖を覚えた。

 確かに父さん――あの父の冷徹さを以てすれば、僕や流果を何の躊躇もなく殺すことができるだろう。部下である大槻などに任せてもいいだろうし、それが無理なら自ら手を下すことも考えられる。


 僕はぶるぶるとかぶりを振って、その想像を打ち消そうと試みた。どうにか話題を変えなければ。


「で、でもな、流果。お前、僕がコントロールしてない時も、怪我して帰ってきただろう? その、左腕とか」

「ああ、これ?」


 流果は気軽な調子で、軽く左肩を揺すってみせた。


「相手が突然手榴弾を投げつけてきて、避け切れなかったんだ。何とか頭を守ろうとしたら、ね」

「そう、なのか」


 先ほどの大量出血は、その傷口が開いたせいだろう。

 どうしても、話題は流果の大量出血に関することになってしまいそうである。


「その、教えてくれないか。流果、どうしてお前は僕のコントロールに従わなかったんだ? そりゃあ、僕だって現実世界で人殺しなんてしたくはなかったけど、敵は武器を持って――」

「敵って言うな!」


 僕の言葉は、途中でぶった切られた。がばりと顔を上げ、流果は怒気に燃える瞳で僕を睨みつけてくる。


「敵だなんて言うなよ、あんちゃん! あれは、あの子は……」


 そこまで言って、流果は乗り出していた上半身を戻し、視線を落とした。


「戦ってる間に気づいたんだ。あの子は、遠藤智子。あたいたちが廃棄区画にいた時に、食糧や生活用品を都合してくれてたんだ。あたいの、親友だった」


 それを聞いて、愕然とした。あのコンバットナイフ二刀流の彼女が、僕たちの生命線だったとは。

 そして、そんな命の恩人を、僕と流果は二人がかりで殺そうとしていたとは。


 知らぬ間に、僕はぎゅっと唇を噛みしめていた。


「何て残酷なことを……」


 その時、流果がどんな顔をしていたかは分からない。それを確かめる勇気が、僕にはなかった。


 次の瞬間、僕は唐突に嘔吐感に襲われた。蜂の巣にされていく少女の姿が、脳裏をよぎったからだ。


「あれが……あれが人間のやることかよ……!」


 酸っぱいものが込み上げてくる。僕は片手で胸元を押さえ、どうにか吐き気に耐えながら、もう片手で額の汗を拭った。

 そして、はっと息を飲んだ。敵、ではなく相手を殺そうとしていたのは、まさにこの手じゃないか。


 僕は、自分の身体が手先から凍りついて、バラバラに崩れ去っていくような恐怖感に襲われた。

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